沖縄(琉球)になぜ古墳がないのか!
沖縄にきて素朴な疑問を感じている。なぜ古墳がないのか!と。
色々な要因はあるだろうが、沖縄の方に歴史話をしても話題に上らない。当然だろう…なぜなら古墳自体がないのだから。古墳は素晴らしい!といったところで、???である。そこで本土(大和)人が考えられることを雑談風にまとめることした。
なぜ古墳がないのか?という問いよりも、沖縄(という言い方は不適切だが)になぜ古墳文化が伝わらなかったのか!が正しいかも知れない。ここで4項目の仮説を立ててみよう。まず本土の古墳時代に沖縄はどのような状況であったのだろうか。
【Ⅰ】ヤマトとの交易がなかった。
本土の古墳時代(概ね4世紀~7世紀)、沖縄の年表では弥生~平安並行時代となっている。そこには鉄などの弥生文物が流入、丘陵上で生活するようになる等と極めて漠然かつ単純に書かれており、空白の時代である。(争いのない平和な時代だったかも知れない。)つまり、ヤマト(後ろにヤマト朝廷とか王権といった名称が付くが、それがあったかどうかも分からないので、あえてヤマトと呼ぶ)と交流・交易がなかった。
【Ⅱ】海を渡って来る人(渡来人)がいなかった。
古墳文化を携えた東南アジア圏(現中国、韓国人達)のいわゆる渡来人が来なかった。これも鉄や文物が漂着していることを考えると、全く異文化や東南アジアを中心とした民族が渡って来なかったとは言い切れない。時代は新しいが、これまで訪れている亀甲墓が中国福建省からの強い影響があるということは、海上の交易ルート(潮流)が当然あると考えられる。しかし渡来人が土着したという住居跡とかの遺跡が皆無?である。(知らないだけかもしれないが)古墳文化を携えたであろう渡来人がなぜこの島に定着し古墳を造らなかったのだろうか?
【Ⅲ】強固な信仰(儀礼・文化)の存在。
島国だけに門戸も広いが、逆に受け入れないものは頑として拒否する。とりわけ儀礼に関するものは独特で、超排他的であったと考える。偶像崇拝(仏像等)をせず、御嶽にあるような自然崇拝(アニミズム)を根本とする。特に太陽(てぃだ)を神とするニライカナイ信仰などは海外でも類似的なものはあるが、沖縄(琉球)ではその信仰は根強い。また、風葬+洗骨改葬といった風習が戦前(久高島では1960年代らしい)まで継続していたという。新しく合理的な風習や葬儀方法は完全拒否を貫いたのであろう。戦後は衛生面や墓の土地問題等から火葬が(強制的に)普及されたが、根底にある民間の信仰心としては今なお否定的な意見が少なくない。
【Ⅳ】時間的なズレ(時すでに遅し!)
そもそも本土と交流した時代には、すでに古墳時代は終わっていた。単純に時代のズレである。琉球人が海を渡ってヤマトに到着し本土の文化を吸収したのはいつ頃か?因みに江戸時代の参勤交代の際でも、琉球から江戸まで約半年を有して旅をしている。(百人を超える大旅行団であったそうだ。那覇を出て海流に乗り奄美大島から鹿児島県坊津へ、さらに牛深、平戸、博多へと渡り、瀬戸内から陸路の旅である。旅慣れているとはいえ命がけだったに違いない。)ましてや古代はいかばかりか!である。おそらく律令時代には琉球人はヤマトに到達していたのではないだろうか。その頃のヤマトは既に古墳は造られておらず、灌木や雑草の生い茂った小山があちらこちらにある、葬られた人物すら忘却された時代に突入していたものと推定する。琉球人は昔のよもやま話程度にヤマト人から古墳の話を聞かされていたのではないか。
以上の仮説を考えてみたが、いずれもその当否は証明できない。自分の感覚として【Ⅲ】に魅力を感じる。やはり沖縄は神の宿る島だ!であり凛とした態度で拒否したのだと思う。沖縄本島を旅しても(せいぜい約150㎞程度であるが)必ず亀甲墓の墓群を目にする。本土の古墳時代でいう群集墳であろうか。亀甲墓は盛土(マウンド)ではないが、平面積や高さをもつという意味において古墳の墳丘そのものだ。墓室は横穴式石室であり、木の棺は風葬され骨だけとなる。古墳時代にも骨のかたずけがあり順次追葬がおこなわれた。さしずめ厨子甕は石棺であろうか。沖縄の近現代おける亀甲墓を含む古墓群を見学するたびに、時代は違えど本土の古墳時代とリンクする。まさに沖縄の古墳群がそこにある。
本土でも開発のたびに破壊された古墳群が発掘される。沖縄でも亀甲墓を含む墓群が戦後米軍によって徹底的に破壊、埋められた。現在、沖縄の古墓を見学しながら本土の古墳時代とリンクすることを楽しんでいる。かつて外国人が琉球国を見て、①武器を持たない国、②礼節を重んじる国、③住んでいる家よりお墓が大きい国、と評したそうだ。まさに誰が見ても③を感じることであろう。この問いは永遠のテーマであり解決不可能なテーマであるが、もしかしたら神からのプレゼントであることを密かに期待している。楽しむ以外にない。