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Feel different! 断章b「システムとモジュール」

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"Think difficult!"から接続して、僕自身の考えそのものを、つらつらとまとめてゆく"Feel different!"シリーズ。

一定以上のボリュームの思考を形に落とし込むのはなかなか困難ではあるが、断章としてでもなんとか出力してゆきたい。今回は、ほとんどの内容は無料公開しているが、結論部分は有料としている。これは、トータルでこのシリーズに目を通した時に読んでおかないと理解に大きく関わる部分だが、この記事単体でなら読まなくてもさほど問題はない。


◆断章b◆システムとモジュール

- 依存システム

自分が生きていることに信念を持つ。こんなことは当たり前のことだし、わざわざ偉そうに自分語りすることではないが、持っていない人があまりにも多い。僕にとって、生きるとは、信念を持つことだ。僕は、生きていくという目的のために生きていない

たとえば、僕は生きていくためにYouTube活動をしているわけではない。

YouTuberはYouTubeというプラットフォームに依存している。その依存度は、もうどうしようもないくらい、絶望的にYouTuberの敗北である。これは言い出せばキリがなくて、電気やその他あらゆるインフラ、そういう文明をまるごとシステムとするなら、もう我々は個人としてシステムに勝つことは不可能という話になってしまう。

話を進めるにおいて、中央の権利者が利権を一手に握るような構造を<システム>と呼ぶことにしよう。では、<システム>に依存することなく我々一人一人が正しく立つシステムとは何か。

<システム>に依存しないシステム。そんな自己矛盾的なシステムは作れるのだろうか。そんなことは自明だ。

作れない。

つまり、システムでは<システム>を変えられない。何が<システム>を変えるのか。

モジュールである。

- 自覚的モジュール

モジュールとは、ここではシステムの構成要素となっている部品というほどの意味で使用している。単体で機能を持ち、複数の組み合わせでも機能を持つ。モジュールはシステムに属し、システムは管理者に属する。YouTubeにも当然管理者はいる。もし人類が何らかの<システム>のもとで生を営んでいるのなら、その<システム>の管理者こそが人類の管理者ということになる。管理者は<システム>のユーザーに対して明らかに「情報非対称」な存在である。管理者が誰なのかは非常に重要なことだ。かつては、人類の管理者は母なる「自然」だったのだろうと思う。いまや人類は自然を上書きできる規模のシステム構築技術を手に入れている。そして、いま我々人類は、巧みにバックドアを仕込まれた金融<システム>で世界を塗りつぶし、塗りつぶされ、生を営んでいる。

この<システム>においては、<システム>に認められる成果を上げれば、誰でも資本という形で「過去」を蓄積できる。すなわち、お金である。しかし、「過去」を持つ人間が「未来」にも何かを成し遂げるとは限らない。にもかかわらず、何かを成した者に、その過去の業績に対して圧倒的なチカラ(お金)を与えて固定してしまう<システム>。本質的には、成果への報酬は未来へと開かれた「可能性」の強弱として与えられるべきで、確定した「結果」として与えられるべきではないはずだ。この<システム>は完全な欠陥品である。

- 管理者を不在化せよ

ところで、一体その管理者とは誰か。

「金融」という概念の生みの親という意味ではなく、現実にいま人類を管理するための<システム>を構築した実行者は誰か。「神の摂理」を押しのけて玉座に座っている者がいるはずだ。たとえば、可能性として、人間が人間を管理している、あるいは人間以外の知的生命体(!?)が管理していたりしないのか。

こういう陰謀論、都市伝説を、面白おかしく話す人はたくさんいる。それらは圧倒的多数の嘘と少数の事実から成り立っている。

真に大切なことは、管理者が誰かを認識することではない

だから、僕は陰謀論や都市伝説そのものを暴くことには、全く意味を感じない。ほとんどの陰謀論者は、単なるビジネス(お金儲けのための)陰謀論者であり、そういう意味では所詮<システム>の犬である。僕にとって、最優先されるべきことは、我々の生活は我々のものであるという事実だけだ。もし何者かが無制限の搾取活動をしているのであれば、当然それは排除されるべきではあろう。しかし、それが誰かをいちいち突き止めてわざわざ自らの手で葬り去りに赴く必要はないし、そんなことは不可能だ。搾取を止めるのではなく、搾取自体を不可能にしていくことしか、根本的な解決策になり得ない。

