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【世界考察0】27歳から32歳まで6年間引きこもった男の人生備忘録

⚫️前置き

タイトル通りの自分語りである。

最初に言っておきたい。これは今引きこもっている当事者の助けにはならない。そのつもりもない。引きこもる理由は人それぞれである。家族の問題なのか。人間関係が嫌なのか。仕事がつまらなかったのか。健康上の問題なのか、他の何かなのか。人の数だけ理由がある。人生を前に進める上で他人の体験談など大した意味を持たない。自分の人生の道は自分の中にしか存在しない。

また、共感を得ようとするものでもない。そのつもりもない。俺はこんなに辛かった。君も辛かった。大丈夫だ。これから一緒に頑張ろう。そんな話もない。慰めもない。

私は単に私の物語を記録したいだけだ。備忘録と名付けたのはそういう理由である。ただその記録を眺めたときに何か思うところがあれば、いいものであれ悪いものであれ、望外の喜びである。

⚫️小さい頃〜大学院卒業まで

さて、私は小さい頃から頭が良かった。頭が良かったと言っても、SAPIX開成東大とか浜学園灘理Ⅲとか、学歴王としてネットに蔓延っている方々のような景気のいい話ではない。勉強では苦労した記憶がない程度である。

塾も中学受験も無縁だった。近縁に大卒すらほぼ存在しなかった。学歴など意識したこともなかった。何となく流れに乗っかって地方の公立中学公立高校から地方の国立大学に入った。

高校受験は学校以外で勉強した記憶がない。大学受験も学校の宿題以外はやった記憶がほとんどない。1浪した時も大して勉強した記憶がない。親も勉強しろなどとは一言も言わなかった。当時はそう思わなかったが、今から振り返ると完全に天から与えられた勉強の才能任せに人生を歩んでいた。

自分に才能が与えられたというと傲慢に聞こえるかもしれない。しかし与えられた才能を意図的に(もしくは無意識に)隠し、おまえにもできるよと
吹聴する方が危険である。成功した人間にはこのパターンが多いが鵜呑みにしてはならない。

他人のパターンが自分に当てはまる。そんなことがどれだけありうるのか。よく考えるべきである。なんの道にせよ誰かと同じようにやって、その人と同じルートを辿れる人間は少ない。私の自分語りが当事者の助けにならないと宣言しているのは、そういう理由でもある。

繰り返しになるが、自分の人生の答えは自分の中にしか存在しない。

学生時代(浪人時代含む)を思い返すと本当にゲームをやっていた記憶しかない。ゲームするか宿題するかである。知的好奇心だけは旺盛でそれを満たす手段が勉強とゲームしかなかったのだと思う。

大学に進むとき哲学をやるかサイエンスをやるか、文系か理系か迷った。結局は理系を選んだ。哲学は自分で本を読めばいいだろうという発想である。

何となく研究者として生きていきたいと思っていた。

しかし大学で思いっきりコケた。

元々理数科目は文系科目に比べて得意ではなかったが、好きというだけで進んだ結果、大学の授業についていけなくなった。何かの授業で0点を取った記憶もある。途中で辞めようとも思ったが、なんだかんだ再履修の嵐と1年留年を通り抜けて、研究室配属まで辿り着いた。そしてそこで自分が決定的に研究に向いていないことがわかった。自分で誰かに先駆けて何かを発見したいという欲求が全くなかったのだ。誰でもいいから何か発見して教えてくれ、というのが私の欲求だった。知的好奇心だけに頼って生きていた人間の末路である。最終的に大学院まで進みはしたが、ポテンシャル不足と適性のなさから研究者の道を断念した。しかし、苦手なこと(理科数学)でも、ダラダラでもやっていれば、それなりに克服できるのだなとも思った。

研究者を断念したと言っても後悔はなかった。向いていなかったからだ。自分が見当違いの思い込みをしていたというか、真の欲求を理解していなかったと言える。研究の道は真の欲求を(少なくとも直球で)満たすものではなかった。これは酸っぱい葡萄ではない。今でも後悔はない。単に知識を得ることと、未知を発見することは全く異なるということだ。私は単に知識を得たいだけだった。

ちなみに大学時代も一生ゲームをしていた。バイトも多少したが、やる気がなく、普通に首になった(首という名目ではなかったが、多分首)。労働とは何とつまらないのか、そんな意識が既に存在していた。人と遊ぶのはつまらなくはなかったが、ゲームの方が楽しかった。

