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【世界考察29】能力に応じて報酬が支払われるべきなのか

世界考察は当たり前の事を疑う。今回は世間で当たり前のように信じられている、優秀な人間に高い報酬が支払われることについて考えてみたい。

優秀な人間には高い報酬(要は金)が払われるべき、その逆もまた然り、というのは、もはや誰ひとり疑うことのない、究極の宇宙の最終真理の如く扱われている。しかし、一体どこに根拠があるのだろうか。

考えられるのは、優秀な人間が数多くの金を生んでいるのだから、優秀な人間が数多くの金を持っていくべきである、という論理である。功績主義だ。一見正しそうだが、数多く稼くことと、数多く持っていって良いことの間には、無条件の関係性はない。当たり前である。ただ、人間はこの間に無条件の関係性を見いだすことは想像できる。何もかも疑っていく先には、必ず無条件の、無前提の何かが存在する。サイエンスではそれを原理と呼ぶ。数学では公理と呼ぶ。人間の生に組み込まれた当然の前提は何か呼び方があるのだろうか。私はそれに該当する言葉を知らない。ここでは人類原理と呼ぶことにする。人間原理と呼ぶと別のワードになってしまう。

人類原理は至るところに転がっている。この前から度々言及している、自然の斉一性もその一つだろう。上述の功績主義もその一つだ。ただし、このような人類原理を、個々に検討すると、それがあらかじめ人類に内包されているものなのか、後から付け足されたものなのか、最新の概念なのかは、千差万別である。

人類原理にはDNAに刻まれたような普遍的人類原理と、後付けの可変的人類原理がある。単純に生きることそのものは普遍的人類原理だろう。生きることになぜ、と問いかけても、それは原理としか言い様がなく、理由などあるはずもない。可変的人類原理には、なぜと問いかけることは(現在の観点では)意味が無いが、発生原因を考えることには、おそらく意味がある。後付けということは、何か付けられた意図、もしくは理由があるはずだ。可変的人類原理をメタ認知することで、そこから脱却できる可能性はある。私は功績主義が現代の人間の苦しみを産んでいる原因だと考えているので、脱却する可能性があるなら、考察する余地はある。しかし、いつも言っているが、全ては表と裏だ。脱却して良いことばかりとは限らない。

さて、少なくとも功績主義は可変的人類原理である。古より脈々と受け継がれた、人類普遍の原理ではない。何もせずとも、血筋だけで全てを持っていくような時代もあったからだ。そういう時代では、血統のない人がいくら功績を挙げても、今ほどの意味はなかったはずである。血統主義が功績主義へと変化していったのは、資本主義の発生原理と関連性があるのだろうが、今回は触れない。とにかくこれが後付けのものであるという認知があれば、そこから脱却する道も見えてくるはずだ。しかしその答えはまだ持っていない。




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