つまり、そもそもの問題は誰が管理者なのかにあるのではなく、なぜ我々が管理されるのか、にある。だから、繰り返すが、陰謀論の中身などはどうでも良い。多くの人々はそう感じず、陰謀論と聞けば、疑うか、盲信するか、の二択しかできない。

その我々の意識にこそ問題がある。初めから、陰謀論などが影響を及ぼさない生き方をすれば良いし、そうするしか道はない。

- 変化は若いうちに打て

じゃあ、政治家を目指して世の中を変えようと思うかというと、僕は政治活動で<システム>そのものを変えようとは全く思わない。意味がないからだ。システムを着せ替えても本質は変わらない。変えるべきはモジュールである。

僕がなぜ教育という「草の根」の部分に脚を突っ込んでいるのか。僕がなぜ大きく拡がり過ぎないように気をつけながら地道な活動しているのか。

<システム>に依存したくないからだ。

そして、<システム>を否定するにはモジュールを変えてしまうしかないのだ。正確には、モジュールがモジュールであることに自覚を持つこと、そこが始まりになる。<システム>を破壊しようなんて思うと、そのためには、破壊するための別なカウンターシステムを作らねばならなくなる。そうすると、その次の時代をその<システム>が支配することになり、いずれまた新たなカウンター<システム>に置換される。それではカウンターパンチの応酬が続くだけだ。そんなことを続けていては、人類はいずれパンチドランカーになり思考力を失うだろう。いや、すでに失いつつあるのかもしれない。

そもそも、人類が中央集権的な管理者を内部的に持つ<システム>が人類を支配することが「原理的に」あり得ないようなカタチに、人類が進化しなければならない。

そんな大きな変化を受け入れるには、思考に若さが必要である。いまのところ「老化」を完全に止める技術はないゆえ、人間は一定の寿命を持ち新陳代謝を続ける生き物なわけだが、そうなると、なるべく寿命の早い段階、「芽」の段階で意識改革をする必要がある。それは寿命という観点から、そうしなければ生きているうちに間に合わないからという時間的な理由もあるが、それだけではない。発生という観点から言うと、植物を比喩に使うなら、すっかり育って幹がガチガチにリグニンで木化して樹木として固まってしまうと、確かに固定された明確な目標には最適化されるが、同時に後はその目標を維持するだけの存在になってしまうからという理由もある。その段階では遅いというより、もう意識改革自体ができない。そうした不可逆的な臨界点があるのではないかという主張である。これは科学的データに基づく発言ではないのは認めるが、経験上確率的にその傾向は強い。

IUT理論の話を既にしたと思うが、この理論が受け入れられにくいというのも、既に脳が「木化」した権威ある数学者は、いまさらゼロから新しい理論を無邪気に「勉強」することが受け入れられないというのが、大きな理由のひとつであることは事実だろう。

- just a system

既得権益をぶっ壊しても、さっきの<システム>の話の通りで、何らかの固まった構造体が残る限り、何も変わらない。何かをぶっ壊すというのは確かに一つの流れを生むかもしれない。しかし、それが「意味」を持つためには、その流れが固まらずにちゃんと流れ続ける必要がある。

結局、いちいち<システム>をぶっ壊して回るのではなく、おかしな<システム>はそもそも勝手に瓦解する社会にしなければ、本質的には何も変わらないということだ。では、たとえば、YouTubeが駄目だと思っている人がYouTubeで活動して、何か意味があるのか。

普通に考えれば、ない。

ならば、普通に考えなければ良い。それが、僕がいまとっている手段である。

もっとも、これは僕が不器用でこんな生き方しかできないからこんな生き方をしているだけなので、お勧めはしないし、勧めてできるものでもないだろう。ただ、我々一人一人が個人的に自覚を持つということを目指すしか道はないということだけは、わかっている。