就職活動は4年生の時と院生の時に何となくやってみた。SPIはできるものの、まともに就活などやっていなかったので、どこにも引っ掛からなかった。ゲーム会社を志望していたのだが、何も売りになるものがなかったので、当たり前といえば当たり前である。それ以外も何か受けた気がするが、やりたいことでもなかったので思い出せない。

⚫️27歳〜32歳 引きこもり編

そうやってどこにも就職せずに、無駄に新卒というカードを失った結果、晴れて無職の20代後半男性が出来上がった。とりあえず収入がないので、実家に戻ることにした。通常の発想であれば何でもいいからすぐに仕事につくのだろうが、私はここから6年近く引きこもることになる。

その理由は何か。いたってシンプルである。単に働きたくなかっただけだ。それ以外に理由はない。

本当に働きたくなかっただけである。人生で辛いことがあったとか、人間関係に悩まされたとか、生きる意味を見失ったとか、そんな綺麗な理由はない。語るような物語もない。単に面倒だったのだ。外に出るのも、人に会うのも、仕事するのも、全てが面倒だった。元々面倒くさがりだったが、やりたいことは概ね大学でやり尽くしており、それ以上やりたいこともないので面倒に拍車がかかっていた。親が見ていたらぶん殴られそうだが、事実なので仕方がない。その節は申し訳ありませんでしたとお詫びしておく。クズですやん、という誹りは甘んじて受け入れたい。

以下は引きこもり6年間の記録である。所々記憶がない部分もあるので、正確さは保証できない。

27歳、引きこもり1年目は一生ゲームをしていた記憶がある。1年目も6年目もずっとゲームはしていたのだが、特にそれしか思い出がないのが1年目だ。何をやっていたかもあまり思い出せないが、引きこもり生活6年間で一番やったのは格ゲーで、ブレイブルーとP4Uとアルカナ3をひたすら擦っていた。ブレイブルーは本当にブチ切れるゲームで、今は見たくもないのだが、一生やっていた。P4Uは千枝の隕石に発狂していた記憶しかない。アルカナ3は今でも楽しい。一番好きな格ゲーかもしれない。エクバも相当やった。3000戦やっていて一生少尉から上がれなかったのだが、フルクロスを使うと即中尉になったことから、あっという間に冷めた。後はアトリエシリーズなどひたすらやっていた。アトリエシリーズは大体やったが、アーシャとヴィオラートが傑作である。セインツロウもやっていた記憶がある。レトロゲーも漁っていた。中でもプリズムコートは面白かった。まあ有名なゲームは大体やっていた。引きこもり生活で特に思い出せるのが今挙げたゲームというだけだ。

28歳、2年目は絵を描いて生きていくなどと考え、3ヶ月くらいガチで練習したのだが、恐ろしいほど進歩が見られず断念した。才能とは残酷である。それ以外は何も思い出せない。多分ゲームをやっていた。

29歳、3年目は小説を書いて生きていくなどと考え、大量に書いた記憶がある。絵よりは多少マシで、何本かは1次選考を通ったのだが、それ以上は何もなかった。この年は後半は本当に危ない状態だった。強迫性障害のような症状に悩まされ、一生過去の失敗が頭をぐるぐると巡るようになったのだ。鬱っぽくなり、希死念慮まで生まれ、体重も激減していた記憶がある。なぜこのような状態になったのかわからないが、どうも小遣いを打ち切られてからはじまったような記憶がある(貰ってる方がおかしいのだが)。無職でも貧すれば鈍するとは真実だったらしい。しばらく自分と格闘し、半年くらい経ったときに、症状はある程度収まった。この頃は本当に記憶がなく、ネプテューヌとハイスクールD×Dのアニメを一生ループしていたことしか思い出せない。どういう選考基準なのか。

このように絵だの小説だのニートあるあるを通過していく人生だったが、ここまでは特に焦燥感はなかったと思う。メンタルがやばくなりかけていたが、焦りはなかった。

30歳、4年目である。しかし、なぜこの年が挟まれているのかわからない。私の記憶より1年多くなっている。もはや何をしていたのか全く思い出せない。強迫性障害的な症状を引きずっていたのだろうか。やたらと本を読んでいた時期はあるが、この時期だったか。小説を引き続き書いていたような気もする。空白の1年である。真の長期間引きこもりは、もはや何年引きこもっていたかすら思い出せないらしい。

