デイヴィッド・ホックニー展に行ってきた。アートと私の程よい距離感。
先日、仕事で東京に来ていた友人に誘われて
東京都現代美術館のデイヴィッド・ホックニー展に行ってきた。
友人は昔から私の知らないアーティストや、
行ったことのないジャンルの展覧会に誘ってくれる。
上野で見た建築家のル・コルビュジエの作品展もそのひとつ。
一緒に展示されていたピカソの絵や、
時代背景の解説を見たことで、キュピズムとかピュリズムとかをなんとなーく知ることができたおかげで、今回のホックニー展でも
「お?これは聞いたことあるぞ!」
と、なんとなーく理解しながら楽しむことができた。
日頃、超有名どころの展覧会があれば見に行く程度の私でも、そうした知識と発見を増やすことは、
まだしばらく続く人生を少し豊かにするための材料集めだと感じている。
体力があるアーティスト
話は戻って、ホックニー展はとても良かった。
彼のことは何も知らなかったが、
素直に描くことが好きなんだなと伝わってきた。
そして、新しいことを取り入れたり、
時には昔に戻ってみたりを、極々自然にできる柔軟性のある人なのだなという印象を受けた。
特に、2010年からiPadを使って描き始めたことにはとても驚いた。
70歳を過ぎても、デジタルアートを取り入れてみようという体力と気力があることが、シンプルにすごい。
コツコツと体を鍛える人の背中が曲がらないのと同じように、何十年も描き続けてきたことで、
描くという体幹がしっかりとできあがっているんだろう。
散歩をするように鑑賞する
私が今まで絵画を見て一番感激したのは、
ムンクの「太陽」を見た時だ。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、
作品の前に立った時、強い光の中でいつかの記憶の一部を、ものすごいスピードで引き摺り出されるような衝撃が走った。
「ムンクさん!あなたがノルウェーで見たこの光と同じ強さを、私も日本で見たことがあるよ!!」
と伝えたくなる、初めての感覚だった。
そこから絵画の良さとは、
キャンバスに切り取った一場面の上から、作者自身の五感を重ねられることなのかもしれない。
と思うようになった。
私は普段、おもしろいと思った景色や花を見つけると、スマホで写真を撮るようにしている。
しかし、どれだけカメラが高性能でも
それは事実を記録しているだけで、自分の眼で感じた色や光の刺激を残すことはできないし、
むしろ勝手に補正がかかり別物になったりする。
どうにか日常の小さな感動を形にできたらいいのに…。とは思うのだけれど、残念ながら私はその才能と手段を持ち合わせていない。
ホックニー展で私が特に好きだったのは、
「スプリンクラー」と「春の到来、イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート2011年」だ。
スプリンクラーから放たれる細かな水しぶきの行方と、その先に透ける背景や、
水たまりに強く反射する空の色など。
まさに私のできたらいいのにが存分に詰まっていた。
「太陽」で感じたような強烈さはないけれど、
日常に存在する小さな感動がしっかりとキャンバスに収められている。
全長90mの「ノルマンディーの12か月」という作品は、本当に散歩をしているような穏やかな気分で鑑賞できるおもしろい作品だった。
11月5日まで開催しているので、気になる人はぜひ見に行ってほしい。
心地よいを選んで触れる
一言でアートと言っても、
長い歴史の中でたくさんのアーティスト達が、各々の形で何かを表現してきたのだろう。
表現というのもまた曖昧なもので、
見る人それぞれに解釈があり、好き好きがある。
何が正しいかなんて私には全然わからない。
全ての表現を受け入れることは到底できないし、せっかくの時間にストレスを感じる必要も無い。自分が心地よいものを自由に選んで楽しめばいいのだ。
ホックニー展の後、私は、
描かずにいられないから描いている。という作者からのエネルギーを感じる絵が、自分にとっての心地よいだと思った。
私にはそれがとても眩しく、羨ましいからだ。
これからもそんな作品に出会えたらラッキーだなと思う。