「僕」は、わかっている。

しかし、僕は単に自覚が「ある」のであって、これは教わって得たものではない。だから、その自覚を伝えることは著しく困難だ。と同時に、僕だけがわかっていても意味がない。

僕個人がお金持ちになっても、有名になっても、そんなことには意味がないのだ。ここにYouTuberとしての大きな矛盾が立ちはだかる。

やるべきことは、ポピュリズムを拒否すること

もっとわかりやすく言うと、いまのYouTubeの在り方をYouTubeの<システム>の中で否定していくことだ。YouTubeに限界を感じたからと言って、やるべきことは新たにYouTubeのカウンター<システム>の構築を目指すことではない。

そして、「いま」のYouTuberとしての正解で成功することに、僕は全く未来を感じない。

僕は、消費されたいわけではない。

僕が理念としているのは<システム>の否定だが、それはシステム自体の放棄ではなく、「人間の管理者として人間を置かない」というだけのことだ。

一体何を言っているのだろうか。ついに僕は気が狂ったのだろうか。

- 政治では乗り越えられない

先に進む前に、もう一度確認する。

たとえるなら、僕は外科手術で人類の奇形を矯正したいのではない。そもそも奇形にならないよう、遺伝子の正しい発現を調節したいのだ。遺伝子情報そのものを組み替えたいのでもない。

もちろん、今している話は、比喩である。念の為。

遺伝子そのものが正しくとも環境要因で間違った表現を発現することは普通にある。環境ホルモンなんて怪しげな言葉が過去流行った時期もあったので、雰囲気はなんとなくお分かりいただけるだろうか。

そこを調整したいのだ。

遺伝子をあるべき表現に発現させる。つまり、成熟する「段階」の中に根本の解決策を見ている。その環境を整えることこそが重要だと考えている。だから、人間として成熟する若い段階で意識改革をすることに意味を見出している。頭がリグニンで木化してガチガチに硬くなった大人は、もはや、「利害関係」において立場を変更することしかできなくなる。利害を超えて人間性そのものを変え得るような可塑性は失われてしまう。

しかも、「利害関係」において為された態度の変更は、また「利害関係」において容易に変更される可能性がある。そして、「利害関係」とは「政治」である。

だから、僕は政治より教育に興味を持っているのだ。

僕は、利害関係では変更されない「理念」を身体と分かちがたく発現し得る若者の教育にこそ、何らかの形で関わりたいと思っている。

念を押しておくが、教育そのものがやりたいわけではない。関わりたいだけである。

原理的に常に<システム>依存から脱する自浄作用が働く、そんな理念を行動原理の核、コアにして皆が身体内に埋め込むことができるなら、いずれ世界は変わり得る。

ぶっ壊すべきは、<システム>への依存性であり、ポピュリズムである。

つまり、ぶっ壊すとかその他過激な物言いがウケ、バズり、そしてほどなくして飽きられる、そういうサイクル自体をぶっ壊さねばならないのである。それは、「ぶっ壊す」ことでは壊せない。<システム>をぶっ壊せば新しい<システム>に置換されるからだ。だから、これは通常思いつく方法では不可能だ。

暫定措置としてできることは、部品を<システム>に依存しない部品へと少しずつ置換していくことだけだ。もちろん、これでは最終目標の達成までは到達し得ないだろうが、<システム>に空白部分を作ることで、目標達成への道筋は示せる可能性がある。

くどいかもしれないが、僕自身は、政治活動にはさほど大きな興味はなく、世のためにこの身を犠牲にしようなどとも思ってはいない。また、先に取り上げた三島氏のように美意識に殉じるような気質も、僕にはない。それでも、自分自身の生きる意味を極限まで掘り下げていった時、掘り尽くした穴ぐらの深い底で他者を発見し、自分とは結局、他者なのだということに気づいたこと、それが僕を突き動かしている。

他者がいなければ自分もいない。だから、他者を巻き込んだ活動をしているのだ。自分自身の納得のためにだけ、いまこの活動をやる必要性を感じている。

こうした活動が結果論として皆さんの役に立っているかどうかはともかく、僕は皆さんの役に立つという押し付けがましさを第一の目的として活動しているのではない。あくまで、僕自身が納得を持って生きるためにやっている。

