武道修業と古流弓術:なぜ弓術を修業するのか?
現在修業している兵法二天一流・武道剣術、そして今後やろうとしている古流柔術、軍隊格闘術の修業を通して兵法二天一流・体術を創出することに加えて、さらに古流弓術の修業もする。
体術関連は直接的護身(武器を持たない状況での護身)という点からも分かりやすいと思うが、なぜわざわざ弓術を?と思う向きもあろうし、弓道ではなく弓術?という疑問もあろうと思う。
それらについて所見を述べたい。
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まず弓術を修業する理由についてであるが、これは兵法を知るために弓を知らなければならないというのが第一の理由である。
武士の代名詞が「弓取り」であるのは半ば常識と言える知識であるが、その名のとおり、平安末期から戦国末期までの実際に戦争をしていた時代の武士の表芸は弓術(+馬術)であった。
南北朝期のあたりから鑓(菊池千本鑓)が、戦国期には鉄砲が出現し主戦兵器の一角を占めていったが、それらによって弓が使われなくなったわけでなく、それまで主戦兵器がほぼ弓だけだったのが、弓と鑓、そして鉄砲の三つになっていったと表現した方が正しい。
それに対して剣術というのは組み討ちとなり首を取ることになった時の格闘戦技術であり、弓が表芸であれば剣術は裏芸に近い位置付けであった。
もちろん現代における拳銃と同じく、護身のために平常から二刀を差して(慶長年間以前までは太刀は佩いて=紐で帯から吊るして)いたが、それは最低限の護身のためであり、一般的には剣は弓には敵わないものであるというのが共通認識であった。
つまり、武士の社会的認識を推論すれば、武士における「戦い」とは弓を用いて敵を射貫くことに他ならず、刀は首を取る時に使う道具という認識であったといえよう。
これは江戸時代の元和偃武(とその完成たる生類憐みの令の頃)までの武士の認識であり、だからこそ、その武士たちが生み出した兵法は「弓を取っての戦い」というものを濃厚に反映したものになっていることは言うまでもない。
故に、戦国時代という武士の戦いの頂点に位置する時代のその戦いの文化の集大成たる兵法を知るためには、「戦い」の認識の大半を占めていた弓術の理解が必須であるということ。
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また、武技の面から言えば、剣術には「矢留」の技がかつてはあった。
当時の戦場では当然のことながら、自分が弓を失い剣だけになって、相手が弓を射かけてくるという状況は無数に発生した。
その時に剣で矢を払いのける防御の技=矢留の技が工夫されたのは至極当然の流れといえよう。
二天一流には直接的には矢留の技はないが(それは各自の工夫として当然に成し得ること=裏の型、秘技とされたから)、二天一流の原点である、流祖・武州玄信公が相伝した養父・新免無二の流派である当理流には目録に矢留の技が記されており、当然、流祖・武州玄信公も矢留の技を使うことはできたはずである(加えて、鑓留めの技もあった)。
ただ、その後元和偃武の時代となり、直接的な必要性を失ったことから矢留の技は廃れていった。
そういう意味でも、流祖・武州玄信公の時代の兵法を復元する一貫としても、矢留の技の研究も必須であり、そのためにはまず飛んでくる矢を知る必要があることから、弓術を学び、そこから矢を剣で止める技というものも研究しなければならないと考えた次第である。
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ここまでくれば、なぜ弓道ではなく弓術(古流弓術)を修業するのか?ということは自ずから明らかである。
弓道は江戸時代に競技化され、また武道という観点からも私の選択肢にはなかった。
そのため、古流弓術として残っているものを学ぶつもりであり、古流弓術が残っている薩摩の日置流を学びに行くつもりである。
また、伝統的な弓術流派だけでなく、そこを学びながらもさらに戦国までの弓術を独自に探究している人も発見したので、そういう人たちを尋ね歩いて技を磨いていくつもりである。
最終地点としては、武術として使えるレベル(お互い射かけ合う弓術を駆使しての生命を懸けた勝負)に仕上げ、そこから剣で矢を留めることのできる修練をできるようにすることである。
すなわち弓を打太刀とするレベルに仕上げつつ、自分でそれを払い留めることができるようになるところが最終的な弓術修業のゴールとしている。