「マンガでわかる東大読書」は、「東大読書」ではない。
みなさんは料理をしたことはあるだろうか?
僕はない。
ただ、材料を用意するだけならやったことはある。カレーライスを作るというからにんじんと玉ねぎとジャガイモとカレールーを店に買いに行って用意して、親に料理してもらったことくらいなら、ある。
だがもし、にんじん・玉ねぎ・ジャガイモ・カレールーを用意して、出て来たのがマンゴープリンだったらどうだろうか?
驚くのを通り越して、「えっ!?ど、どうやって作ったの!?!?」ってなるのではないだろうか。
さて、本題だ。
明日、「マンガでわかる東大読書」という本が発売される。何を隠そう僕が書いた「東大読書」という本の漫画版だ。
僕はこの漫画の原案を考えた人間。つまりは、材料は僕で、料理は別の人が担当してくれた本だということだ。
はっきり言おう。これはマンゴープリンだ。
材料を作り、用意し、漫画家の小野先生に手渡したのはまぎれもない僕で、その中身はたしかにカレーライスの材料だったはずなのだが、出て来たのはマンゴープリンだったのだ。
だってみんな知っているか?この漫画やべえんだ。
第1話が無料で公開されているので、まずはこちらの記事をチェックしてほしい。マンガ「7日後に"読書嫌い"を克服する男」1日目というタイトルで公開されている。おいタイトル。
で、整理するとこんな感じだ。
東大読書→東大生の、文章を読むテクニックを書いた本
マンガでわかる東大読書→やたらハイテンションでラップが好きな悪魔みたいなアフロの神さまと一緒に東くんが大嫌いな読書に挑戦する本
……うん。ツッコミどころが10個くらいあるのでどこから突っ込んだらいいのかわからなくなる。
まずツッコミどころとして思い付くのは、東大が関係なくなっている。「東くんが大嫌いな読書に挑戦する」で「東大読書」だそうだ。おそらくこんな形で「東大」という言葉を使った人は後にも先にもいないだろう。
次にこの、ハイテンションでラップが好きで悪魔なんだか天使なんだかわからないアフロオヤジである。表紙にドヤ顔で立っている。
―――誰なんだろうかこいつ?
一応この本の表紙には「原案 西岡壱誠」って書いてあるんだが、その僕が本当の本当にこのキャラがどういうやつなのかわからない上にどうしてこんなキャラが東大読書というタイトルの本の表紙を飾っているのかわからないのだがどうすればいいのだろうか?
名前は「ジェフティ」らしい。名前を聞くと余計に訳がわからなくなった。
最後に主人公の東くんである。軽く読んだらわかるのだが、マジで本が読めない元偏差値35の23歳男性だそうだ。どこかで聞いたことあるなと思ったら名前は誠一だそうだ。僕の名前は壱誠なのだが何か関係があるのだろうか?ちなみに僕も今23歳だ。
そしてページを一枚捲るとこんな文言が。
「こんな僕でもできました!―(S・A 23歳男性 学生時代の偏差値35)
お い 。
東大読書という、この本の材料を提供した人間として、僕は思うのだ。
これは本当に、東大読書なのだろうか?と。
この際だからもう、はっきり言わせてほしい。
これは、東大読書では、ない。
東大読書という材料を使った、全く別の料理なのだ。
というかこれ、なに?
