しあわせはみんなで回すもの
じへーって、ちょっと短絡的なんです。視野も思考もちょっと狭い。だから、しあわせの感じ方もちょっと狭くて、人にしてあげたことが自分に帰ってくることに気づけないんです。
自分のじへー度がわかればわかるほど、自分がとっても自己中で、人と比べて優しさが足りないと思うようになりました。人が困っていることに気づかずスルーして冷たい対応をしていたり、悪意はないけど人を困らせていたり。
それに比べて、視野の広い人、目端の利く人たちのなんと優しいことよ。
自分もせめて人並みになろう。本意ではないにしろ人に優しく。ちょっと無理してでも人に優しく。本当は嫌だけど、人並みに優しい人だったらこれくらい自分を犠牲にするはずだから、本当は嫌だけど嫌じゃないふりして犠牲に・・・。だって自分が間違っているんだから。
こんなことを考えていました。しかし、嫌だという気持ちに蓋をしても、必ずどこかで無理が出てストレスになります。無理な自己犠牲は継続することができません。
「なんでそんなに優しくできるの?自分が損するの嫌じゃないの?」と友人に聞いてみたことがあります。すると
「え?損しないためにやってるんだよ?自分も得するんだよ?優しい心があるわけないよ、自分がかわいいのはみんな同じだよ」という答えが返ってきました。
じつはこれ何度聞いても理解できず、何年も同じことを聞き続けてきました。あんまり何度も聞くので、かなりかみ砕いて教えてもらい、最近やっと意味を実感できるようになったので、この記事を書いています。
しあわせとは、なるべく広い範囲の人が共有できるしあわせであればあるほど、自分もしあわせになれる。人をしあわせにすることが、自分をしあわせにする。
これは、誰に教えてもらうものでなく、広い視野や感覚を持って生活している人なら、子どもの頃から生活の中で自然に学ぶ感覚だそうです。だそうです。だそうです(笑)
人のしあわせが自分のしあわせなのだと無意識レベルで結びついているので、人に何かしてあげることにそれほど負担を感じないのだそうです。というか、負担を感じるところまでしないで、中間点を探るのだそうです。
それにはバランス感覚が必要で、白か黒、善か悪、オンかオフになりがちなじへーにとって、これはかなりハイレベルな事かもしれません。
しあわせには、二種類あるように思います。ひとつは外側からやってくるしあわせ。美味しいものを食べたり、好きな音楽を聴いて刺激を受けたり、誰かに優しくしてもらったり。
もうひとつは、自分が人をしあわせにすることから得られる、内側からやってくるしあわせ。
じへーは好きなことにのめり込んだり、強い楽しみを求める傾向があります。そうなる理由は、自分の内側にあるたくさんの小さな幸せに疎いからのような気がします。
実際には自分が人をしあわせにしているのに、その事実を見逃しているのかもしれません。
たとえば、家族みんなの洗濯物。面倒くさい!しなければいけないからイヤイヤやっていると、なかなかしあわせとは感じられませんよね。まあ、毎日の洗濯に毎日感謝をしてくれる家族なんていうのも存在しないので、喜んでもらえているとは思いにくいのですが。でも、たとえ喜んでくれる反応がないにしても、実際に家族の役に立っている。それに家族が日常を平常に送ることができることが自分のしあわせでもある。そうやって、自分に帰ってくる小さなしあわせをコツコツと意識すると、人に何かをすることがこれまでほど苦にならないし、自分がしあわせになるんだと思うようになりました。
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