BLについて考えたらエロス、果ては九鬼周造先生にたどり着いた件 その2
前回の記事では、わたしはBL作品で表現される「登場人物ふたりの距離感」=人間同士の心理的(物理的)距離の伸縮に萌えており、それは何もBLに限らず、エロスの根元にあるものではないかと書いた。
さらにそれは九鬼周造『「いき」の構造』で述べられている「いき」に繋がるのでは? というのが今回の記事。
小難しいかんじですみませんが、どうぞお付き合いください。
「いき」へと至る3つの契機
まず、わたしの拙い言葉で、『「いき」の構造』の言わんとしていることをざっくりと解説していこうと思う。
九鬼周造曰く、「いき」は日本以外で翻訳し得ない民族性の高い言葉で、その構造は「媚態」「意気地」「諦め」という3つの契機によって成立している。
「いき」は、まず異性に対する「媚態」というかたちであらわれる。
媚態、つまり相手に対して「気があります」と婉曲的に、互いに表現してみせることで、自己と異性という二元的関係が構築される。
この二元的関係を基礎とした緊張が「色気」「なまめかしさ」になるのであって、男女が「完全なる合同を遂げ」た瞬間、緊張が解かれ、媚態は消失してしまう。
つまり、「この人とひとつになれるかも」という可能性を可能性のまま取っておくことが、媚態を持続させるのだが、そのためには男女間の距離が必要である。
気があるそぶりを見せておきながら、緊張を持ち続ける、という難しいことを実現させるのが「意気地」である。
「意気地」とは、「鳶者(とびのもの)は寒中でも白足袋はだし」(講談社学芸文庫、P41~42)といった、理想主義的な行動規範にあらわれる強味を持った意識のことだ。
「いき」は媚態でありながら、異性への一種の反抗心を内包している。この「いき」を体現しようとする心意気が、「意気地」をつくる。
ここまで来ると、「いき」とは非常に理想主義的なものに見えるが、3つめの契機「諦め」が加わることで、「いき」はさらに奥行きを増す。
何に対しての諦めか。いくら懸想してもやがて人の心は移ろいゆき、この世に確かなものはないという「運命」に対する諦めである。
そういった無惨な現実についてぐじぐじと悩むのではなく、執着から離れて未練なく、軽やかで、あっさりと垢抜けているさまを、九鬼は諦め、すなわち「恬淡無碍(てんたんむげ)の心」と呼んだ。
これは浮き世という苦界(くがい)の洗練を経て解脱するという、仏教的な価値観に由来していることは言うまでもない。
「媚態」を以て互いを寄り添わせ、一元的なものになろうとするのを「意気地」が阻止する。そして自分と相手との二元性を保つ。
しかしこのふたつの要素だけでは、どうしてもまじめさ、真剣さが際だつ。恋の妄執にとらわれているだけでは野暮になりかねない。
それを自由に(時に浮気心として)解き放つのが、すっきりとして瀟洒な「諦め」の心である。
こうして3つの契機が絶妙なバランスを取った地点、恋の真剣さと理想主義の中で「諦め」を以て遊んでみせる精神性に、「いき」ある。
野暮といきの狭間で
さて、BLとエロスの話に戻ろう。
前回の記事で、「互いの心の裡が見えないからこそ生じる距離の伸縮」にわたしは萌え、「相手のことを理解しようとして近づき、しかし相手のすべてを理解できないというジレンマ」がエロスの根底にあるのではないか、と書いた。
これらは九鬼の言葉を借りれば、「媚態」と「意気地」によって自分と相手との二元性が保たれている状態である。
そしてBLにおける距離の伸縮と、エロスの根底にあると思われるジレンマは何を生むか。
相手との同一化を達成しようとしては挫かれ、すべてをわかち合うことはできないという「さびしさ」だ。
そのさびしさと真正面から対峙してもがけば、野暮となる。
しかしさびしさをそういうものとして受け止め、ならばその中で遊んでみようと軽やかにかわせば、いきとなる。
色恋の世界で相手と遠ざかっては近づき、それでも人間は遣る瀬ないものでこの世は無常であるという認識を持ちながら、しなやかに遊ぶ。
そういう心持が人との交わりを円熟させ、滋味深い料理のように、味わいを持たせるのではないかと思う。
……とは言え、こんな境地まで達せられる人間はそういない。
九鬼も長唄から「野暮は揉まれて粋となる」と引用している通り、浮き世の洗練を経なければ、いきまでたどり着けない。
苦い経験をして孤独に苛まれ、それでも潰されずにしなやかであろうとする人の姿勢を、わたしはとても愛おしく思う。
だからBLの物語においても、互いの距離を変化させながら葛藤する姿に心を動かされ、恋にとらわれそうになりながらも「相手とひとつにはなれない」と自覚する瞬間の真水のような冷たさに、ぞっとするエロスを感じるのかもしれない。
結論:距離感=エロス=「いき」へたどり着こうとする姿勢
「あれ、ここで言われてる”いき”って……BLに対する萌えとかエロスとかと一緒じゃね?」という気づきを元に書いてきた本稿。
だが正確には上記のとおり、人間の心持が「いき」へと向かってゆく過程、その姿勢自体に萌えがあり、エロスがある、という結論に至った。
もちろんBL作品の登場人物や普通の人間が、わざわざ「いき」を意識しているわけではない。
しかし『「いき」の構造』というフィルターを通して見ると、その心の揺れ動きが持つはかなさゆえの美しさが、より深く理解できるのではないかと思うのである。
……ということで、お付き合いいただきありがとうございました。
次回からはもう少しライトな話を書く予定です。
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