31歳、5年目に入ると、親にそろそろなんとかしろと言われ始めていた。4年間ほとんど何も言わなかった親がである。どれだけ我慢強いのか。

そこで資格試験を受けることにした。なぜを受けようと思ったのか。単に働きたくなかったからだ。ほんまそれだけである。資格試験でも受けて時間を稼ぐかという、引きこもり引き伸ばし戦法だ。いかに働かずに済むか。それが全てだった。控えめに言って終わっているが、当時の私にそんな考えはなかった。本当に申し訳ない。

色々と資格を調べているうちに受験候補として行政書士が上がっていた。司法試験と司法書士は難易度が高すぎてすぐに受かりそうはない。社労士は勉強内容が暗記ゲーの様相を呈していたので速攻で切った。消去法として行政書士が残っていた。仕事内容など全く知らなかった。法律も全く知らなかった。しかし私は理系なので新しいことを知るに良さそうな資格だった。

勉強方法としては予備校に通うか独学かどちらかだった。金はないので予備校などあり得ない。かといって行政書士は独学で簡単にうかるほど甘くもなさそうだった。私は折衷案として答案練習だけ予備校で受け、他は独学の方式にした。答案練習とは予備校の問題を解いて解説授業を受けるものである。いちから民法とは〜なんてことは答練ではやらない。その部分は独学である。

行政書士試験は11月頭。答練に申し込んだのは5月半ばだったと思う。

試験の内容は下記のとおりである(私が受けた時)
●科目
①基礎法学
②憲法
③行政法
④民法
⑤商法
⑥一般常識(大学受験の国語や政経と似た問題)

選択式問題 240点
記述式問題 60点
合格点 180点/300点
法律問題 246点
一般常識 54点

法律問題の配点は大半が行政法と民法である。6割取れば絶対合格という一見ヌルゲーの試験だ。ただ受けてみればわかるが全然ヌルゲーではない。勉強しないと、掠りもしない試験である。おまけに一般常識で24点切ると自動アウトなので、これで落ちる人もいるらしい。

行政書士は何時間で受かるのか。そんな質問がよくあるようだが、私が受けた印象では一般常識が取れるか取れないかで大きく変わる。私は最初から一般常識が50点弱だったので法律で130点取れば良かった。一般常識が足切りレベルであれば160点必要になる。130点と160点の勉強量はかなり異なるので○○時間で受かるという話はこの点を押さえておいた方が良い。

基本的に独学になるのでテキストを色々と買ってみた。大体のものは目を通したと思うが最初に使っていたのはどこかの基本テキストである。出版社は忘れてしまったが、よくあるやつだった。

これでなんとか勉強していたのだがまあ訳のわからないこと。テキストが悪いわけではない。謎用語が多すぎるのだ。仕方がないので民放のテキストと法律用語辞典を追加した。最終的には東京法経学院の分冊テキストを使っていた(今は分冊じゃないようだが)。引きこもってだらだらと勉強しているうちに、8月くらいにはついていけるようになった。

しかし1ヶ月前の模試で110点を叩き出し、これはガチでやばいと思い始め、起きている時間全て学習を敢行した。大谷の日本シリーズを横目に一生机に向かっていた記憶がある。受からないと法律が大きく変わるのでまた勉強しなおしになって面倒くさい、そう思いながら必死でやっていた。人生で本気になった記憶がないが、この1ヶ月だけは本気だったと思う。

11月の本番は大教室にかなりの人間がいた。試験が始まって2時間くらいで大体の回答を終えたのだが、見直しをすると記述式で全く反対のことを書いていたことが見つかり、慌てて書き直した記憶がある。

予備校の採点予想によると、ギリギリ合格とのことだったが、合格発表の翌年1月までは生きた心地がしなかった。合格発表の日を迎え、合格番号を発見した時は大学受験に受かるより嬉しかった。人生で初めて本気で勉強したからだ。その後合格通知が送られてきて、点数は194点だった。自分は無職だったからいいが、仕事しながら合格するのは困難だろう。

32歳、ついに6年目である。行政書士に受かったはいいがやはり働きたくはなかったので、今度は社労士を取るだのTOEICを受けるだので無職期間を引き伸ばしていた。社労士は結局全く手をつけず、経済学検定やTOEICを受けていた記憶しかない。行政書士になろうかとも思ったが、どうにも稼げるイメージがわかなかったので保留にしていた。何のために資格取ったんだよと言われそうだが、元々は働きたくない一心で勉強していただけである。合格後の方針などあるはずがなかった。

年末ごろには親の不機嫌が最高潮に達していた(当たり前である)ので、観念してバイトを探すようになった。やれそうなことが塾講師くらいしかないので、適当に履歴書を送ってみた。数件お断りされた後、応募の作法がめちゃくちゃであることに気づいたので、ハロワで応募の作法を教えてもらい、しっかりと応募したところ、翌年2月に近くの塾でバイトをすることが決まった。