・東大読書とは、「勝手に学べ!!」って本だった
僕は、もともと偏差値35だった。高校3年生の模試の偏差値が35だったのにもかかわらず、なぜか、音楽の先生が「東大に行け」言い、なぜか、その言葉を鵜呑みにしてしまい、そこから二浪してなんとかどうにかこうにか東大に合格した人間だ。
(高3の時の僕の成績表はこちら。あまりに悪すぎて最近Twitterで「こんなに悪いわけない」と批判されたのだが、事実なので仕方がない)
そんな人間から言わせてもらうと、読書というのが一番ハードルが高い行為だった。国語の評論文だとか英語の長文だとか、そういう次元の話ではない。そもそも教科書が読めないし、先生の授業が『読み解け』ないし、人の話もよく理解できていなかった。読書というと本を読むだけのイメージかもしれないが、文脈を読むのも読書だ。漫才で何が面白いのかを理解するのも読書だし、先生の話をノートにまとめるのすら読解力がいるのだ。そしてそれができないということは、「なんにもできない」ということに他ならない。
読めないから、なにもできない。勉強しようが知識を蓄えようと努力しようが、意味がない。そういう無力感が、いつも僕の根底にあった。
そしてそんな僕が変わるきっかけになったのは、一冊の本との出逢いだった。
「先生はえらい」。
この本は、僕に「東大に行け」と言った先生がオススメしてくれた本だ。評論なんて読めないとも思ったが、この本は別だった。軽快でテンポのいい、それでいて読者を置き去りにしない工夫がされていて、おそらく中学生でも小学生でも読めるくらいのレベルの本だったので読めてしまった。
で、この本。結論は「先生はえらい」というタイトル通りだった。だが「先生はえらい」というのは何も、高圧的にそう語っているのではないのだ。「なにかを学ぶというのは、主体的な行為なんだ」「別にその先生がすごい人かどうかなんて、どうでもいい。先生は偉くて、何か自分は得られるものがあるんじゃないかと考えていた方が、物事はよく理解できるようになるんだ」と、そう教えてくれる本だったのだ。
この説明をする時、この本では能楽の「張良」という曲をエピソードとして紹介していた。これは、張良という人物が、黄石公という老人の知っている兵法の極意を教わりたいとして奮闘する話だ。
張良という人物は甲斐甲斐しく「先生、先生」と仕えるのだが、黄石公というこの老人はどういうわけか全くその極意を教えてくれない。ある日、黄石公は馬から靴を落としてしまい、「取って、履かせよ」と張良に命じる。「ふざけんなよ」と思いつつ靴を履かせた。
さらにまた次の日、黄石公は今後は両足の靴を落としてしまった。そしてまた、「履かせよ」と命じた。張良はこの時、「これは偶然ではないな。きっとこの、靴を履かせるという行為を通じて、黄石公はなにかを学ばせようとしているに違いない!」と考え、考えに考え、なんと本当にその極意を瞬時に理解してしまった……。
という話だ。
……「へんな話ですよね」、と本でも書かれていたのだが、こうやって紹介しているとめちゃくちゃへんなエピソードだなと感じる。だって一体、靴を履かせるという行為でなにを学ばせたというのか?何も学ぶ所なんてない。だいたい、この黄石公という老人がただボケていただけだったとしてもこの話は成り立ってしまうのだ。勝手に生徒が、先生から学んだだけかもしれないのだ。
だが、そう。ここなのだ、この本が伝えたいのは。
『学びというのは、自由なのだ。別に先生がどういう人かなんて、関係ない。大事なのは、自分がどう学ぶか。相手から教えてもらうのを待っているのではなく、自分から学びに行けば、いくらでも学ぶことができる。』
『黄石公がボケ老人だろうが老獪な賢者だろうが、そんなものは瑣末な問題なのだ。要は張良のように、どう能動的に学ぶのかが大事なのだ』、と。
非常に大切で、人によっては当たり前のことだと感じるようなことかもしれない。でも僕は、この時になるまでわからなかった。
そしてこの本の感想を、僕はこの本をオススメしてくれた先生に話に行った。「先生はえらいって、こういう本でした」「なんか考えてた本と全然違くて、驚きました」と。
その時に先生は、僕のことを褒めてくれた。そして「この本の伝えたいことを、ちゃんと理解できたね。そして今、こうやって僕に本の感想を伝えてくれるというのも、この本で書かれている『自分から学ぶ』という姿勢なんだよ」と言った。
本の感想を言う。これは、受け身ではできないことだ。勉強を教えてくれるのを待っている状態では、誰かに本について語るという行為はしなかったはず。本の感想を言うというのは、読んだことを、どう自分なりに解釈して、どう行動に落とし込むか、ということをしっかりできた証拠なんだ、と。
それを聞いた時に、僕は道が拓けた気がした。「ああ、読書ってそういうものなのか」と。張良のように、老人から教えてもらうのを待っているだけではいつまでたっても教えてはもらえない。自分で考えて、一つ一つの行動をしっかり理解して、そして自分なりに解釈し、アウトプットする。それができてはじめて、「学ぶ」ということは始まるんだ、と。
これが、東大読書という本の根本にある考え方だ。表紙やタイトルからどんなことが書いてある本なのかを類推し、記者になったかのようにとにかく疑問を持って読むようにし、内容を一言でまとめ、多面的に解釈し、そしてその本をどう活かすかを考える。受け身で教えてくれるのを待つのではなく、常に考えて読むようにすれば、どんな本だって怖くはない。それを一冊の本にまとめたのが、「東大読書」という材料だった。
執筆した時に考えたのは、「とにかくわかりやすく」ということ。わかりやすい例を出したり、キャッチーな言葉をわざと使ってみたりしながら、頑張って執筆したのを覚えている。それに加えて、編集者の桑原さんが大事なところにラインマーカーで線を引いてくれて、各項目のまとめまでつけてくれた。その甲斐あって、東大読書は読みやすい仕上がりになったと感じる。東大生に渡すと、大体ものの20分で読み終える。それくらいには読みやすい。
・「マンガでわかる東大読書」のマンゴープリン具合
では、「マンガでわかる東大読書」はそれをどう料理したのか?
