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IHとお線香

小学生でこちらに越して来たときから我が家にはガスコンロというものがなかった。代わりにあるのはIHヒーター。だからガスや炎をちゃんと認識したのは、小学校の理科で使ったガスバーナーだった気がする。

毎朝、母は味噌汁を作ってくれる。ピピピというIHヒーターを調節する電子音とか、ピーピーと炊飯器でお米が炊ける音とか、隣の部屋で聞こえる弟のアラーム(犬の鳴き声みたいな)の音も。これが我が家の朝の音だ。

お線香を毎日あげている。

今日はロウソクの火が思ったより線香の先っぽから遠いところにうつってしまって、ぼうっと大きく燃えた。線香の火を消すのが苦手で、毎度10回くらい手をはためかせている気がする。ロウソクの火はゆらゆらと揺れていて止まることはない。燃えながら音を立てることはないけれど、下部は青く、上に向かってオレンジから白へのグラデーション、芯の近くは黒い。

生活に馴染んだ音や景色。

IHはピピピという電子音と点灯するメモリで火力を伝えてくれるけれど、それしかわからない。火の怖さとか、大きさとか、神秘さはむしろ線香にうつった炎の方がそっと教えてくれる。

身の回りにどんなものを置くか。むしろどんなものがあるか。そのものにはどんな広がりや偶発生があるか。


現代人はひたすら「同じ」を追求してきた。最初に生じたのは、身の回りに恒常的な環境を作ることである。部屋の中にいれば、いまでは終日明るさは変化しない。風は吹かない。温度は同じである。屋外に出れば、それが都市環境となる。 (中略)でも、一歩引いて見れば、やっていることは明らかである。感覚所与を限定し、意味と直結させ、あとは遮断する。世界を同じにしているのである。(『遺言。』養老孟司)


都市の中に暮らしている私たちは、うっかりすると意味に、情報に、デジタルに囲まれてしまう。

折しも唯一「違い」を意識せざるを得なかった人間も、容易に「画面越しの人」になりうる時代だ。それは人ではなくて、デジタルの表象でしかない。


だからちゃんと、「そこにただあるもの」を見つめたいと思う。

それがたとえ、何十万もの死をもたらすような、どうしようもなく理不尽なものだったとしても。

自然ってそういうものなのかもしれない。




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