【世界考察23】コンプレックスを生み出すもの
私はコンプレックスがない。身長は人権がない程度だし、顔はイケメンだと言われたことは一度もない。頭は良かったが、私の周りには私よりもハイパー高学歴がゴロゴロいる。教え子ですら私より遥かに高学歴がいる。運動も得意ではない。取り立てて人より優れた何かがあるかと言われると、ない。いや、音感だけは人よりかなり高いかもしれない。披露する機会はないが。脳みそと音感以外は、全てが平均より低いんではないかと思う。
それでもコンプレックスはない。なぜか。
私から言わせると、ここでなぜか、と問うこと自体が既におかしいのだが、そもそも「勝つ」ことに意味を見出していないからである。当然「負け」にも意味を見出さない。平等に意味があり、平等に意味が無い。全ての価値はフラットである。勝ちも負けも価値も全て相対的なものだ。
現代の観点から見て能力が高いというのも、結局相対的な話である。身長が高いことは現代ではメリットでしかないと思われているが、質量が大きければエネルギー消費も大きくなるわけで、エネルギー効率という観点ではデメリットにもなりうる。メリットしかないものはない。能力の高い低いという概念自体が、私に言わせるとあまり意味が無い。高低よりもベクトルの違いと呼んだ方がしっくりくる。
こういうと、反論が起きることはわかっている。現代でそんなエネルギー効率考える場面はねえだろと。身長高い方が女にモテるし年収も高いしスポーツも有利だしあーだこーだで云々と。ここでもみんな大好き統計である。
私は価値判断や思考の軸に統計をほとんど取り入れていない。あるのはメリットもデメリットも存在するという、存在への意識だけだ。突き詰めて考えていくと、コンプレックスの根源にあるものは、最強の学問であるらしい「統計」が関わっているのではないか。偏差値もそうだが、一面的なデータだけ取り出して統計処理を施し、序列化、可視化するという作業に、現代的なコンプレックスのコアがあるように思える。
しかしこの考えも鶏が先か卵が先かという話で、生来の競争心がそのような統計処理を生んでいる、生まれた統計処理がそれをブーストしている、という形である可能性もある。私にコンプレックスがないのは、統計を無視して生きているし、競争心もないし、全ての価値が相対化されているという合わせ技にある。
そしてコンプレックスがないことがいいことかはわからない。少なくとも過剰な相対化によって、いくらかの人を、彼らの主観的にはわからないが、客観的に見れば不幸にしている自覚はある。同様に私のコンプレックスのなさに救われている人間がいる自覚もある。全ての事柄にはメリットとデメリットがある。