戦国武士が武人としての即自的完成形である理由
私の推しの戦国武士はこの記事とは異なるけれども、言わんとすることは分かる。
個人差はあるものの、戦国武士(武将を含む)を見渡してみれば、名のある者は大なり小なり、文武両道に秀でている者が多いのはこの時代ならではの特徴と言える。
武辺に優れた者は戦国時代以外にも星の数ほどいたけれども、武芸に限らず、知略を含めた兵法全般、そして教養にも長けたという総合力でいえば、900年近い武士の歴史の中で戦国武士が問答無用でトップの座にあると言えよう。
鎌倉時代~室町前半だと男衾三郎の例のとおり武辺のみで野蛮すぎ、江戸時代は識字率や文化の爛熟度こそ高いが今度は武術の実力がかなり劣ってしまう。
なので、総合力として高い水準でバランスが取れていたと言えるのは戦国武士であろう。
もちろん、戦国武士と言っても育った環境によってピンキリではあるが、やはり上級武士として教育を受けた者たちの実力は凄まじいの一言。
記事の立花宗茂もであるが、実務から諸芸諸能に至るまでの様々な技能を持っていること、そして兵法の実力とそれを文化遺産に高めたという点で言えば、流祖・武州玄信公(宮本武蔵)その人がやはり戦国時代を象徴する精華と言える存在と考えている。
また、創作の人物ではあるが、流祖に近い存在と勝手に思っているのが「SEKIRO 隻狼」の裏の主人公といえる一心様(葦名一心)である。
この二人の共通点は、
・比類なき個人の戦闘能力とその強さを一流一派として打ち立てた「剣聖」と称すべき精神性の高さ
・強さへの飽くなき探究心
・多くの人から慕われる人間性の高さ
・知略を駆使する戦いや、歴史的なものに関する造詣の深さ
・国主またはそれに準ずる棟梁としての能力
・己の弱さ、不完全さを受け止める器量
が挙げられる。
なぜか作中の登場人物のように一心様に惹かれるのは、おそらく現実世界での目標である流祖・武州玄信公とちょうど表裏の同じ存在であるからではないかと思う。
両者ともに、比類なき強さと飽くなき強さへの探究心、その強さを文化として高める精神性の高さ、深い人間性や諸芸諸能への造詣の深さなど、およそ理想と考える戦国武士の在り方を体現する存在である。
なので、今年はいろいろと目標を掲げているが、目標へ向かう己の精神の力の高まりという点でも、今年は「戦国武士への第一歩を歩む」「葦名一心としての國奪りの血戦を始める」最初の年であるという感覚がある。
即自的(自分で自分が何をしているか無自覚な状態)から、対自的(自分の背中を自分で客観視できている状態)な武人としての完成に向けての一歩を踏み出す年としたい。