「受験勉強なんて無駄…なのか?」 - ネイティブな知性とリファレンシャルな知性【全文公開】
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偏差値はくだらないとか受験勉強なんてしょうもないとかよく言われる。あるいは、受験勉強を必要以上に美化して、それこそが知性の基盤になるみたいなことをいう人もいる。
何事も、基本的にはありのままの価値しか持たない。受験勉強にもありのままの価値がある。ただ、その価値をありのままに評価できている人は少ない。
受験勉強は、思考訓練には良いが、直接社会で役に立つものではない。そういう考えが一般的かと思う。あるいは、受験勉強がそのまま役に立つと思っている人がいたなら、大体において、それは、東大王だとかクイズ王だとかの特殊状況を想定している。
僕の考えは違う。
受験勉強はそのまま役に立つものである「べき」だ。つまり、それがそのまま役に立たない人は、本来的には大学になど行くべき人ではない。
『なぜ大学に行くのか』でも触れたが、大学は本来的な学びを行う場所であるべきだ。就職のための経由地であるべきではない。数学なんか社会出てクッソほども使ってねぇわ。そういう人は、本来的には大学に進学すべき人ではなかったのだろう。
現代における一般教養の幅は広い。広い分だけ浅くもなった。一般の方ならそれで良い。でも、学習者として大学に進学するなら、深さも持つべきである。深さが学習の到達レベルを底上げする。
何が言いたいかというと、僕は、受験勉強程度のことは一般教養の内部に含まれると思うのだ。高校数学がわからないと、統計の基本すら理解することはできないので、ほぼ科学のことは何もわからない。英語で文献に当たる、考えを英語で表現するということは、いずれ究極の自動翻訳機でもできない限り、差し当たり必要な技能である。高校で学ぶ程度の理科や社会は、選択科目分くらいは全て常識として知っているくらいでないと、学びのスタートラインに立てない。古文や漢文も、かつて日本人が教養としていた思考に触れる良い体験になる。日本人であるなら、本居宣長程度は触れておいて欲しい。そして、皆意外に思うだろうが、唯一、現代文だけが、あまり役に立たない。正確に言うと、現代文の受験対策は受験特化に過ぎる。そこで学ぶテクニックは、思考体験を増やせば、いずれ時間の問題で放棄して良い類のものだ。
受験勉強というのは、頭の体操ではない。受験が終わったら全部忘れて良いものでもない。
受験勉強は、そのまま一般教養へと移行するものだ。
数学や物理に興味があるからと言って他の分野からの学びを疎かにすると、現代の知見における自分の位置情報を見失う。
科学がカバーする裾野はあまりに広い。非科学も科学の検証が必要であることを考えると、何もかもが科学の対象であると言っても良い。
しかし、かと言って、この世の全てを記憶するわけにもいかないし、記憶が直接的に知性なわけでもない。いまなら、デジタルデバイスを以って外部記憶装置(クラウド)との連携性を持てば、いちいち細部まで記憶せずともほとんどの事象の概要はカバーできる。そう、まさにその発想によって、いま、知識はないがしろにされている。しかし、ならば、深い思考に知識は一切不要なのか。いや、思考力それ自体を高めるというためではなく、問題意識というものを掘り下げる、そのために知識が必要だ。知識がなければ、そもそも問題意識すら持てない。
そして、問題意識というのは自らの内部に発生するものであって外部にはない。つまり、ググっても自分にとっての問題意識など何処にも発見できない。自身の内部に問題意識を持ってこそ、初めて外部が利用できる。
伝わっただろうか。自身の内部にある知識、それを、外部記憶装置に置いた知識に対して「ネイティブ(内的)知識」とでも呼ぼうか。ネイティブ知識によるネイティブ知性と、外部記憶装置の参照によって生み出されるリファレンシャル(参照的)な知性とでは、質が全く異なる。いずれ、外部装置が完全に脳の外延になるところまで行くなら話は別であるが、いまのところはそこまでではない。
受験勉強は、「ネイティブ知識」の底上げをする非常に良い機会である。皆、これからはAIの時代であると言う。人間は労働から解放される。余暇に生きよ。そんなことをうそぶいている人が大勢いる。しかし、そんな時代であるからこそ、逆説的に、リファレンシャルでないネイティブな知性を持った者が生き残る。そして、ネイティブな知識を持った者の方が、概してリファレンシャルな知識の運用にも長けている。
不要な知識を外部に置くことは重要だ。人間の生は有限なのだから。しかし、ネイティブな知識がなければ宿らない知性があることも、よくよく検討して欲しい。クイズ王になるためでなく、知的であるために、何を自分のネイティブ領域とするのか。それをしっかり考えながら学びを進めて欲しい。
かつて、数学が大の苦手であったファラデーは、物理学に多大な功績を残した。そんな例を持ち出して、苦手分野も許容すべきだとか、幅広い教養なんて要らないだとか言う人もいるだろう。そうかもしれない。しかし、もしもファラデーが現代を生きていたなら、貧しい出自でまともな教育を受けられなかった彼であるが、おそらく、数学「程度」のことはググって簡単に身につけたのではないだろうか。
いまや、誰もがリファレンスを持ち得る時代なのだ。そんな時代に、一体君は何を持ち得るというのだろうか。
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