そのわかりやすさを逆手に取って、どこまでわかりやすくできるのかを挑戦してくれたのである。
例えば、僕は「要約読み」という章で「本は魚」だという例を紹介した。「文章というのは、最初から最後まで骨が一貫して通っていて、その身になっている部分には具体例とかデータとか比較とか補足説明とかが入っている」「魚は身が美味しいけれど、しかし一貫して存在しているのは骨」「だから、身を骨と分離させて、骨の部分のみを見出すことこそが要約文を作ることになる」と。
我ながら、まあまあうまく説明できたなぁと思っていたのだが、その材料をこの漫画ではこう料理した。
・まず主人公に魚を食べてもらう。
・その魚の美味しい部分は身だということを主人公に体感させる。
・どこからともなく現れた魚でできた橋の頭に主人公を置き、骨でできた橋を渡るように指示する。
ちょっと待って欲しい。
そんな意図はない。そんな意図は、なかったのだ。いやたしかに例え話の一環として入れたけれども。まさかこんな漫画のワンシーンとしてすげえがっつり使われるなんて思わないじゃないか。カレーの具として買ってきた人参で、綺麗な華を作られたようなものだ。まさかそんな風に使うなんて思わないじゃないか。
ちなみにこの漫画、こういうことがいっぱいある。
・本を読むときは、記者になった気分で取材するように読めばいい!→なぜか記者会見現場が出現して本当に記者っぽいお姉さんにめちゃくちゃ問い詰められる。
・二つの本を同時に読むといいよ!→なぜか双子の神霊が現れて違う本をプレゼンしながら喧嘩しつつ実際は仲がいい。
こんな風に料理すんのかこれ!?!?と本気で驚いた。
でもそこまで考えて、わかったことが一つある。
「これは、東大読書で根本になっていた、張良と黄石公のエピソードと同じなんじゃなかろうか」ということだ。
読んだものを、どんな風に料理するかは各人に任されている。靴を履かせてもらっただけで兵法の極意を理解してもいい。先生から教わったことだって何に活かすかは自由。
そう考えたたときに、僕は今、黄石公なのかもしれない。
靴を履かせてもらっただけなんだけど、なぜか兵法を理解してもらった。そんな状況なんじゃなかろうか、と。
たしかにカレーの材料は用意した。カレーを作るだろうなとも考えていた。
でも別に、それをどう料理するかなんていうのは自由なのだ。カレーの材料で、マンゴープリンが出てきたのだとしても、それはそれでいいのだ。むしろ、カレーの材料しか準備していなかったのに、マンゴープリンを作ったその技能に対して、僕は心から尊敬の意を述べたい。黄石公だって、もしかしたらそうだったのかもしれない。張良の学びを、心から賞賛したに違いないのだ。
……いや、難しい言葉を使うのはやめよう。
黄石公「まじか!これから兵法の極意を教えるつもりだったんだけど、靴を落としただけで学んじゃったの!?すげえな!?」
ぶっちゃけ、そんな気分だったんじゃないだろうか。
そして僕は今、同じ気持ちだ。
期せずして、「自由で能動的な学び」という東大読書という本を作ったこの源泉を、「マンガでわかる東大読書」はその仕立てで再現して見せたのだ。この事実に、僕は非常に、感動している。
そんなわけで。
読者諸兄、この「マンガでわかる東大読書」はマンゴープリンだ。「東大読書」というカレーの材料を使ってはいるが、マンゴープリンなんだ。
そしてこのマンゴープリン、なんとめっちゃ美味しいんだ。
たしかにカレーではないが、そんなものは些細で瑣末な問題だ。
ここに美味しいマンゴープリンがある。食べない手は、ないのではなかろうか。
「マンガでわかる東大読書」、よろしくお願いします。