こうして6年目の終わりにして無職期間が終了した。しかしまだまだ社会復帰の話は続く。

⚫️33歳〜40歳 社会復帰編

33歳、社会人生活(と呼べるのか怪しいが)1年目はずっと週2でバイトだった。大学受験の映像管理系の仕事で、たまに質問対応するという緩い環境だ。そんなにハイレベルな生徒もおらず、少し勉強し直せば対応可能な場所だった。大学受験をもう一度勉強し直すのはなかなか楽しく、受験生である当時は見えていなかった風景も見えるようになっていた。楽しいことをやって金がもらえるという最高の状態ではあったが、週2のバイトなので、収入はお小遣いレベルだった。しかしあらゆる科目の質問対応をしていたことが、後々につながってくる。

34歳、2年目はバイト先を増やした。2件目の塾は小学生向けの塾だった。ここは最初の方は気に入られていた感じがあり、1件目の塾はやめて集中したのだが、最終的にはおまえの仕事ぶりは話にならん、という旨のことを言われてやめた(やめたというか実質首)。話にならんかったのは事実で、自分の適正として小学生には全く向かなかった。何とか修正しようと考えたが無理だった。2件目ではあらゆる業務を安い時給でやらされたのだが、これに耐えたことは後々活きてきた。2件目をやめてからは3件目の塾にバイトに入った。古風な塾長がいる中学生向けの塾で、採点のバイトだった。この年も収入はお小遣いレベルだった。

35歳。3年目は知り合いに予備校を紹介してもらい、そこで働くことになった。とはいえ最初は授業もなく、日直という名の事務作業で働いていた。同時に知り合いの店に個人指導の張り紙を出していた。2件目の塾の仕事でイラレやフォトショの使い方の覚えていたので、チラシを作ることも簡単だった。夏休みに入る頃に3件目の塾を辞め、予備校一本に絞ることにした。同じ時期に張り紙で一人だけ生徒が来て、個人指導も始めることになった。幸運にもこの生徒は私の性質とピッタリ合っていたようで、最終的には現役で難関国立医学部医学科に進んだ(この指導によって飛躍的に大学受験への理解が深まった)。軌道に乗ったかのように見えるが、個人指導はタダ同然でやっていたので、相変わらず収入はお小遣いレベルだった。

36歳。4年目はかなり予備校で授業が入るようになった。そうなったのは複数教科に対応できたからであり、1教科だけしか見ませんなどとやっていたら、完全に終わっていただろう。働き初めてからの質問対応や個人指導の経験が活きた瞬間である。この年から一人暮らしを始めた。結局、まともに一人で生活できるようになるまで、4年もかかっている。

37歳。5年目はさらに授業が増えたが、特に語ることはない。4年目と同じようなものである。

38歳。体重を20キロほど落として健康体になった。それ以外は例年通りに進んでいる。プライベートではまあまあえらい目にあったのだが、語るほどのことでもない。

39歳。職場を辞めることになった。色々理由はあるが、大学受験一辺倒の世界とは違う形で教育に関わりたいと考えたからである。今は転職してそのような方向性で教育に携わっている。

40歳。この年もまあまあえらい目にあったのだが、それ以外はほとんど去年と特に変わるところはない。今度も同じような仕事で生きていくのだろう。

⚫️終わりに

半生を振り返って思うことは、特にない。苦労したという意識も、辛かったという意識も、人生を無駄にしたという意識も、全くもって存在しない。こうなったのは誰のせいでもない。全て自分で選び取ったが故に、全て納得できる。人生に意味を与えるのは自分自身だ。私は私の人生の全てを肯定できる。こうでしかあり得なかったという、身の丈にあった人生を歩んできた。刺激的な物語はいらない。浮き沈みもいらない。身の丈に合った人生をひたすらに生きる。それが人間のやるべきことだ。

過去を振り返って思うことはない。ただ、あれこれ社会に迷惑をかけた反動なのか、この先の半生は自分の全てを与え尽くして一人で死んでいきたいと願うようになった。理想像は幸せの王子だ。王子と違って天に救われることはないが、それでもいい。完全な愚者となって、誰にも顧みられることなく、人生を全うしたい。それは願いであり、今の自分とはほど遠いが、いずれそうなるように生きていきたいと思う。

人生の前半戦は全てを肯定できた。ただ、死の間際に全てを肯定できるかはわからない。それが残りの人生の課題になるのだろう。

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