鈍才教育の天才への適用:二天一流と武州玄信公(宮本武蔵)の関係
昨日書いた投稿の中で、二天一流の流祖・武州玄信公(宮本武蔵先生)について、身体的・遺伝的特徴としては剛力の大男ということを書きましたが、それでありながら非常に細やかで精妙な術技を駆使する兵法者であることを説きました。
今回はそれについて、武道學理論と流祖以降の歴代継承者の事実を併せて紐解きながらさらに深堀りしていきます。
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まず、先日の記事の関連するところをまとめますと、二天一流の技は小太刀術から派生した二刀流の剣技であり、それは小太刀術が発達した京八流というカテゴリーに属する円明流、そして円明流に工夫を重ねて流祖の師父・新免無二が創始した当理流、そして当理流の正統継承者であった流祖がさらに二刀流専門の剣術流派として新しく円明流を起こし、それをさらに発展させて二天一流へとなったという歴史を背景に持っているということでした。
その歴史的背景と現在まで伝わっている二天一流の剣技を併せて考えますと、二天一流の二刀剣技の大きな特徴として、非力な人でも真剣の二刀を駆使して一刀両手持ち以上の強く鋭い斬撃を繰り出すことができる技であるということです。
その術技の構造を一般的に言えば、腕力を否定して身体を前進させる運動エネルギーと、その前進運動を斬る一瞬だけ否定する足腰の土台力の強さ、そこから生じるエネルギーを体幹部の力を通して腕から剣へと伝える斬り方によって、腕力の無い非力な人でも大きな力を用いて斬撃できるようにするものです。
なので、もともとの術技であった小太刀術で長太刀などに対抗して大きな力を出す技法が濃厚に継承された二刀であり、基本的な身体技法として「入身」という敵に近接する接敵機動を非常に重視しています。
つまり、二刀だからこそ、一刀以上に敵の間近にくっつくまでに近接する動きを重視し、その近接する動きそのものの運動エネルギーを利用して斬撃力に転化させるところに二天一流の二刀剣技の妙味があります。
ではそれが実際に流祖・武州玄信公にどのような実力をもたらしたのか?という武道体と武技の二重構造からみていきたいと思います。
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先日の記事で書いた通り、流祖である宮本武蔵先生は、青竹の節を握りつぶすほどの剛力を持ち、当時としても大柄な身の丈6尺を超える大男でした。
しかし一方で「飛んでいる蠅の羽を箸で毟ることができた」という話や「額につけた米粒を、額には毛ほども傷を付けずに米粒だけを一刀両断するという芸当を三度繰り返してみせた」という話があるように、細やかで精妙な正確無比な技を駆使したというエピソードが伝わっており、流祖は身体的優位性に頼って荒々しく勝負を挑む豪傑ではなく、神業と言っていい技を駆使して勝負する名人・剣聖であったと言えます。
これが何を意味するかというのを一言で表したのが、タイトルである「鈍才教育の天才への適用」、すなわちどんなに素質の無い人間をも一流の域に育て得る教育を、素質のある人間に適用したことで、とんでもない実力者を生み出してしまったということです。
もともと流祖は、兵法の素質を見込まれて当理流の達人であった新免無二に養子として迎えられ、当理流の正統継承者たるべく育てられました。
新免無二に関する数少ない記録を紐解きますと、新免無二は足利将軍家に招かれて吉岡と御前試合をするほどの兵法の達人であるとともに、後年に「教養大名」と名高い、高台院(豊臣秀吉の正室)の甥にあたる木下延俊という大名に数寄などの教養の相手を務める「御相伴衆」の一人として招かれるなど、高い教養も持ち合わせた兵法者でした。
その大名級の上級武士としての素養を持ちながら兵法の達者である新免無二に、流派の正統継承者として、剣はもとより、新免無二の持つ全てを教え込まれて全てを会得したのが武州玄信公=宮本武蔵その人です。
なので、二天一流の剣技は、円明流から当理流までの歴史性を最も濃厚かつ正統に継承したものです。
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ではその「円明流から当理流までの歴史性」とはいったい何を指すのか?
それは昨日の記事での源義経の論にあったとおり「身軽さを以て剛力やパワーを誇る敵を制圧する技」を継承、発展させてきた流れです。
円明流を含む京八流が、三人張り以上の強弓を引くといった武士としてのパワーを養う教育を受けられなかった源義経を原点とし、そこに修験者であったと考えられる天狗、そして源義経から兵法を伝授された八人の僧など、武士として育てられなかった人達によって磨かれ、継承されてきたのが京八流の技であるということです。
つまり、武士としての身体的優位性を力技に転化させ、そこから技へと発展させた関東七流と比較して、元から職能戦士=武士としての素養に欠けた人が武士と互角以上に渡り合うための技術として発展させてきたのが京八流に属する諸流の一大特徴と言えるでしょう。
つまり、京八流、そしてその流れを汲む二天一流の特徴は、どんなに職能戦士としての素質の欠けた人間をも一流以上にするための技を教授・継承することを以て成り立ってきたものである、鈍才を教育する体系であったということです。
では、そういった「鈍才を達人にするための体系」を、元から身体的素養に恵まれた人間が実直に学び、適用したらどうなるのか?
