「熱中」の主語を考える
「京都教育大学附属桃山地区 幼小連携教育研究発表会」を終えました。
これまで、幼小WGにおいて『問いをもち学び続ける子ども』について考え、実践してきました。
その中で、いくつかのキーワードが自分の中で挙がりました。
◎ 問うことの素地
◎『問い』と『問う』
◎ 熱中をつくる
◎ 学びの場づくりとしての学級づくり
たくさんありました。このあたりが、終わって2週間ほど経った今も頭の中をグルグルと巡り続け、モヤモヤと霞がかったままなのです。
その中でも、今、特に考えているのは、『熱中』についてです。
僕は、これまで子どもを授業に熱中させることは、ある程度のテクニックがあればできるのではないかと思っていました。そして、そこに温かい「追い込み」や冷たい「追い込み」があれば、ある程度全員が参加することはできると考えていました。
しかし、今思うことは、それは「熱中させられていた」や「付き合っていた」の類であるということです。
後者のような「授業者への忖度」は、それで参加するのであれば○という場合もあると思っています(もちろん、そうでない方が良いには決まっています)。
そして、前者への違和感が日増しに大きくなったのが、現在の僕の問題意識であり、自分への課題です。
つまり、「熱中」と「させられる」の組み合わせに違和感があるということです。
『スマホ脳』には、アプリ開発やゲーム開発が中毒性を軸に進められるということが書かれていました。
こういう中毒性のあるものに触れるということが「熱中させられる」ということのような気がします。
アプリが熱中させる ゲームが熱中させる
「□□□□が熱中させる」と考えた時、□□□□にはどんな言葉が入ると良いのだろうと考えました。
先述した「熱中させる」の主語は、「授業者」だったと思うのです。
授業者が熱中させる
これで良いと思って過ごしてきました。授業を公開した時の見応えがあり、教師の思っている力が子どもについていたようにも感じていました。
しかし、これでは、自律した学習者を育てることはできませんでした。もちろん、学級にそういう子どもはたくさんいましたが、それは、授業を通して育ったものではなかったように感じるのです。授業をネタに自学に繋げたり、自学を褒め育てたり、家庭と連携したり、そういったものの成果だったように感じます。
つまり、授業を通して「自律する」ことを僕の授業では目指せていなかったように思います。
今は、この主語に「材」を入れたいと思っています。
材が熱中させる
教材、問題、問い、文章、物、人、意見、思考、、、
その時々に応じて、「材」には、色んなものが入るように思います。
その「材」を選ぶのは、授業者であっても良いと思います。それが「場づくり」の一つなのかなと。
例えば、13個のブロックが書かれたカードを提示する授業。
A:カードを一瞬見せて隠す
B:カードを子どもに渡す
Aは、授業者が熱中させていて、Bは材が熱中させている。
ということでもない(さっきまでは、そう思って書いていました)。
Aのように、「どうすれば…」など、問題意識が出た後に、その問題意識を「材」として扱うような授業展開であれば、それも「材」が熱中させていると言えるような気がします。
その後に解決している子どもと解決していない子どもが、同じ問題を説明し合うような展開だと、「授業者」が熱中させていると感じがするのです。
伝わりますか?この辺りのニュアンスが非常に難しいんじゃないかと思います。
つまり、「話したい」と「聞きたい」を意欲源として、子どもの「したい」を引き出して進行しているのは「授業者」だということです。
「知りたい」や「解決したい」という「材」に対する「したい」で授業が展開するようにしたいところです。「話したい」「聞きたい」は、そのためのツールとしての「したい」でありたいのです。
「材」に熱中するということは、そういうことかなと、今は考えています。
夢中、没入、没頭…最近、こうした言葉にがオートフォーカスしている自分がいます。
この前は、「気づき」でした。
これも、自分は「熱中」に熱中しているということです。
「個別最適化」に熱中しているとしたら、それは、今の空気に「させられている」感じがします(それでいいんですけど)。そうでなく、自分から掴み、気になり続けている。
こういう状態を、教科や単元、1時間といった授業の中で、作っていきたいなと感じています。
そのプロセスには、
◎ 問うことの素地
◎『問い』と『問う』
◎ 学びの場づくりとしての学級づくり
があり、今回のテーマであった「場づくり」と「見取り」が大きく関わっているように思います。
研究発表会は終わりましたが、僕の「熱中」はしばらく続きそうです。