我が庵は
最近になって,ようやく「ものづくり」の魅力が少しわかるようになってきた。「もの」を作ることで,その瞬間の自分の感性,拘り,視点,価値観をその「もの」の中に保存する。過去の自分が書いた文章を読み,当時の自分の価値観がよみがえる。昔作った陶磁器を見て,当時抱いていた拘り,視点を追想する。時と共に消え行く「いま」を,未来につなぎ止めるというところに,創作の一つの魅力があるのかもしれない。
そんなことを考えるうちに,いまの自分を様々な形で未来につなぎ止めてみようと思うようになった。残したくない「いま」は忘却の彼方においていけば良い。残したい「いま」だけを選んで,いつか取り出せるように未来に向けて蓄積していく。卒業という時期故でもあるのだろうか,そんな作業がしてみたくなった。そんなこんなで執筆してみただけの記事なので,特にネタがあるわけでもない。いわゆる日記の延長の様なもの。読みづらかろうが気にしない。
さて,タイトルの「我が庵(いほ)は」とは,平安時代の和歌の名手六歌仙の一人とされる喜撰法師の歌である。
競技かるた的には「我が袖は」との共札で決まり字は「わがい」の3字決まり。一次決まり二次決まりの様な華やかな取りができる札でもなければ,大山札のような囲い手の技術が光る札でもない。「わ」で始まる札にしても全部で7つもあるわけで,要するに大して目立たない札である。試合中にこの札があったところで意識の欠片にしか止めることはないが,案外筆者としては100首ある中で3番目くらいに好きな歌なのだ。歌の意味としては,
平たく言えば,
世の人「あの人,世の中が嫌になって都を離れて宇治山なんかで暮らすことにしたらしいで。」
喜撰法師「誰がやねん。こっちは心のどかに暮らしとんねん。黙っとけ。」
みたいな感じだろうか。(ここまで棘のある感情ではないと思うが)
「日々,僅かたりとも恥ずかしくない過ごし方を」
突然だが,これは夏の就活の準備の中で,自らの座右の銘として用意したものである。適当に思いついたものを書き留めただけだが,案外気に入っている。
SNSに生きるこの時代において,我々は意識して距離を取っていかないと,「他者」という存在に自分の内面を侵食される。一人暮らしの部屋にいたって,スマホの先に他者がいる。それはすなわち,気を抜けば自己肯定感の源泉を他者からの評価に依存してしまう時代ということでもある。隙さえあれば大して興味もない旅行で手帳を埋め,あらゆることでマウントを取りあい,豪勢な生活を見せることで自らの価値を確かめる。まあそれ自体別にそこまでダメだとも思わないが,そこが本流になってしまっては,もはや時代の奴隷である。このような時代だからこそ,自身で自身の価値を確かめられる軸を持っておくことが,なお一層大事なのだ。
他者と関わるということは,基本的にしんどい。一人でいるときの「自分」の製作作業は基本的に自己完結であるのに対して,他者といるときの「自分」の製作は相手との共同作業だ。相手とのコミュニケーションの中で,自分が認められる「自分」を作り上げ,また自分が素敵だなと思える「相手」を作り上げていく作業なのだ。当然,そこには予測不可能な因子が多く入り込むし,面倒なことも起こりやすい。こうして考えると,どうやら僕が恐れているのは「他人」というよりは「他人との関わりによってうまれる自分」の方であることがわかってくる。
思い返せば,僕はあらゆる場面において「自分」のことしか考えていない。くだらない人間関係に身を置いている「自分」が嫌いだ。その場で言うべきことを言葉にできない「自分」が嫌いだ。大切な人に迷惑をかけてしまう「自分」が嫌いだ。一緒にいてほしい人たちに何も提供できない「自分」が嫌いだ。約束を守れない「自分」が嫌いだ。僕に取って何より大切なのは,「他者にどう思われているか」ではなく「その瞬間の自分を認めることができるか」でしかないのだ。と言っても,「他者にどう思われているか」なんて,結局の所どれだけ尽くしたとて完璧にコントロールすることなどできないわけで,気にし始めたら終わりがない。限りある人生,そんなことに割いている時間なんてない。「自己中心的だ」なんて雑な言葉で非難される筋合いはない。
この6年間で,こうありたいという未来の「自分」ができてきた。そこに向かって一歩,また一歩と歩みを進めてきたつもりでもある。それでも,まだまだ先の道のりは長い。これからも「自分」は変わっていかなければならない。
少し話は変わるが,Twitterでよく見る藤沢数希さんのことばの中で,知人に教えてもらったこのことばが好きだ。時々見返すほどに。
僕は,エスカレータを上っていく。そうしないと僕は「自分」を認められないし,心から尊敬する人たちにこれからも隣にいてもらうこともできなくなってしまうからだ。誰に何と言われようと,進むと決めた道を一人で走ってきたし,これからも変わらず進んで行く。そもそも,僕という存在のことなんて誰にもわからないはずなのだ。noteクリエイター「nissychia」も,Linkedinの僕も,Twitter上の僕も,Instagramの僕だって,LINEにおける僕ですらも,全て「僕」の一側面だ。どの側面を切り取ったって,それは完全な「僕」ではない。一側面しかしらない存在に,どうこう言われる筋合いなんてない。
黙っとけ。