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【世界考察38】数の暴力/己の多様性を保証する

●数の暴力

前々回で少し触れたことだが、私の記事では学歴系の記事のビューが高い。他の記事の倍くらいあるかもしれない。私見では記事のクオリティは関係ない。単に学歴系の記事というだけで伸びている。次に伸びている記事は、これといった法則性はない。学歴のタグだけが、現状特別な意味を持っていると考えられる。

もし、私がnote記事を少しでもマネタイズしたいと考えるならば、学歴系の記事をひたすら擦り続けるのが正解になる。記事をマネタイズするのは数だからだ。というか、数以外何もない。中身など基本的にはどうでもいい。中身が良ければ人が来る、ということでもない。中身とは何か。私の記事に中身があるとは言っていない。よくよく考えると、中身があるということすら、どうでもいいことだが、それは別の機会にする。中身の有無に関わらず、ビューが高ければ価値がある。数とはそういうことである。数字に中身などない。数は数である。お金を考えればすぐにわかる。

数を生むのは何か。マーケティングである。マーケティングとは何か。数である。数を予想し数に合わせて数を取りに行く。マネタイズとは数である。私は数が嫌いである。数を意識した瞬間、私は学歴の記事しか書けなくなる。投稿時間も投稿頻度も一定にしなくてはならない。中身に全く関係ない投稿時間も、おそらく観覧数には寄与しているはずだ。頻度も、毎日投稿と決めて自分の意思でやっているうちは問題ないが、観覧数を意識すると意志と関係なく、毎日投稿になるだろう。

そんな風に記事を書いて、一体何が面白いのか。信念も意思もあったものではない。楽しみも何もない。マイナーな記事など書けなくなる。数が上がって楽しいと思うのは、端的に言って数に洗脳されている。そして私にもその気が多少残っている。

数を狙う人達は数が上がることしかしない。仕事だから。遊びじゃないから。仕事とはいつから数の言い訳になったのか。数ありきになる意味とは一体なんなのか。その先に何があるのか。

数により、人は己の思考すら操作される。そして操作されたことに何も感じなくなる。それが数の暴力である。いや、暴力というほど荒々しいものではない。むしろ荒々しさがないことが数の力の問題点である。操作されていることすら気づかせないのだから、これほど凄まじい力はない。勉強させるときに勉強しろというのは愚策である。気づかないうちに勉強させているとすれば、勝ちである。洗脳とは要するに気づかせないことだ。

私は数を扱うことは、人並み以上にできる。それでも、数の何が面白いのか、わからない。数の暴力から逃げるために、意図的にそう思うようにしている面もある。年収いくら、身長いくら、偏差値いくら。数を数えて一体何が得られるのか。特に自分を数えることについては、何もいいことがない。数は人を酔わせるところがある。酔っていることにも気づかない。数に酔っていると、私は私であるという、人間の大原則から容易に外れていく。私が数になると、もう数の奴隷だ。

学歴に限らず、私が仕事で身につけた、勉強法や国立医学部合格のノウハウでも語れば、記事をある程度マネタイズできるのかもしれない。できないかもしれない。少なくとも、よくわからない、謎の考察を語っているよりは、可能性(私の嫌いな言葉)が上がるだろう。しかし、可能性の有無に関わらず、noteでは記事にはしない。私の中で、それは教育ではない。直接語り合う関係性が保証できない限り、語ることはない。直接聞きに来るなら、無料でも、いくらでも語る用意はある。

●多様性を保証するには

数の暴力に支配されている間は、己自身の多様性を保証することができない。数に支配されると私は自動的に学歴系note記事量産マシーンとなる。多様性も何もない。数を好きにならされて、数の奴隷となり、数のために(広義の)労働に勤しむ。好きにならせているのは一体誰なのか。誰が得するのか。己の多様性を保証するには、数から逃げ切るしかない。

そうは言うものの、私も長年の癖で、無意識に数字に囚われる癖が残っている。今後も意図的に数字から逃げ続けるしかない。

数字が増えると、どことなく楽しい。楽しいことが中毒性を生む。中毒性で数の奴隷になる。数字は安心を提供する物でもある。しかし、安心を提供するのではなく、数字によって不要な不安を感じさせられているだけのようにも思える。

数字の楽しさは何かがおかしい。数字が増えることで、この現実の何が変化しているのか。数字とは概念である。概念は現実と対応する。とも限らない。中毒のように概念の数字を増やすことが、どれだけ現実に対応するのか。それは楽しいだけの幻想ではないか。楽しいだけでいいのか。

楽しいだけでいいのか、は私の人生のテーマでもある。楽しいだけで楽しくなれるのか。どうもそうではないらしい。一般性があるのかは知らない。多分ない。一般性はどうでもいいのだ。私の人生なのだから。





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