その答えが、日本武道史上右に出る者のいない、宮本武蔵という兵法の名人の実力です。
その証拠として、流祖の遺した『五輪書』には「つよみの太刀」を否定する条があったり、鼠頭午首(そとうごしゅ)という「鼠の細かさと馬の大胆さ」という相反する要素を己の内に同居させて養う(対立物の統一)などの「非力な人間を達人にする」ということに関わる教えが随所に見られます。
これらからも、流祖が先天的な身体的優位性を頼みにした勝負師ではなく、徹底的に武技を研鑽することをもって本分とする名人・達人であったことが分かります。
実際に、流祖の知られざる名もなき直弟子の一人に、背蟲(せむし)というビタミンD不足から背骨が湾曲して老人のようになる障害を持った身体障碍者の弟子がいたという話が伝わっています。
体幹部を駆使できなくなる背蟲は二天一流の剣技にとって本来は致命的な身体障害なのですが、それにもかかわらず流祖の直弟子であったその背蟲の兵法者は、ある時「背蟲のくせに兵法を学んでいる」とバカにされ、それに耐えかねてバカにしてきた武士7人を、たった一人であっという間に斬り捨てて、皆殺しにしてしまいました。
時代は江戸時代初期の、まだ戦国の気風の遺る荒々しい時代であり、背蟲の兵法者をバカにした武士たちも相当な腕前=戦闘能力を持っていました。
その相当な腕前の相手7人をたった一人で、しかもあっという間に全員斬り伏せてしまったのが流祖の直弟子であった背蟲の兵法者であり、この事実からみても、「普通なら兵法など覚束ないほどの身体的なハンデのある者でも一流以上の実力を身につけられる」という特徴がよく出ています。
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また、流祖から歴代の二天一流の継承者にも、二天一流が「鈍才を達人にする」体系である証拠となる事実が数多く確認できます。
まず二代目を継承した寺尾孫之丞、寺尾求馬助兄弟ですが、二天一流は初期のころはたまたま大男と小男が交互に流儀を継承していったものであり、大男であった流祖に対して、寺尾兄弟、特に寺尾孫之丞は身の丈5尺余りと小柄であったと伝えられています。
また、寺尾孫之丞は片耳が聞こえにくいという身体障害を持っており牢人の身分で経済的にも貧困であったにも関わらず、流祖から『五輪書』を相伝して二代目を継承する腕前になりました。
その寺尾孫之丞の弟子で三代目を継承した柴任三左衛門は、またかなり大柄な大男であり、さらにその弟子の四代目、吉田太郎右衛門はまた小柄であったと伝えられています。
小兵であった寺尾孫之丞は、流祖が軽々と使っていた四尺杖を特別な工夫をして流祖に並ぶほどに使いこなしたという話があり、また四代目の吉田太郎右衛門については五代目を継承した丹治峯均曰く「小兵なれど骨太く、力量人に超え、盛んなる時は米に俵を、左右の足に足駄の如く履きて、二刀の表を自由に遣へり」と書かれています。
大柄で身体的優位性に恵まれた流祖や三代目・柴任三左衛門のみならず、小兵であった二代目・寺尾孫之丞、四代目・吉田太郎右衛門の二人もそれに勝るとも劣らない達人として名を馳せたということです。
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以上をまとめますと、二天一流の術技そのものは京八流の特徴を濃厚に受け継いだ「非力な人間でも、剛力を誇る相手を制し得る技」という根本思想に貫かれて体系が組み立てられており、さらに現代の私の属する兵法二天一流玄信派は、伝統的な二天一流の技と教授体系に加えて南郷継正先生の科学的武道理論・武道哲学理論を併せて修得することで、より「弱者のための武道」として歴史性をもって磨かれている最中であるということです。
その上で、流祖の実力が示しているように、身体力そのものの強靭さと併せて二天一流を修業することで、神業レベルの達人へと到達することができるということです。
また、二代目・寺尾孫之丞や四代目・吉田太郎右衛門の例にみられるように、遺伝的身体能力が低くとも、工夫と鍛練を重ねることで不利な身体的劣位をひっくり返すほどの力を身につけることもできるということです。
そういう理由もあり、私はジムと格闘技によって人間体の素材そのものを鍛えると共に、将来的には自給自足の農林業を通して身体をより戦国的に強化しながら、古流柔術や古流弓術などを修業することで、より身体的にも武技としても認識としても、兵法者としての自分を高めていこうと考えました。
いずれ、二天一流の教育体系を正しく理解し、そして現代に役立てられるよう、私の第一作となる『兵法の復権 武道と軍事の学問体系概論』にも記述しようと考えています。
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