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前近代の日本人と「男の家政学」
夕方にうたた寝してしまい、目がギンギンに冴えているのでちょっと覚書を。
面白そうだなと興味が惹かれる本があり読んでいます。
『男の家政学 なぜ〈女の家政〉になったか』(飯塚信雄・著)という本です。
『看護学原論』という本を読み、かつ南郷先生の『武道講義』の中で「家政学」という項目が学問の列に位置づけられていたことから、「家政学」という謎の存在について結構興味を持っていました。
もう一方で、戦国武将から雑兵に至るまでの様々な前近代の日本人の生活を見ていると、近代以降に作られたイメージや常識というのは、日本の歴史においてはむしろ例外的なものに過ぎないのではないか?もっと長く続いてきた日本人にとってふさわしい生活の在り方があるのではないか?「近代化=素晴らしいもの」という色眼鏡を取り払って歴史を見直す必要があるのではないか?というようなことも思うようになりました。
実際『男の家政学』では、オーストリア(ハプスブルク帝国)の教養ある貴族であったホーベルク男爵が著した『貴族の地方生活(Adeliges Land und Feldleben)』という家政学の名著として欧州の地方貴族の間で読み継がれてきた書の内容を軸に論を展開しています。
これらのことを併せて考えますと、前近代の日本人の生活を通して、近代によって歪められた生活を正し、今一度日本の歴史に回帰した(即自から即かつ対自的なものとして)日本に相応しい生活を築いていけるのではないかと思いました。
「修身、斉家、治国、平天下」という言葉もあるとおり、日本では欧米と異なり、家政学(修身斉家)と官房学(治国平天下)が分離せずに一体の地続きのものとして存在し続けてきました。
それを端的に表しているのが『五輪書』で、地の巻に「ちいさきを大きになす事、尺のかたをもつて大仏をたつるに同じ」とあるのがそれを象徴しているでしょう。
なにより、家政学にせよ一分の兵法にせよ、官房学や大分の兵法に比しての長所であるのは「一人でも修練、実践ができる」ということです。
そして一分と大分が分離せずに地続きであるということは、一人の修練でも智慧を使うことで組織だったものでしか実践できない分野にも対応できるような実力を身につけられるということも意味します。
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これらの背景を踏まえながら、己自らを戦国武士、それも縄文的基層文化からの系統発生を一身の上に繰り返したる野生的日本人としての内実を持つ存在になろうとするならば、それを可能にする生活をする必要があり、そのための論理を集大成した「家政学」というものを新たに創出する必要があるというのを考えています。
家政というのは、一身上の生活に加えて、自己の属する小規模な共同体をどうやって適切に運営し、組織も構成員もともに良くなっていけるか?ということを考える二重構造を持っています。
なればこそ、縄文から戦国を経ての前近代の日本の歴史を総覧した上での、近代の毒を解毒しつつ野生への回帰を果たしていけるような家政学理論こそ、表に現れざる武道學理論の「裏地」のような存在となるのではないか?とも考えています。
学べば学ぶほど、これからやりたいことがたくさん出てきて、一生退屈せずに楽しく生きていける人生を送れる予感がして、その出発点となった武道に出会えて本当によかったなと思います。