すなわち、僕の活動の根源は「利害関係」ではない。

そして、利害関係抜きの話が通じる者、それこそが、「若者」なのだ。

僕はその事実を本当に肌身に感じている。大人には、それが社会的な成功者であればあるほど、より一層利害関係の話しか通じない

だから、若者なのだ。

正直、教育問題や、特に受験勉強法指南などは、僕の伝えたいことの本質とはおよそ関係がない。もちろん、そんなところで前途ある若者に躓いて欲しくないとは思っているし、それゆえ、僕にできることがあるなら最大限のサポートはしたいと思っている。

それでも、それは最終目的ではなく、単なる「手段」なのだ。僕の準備した入口を通った若者達との間に、コミュニケーションのためのチャンネル、コネクションを持つ。そのために大学受験コンテンツを作っているのであって、本音では大学受験系YouTuberなんか、むしろ全部ぶっ壊したいくらいである。

誤解はしないで欲しい。これは全体的な<システム>の話で、個人的に誰が良い悪いという瑣末な話ではない。

- インフラ事業者と国家

現状の僕のそれなりの活動の場であるYouTubeの問題点は、広告モデルで収益化されていることである。同じ20分の動画でもそれぞれに情報の差異があり、その重みを再生数(再生時間、維持率)などの数値ベースで判断する。それは、あくまで広告のためだけの指標であり、動画の情報的価値については、事実上全く何の質的判断も下されていない。

ちなみに、僕は論文を日常的に読む生活をしてはいないが、インパクトファクターという概念も好きではない。実務上の極めて表面的なスクリーニングとして使うのには良いのかもしれないが、引用数などは、全く本質的な指標ではないように感じられる。

ともかく、YouTubeの問題点は、基本的には「それ」に尽きる。そんな中でYouTubeの広告収益に依存して生計を立ててしまうと、自分で価値判断が下せない、与えられた<システム>の奴隷になってしまう。<システム>に認められるものにしか価値を認められなくなるからだ。既に、YouTuberは皆、びっくりするくらい何も考えずにYouTubeの<システム>に認められることだけを研究するように飼い慣らされている。<システム>に認められるとは、収益の拡大である。そして、ここで言う”YouTube”とは、もちろん「たとえ」である。YouTubeだけの狭い話ではなく、広く世の中そのものと思ってもらって良い。

だが、真に問題なのは、その収益の管理者が、国家ではなく単なる一企業であるということだ。

前時代までの価値観なら、疑いようもなく国家レベルの事業であるはずのインフラだが、運営しているのはあくまで一企業である。本当に、一企業が国家レベルの事業を行なっていることを、全面的に信頼してしまって良いのだろうか。そこに何の疑問も感じないというのは、あまりに警戒心がなさ過ぎるように思われる。「国家とは何か」を考えずにインターネットについて考えることは、できない。国家とは。国境とは。グローバリズムとは。日本とは。

しかし、結局先に述べた通り、「大衆」としての我々は皆、システムの本質などには全く興味がなく、とにかくそこにあるものを利用して、いかに「自分」に向かう情報のトラフィックを生み出して収益を最大化するか、それしか頭にない。一時的であっても、「自分」さえ儲かればそれで良い。儲かる仕組みの舞台裏などどうでも良い。その裏で他者を踏み付けていたとしても、自分の目にさえ入らなければそれで良い。バーチャルかつミニチュアな「重商主義」とでも言えば良いのだろうか。よくよく考えれば、時代錯誤極まりない感覚なはずなのだが、テクノロジーをクッションにすることで、ネガティブな気配を消すことに見事に成功している。だから、誰も何も言わない。

本当に、誰も、何も、言わない!

いやはや、「収益化」の魔力には凄まじいものがある。

僕は、本音を言えば、許されるなら、自給自足の晴耕雨読生活にでも勤しみ、俗事から離れて隠遁を気取ってひっそりと暮らしたいのだが、現代社会のどこにもそんな「余白」は見当たらない。形だけそれを望めば、似たような生活はできるだろう。しかし、本来の意味での自給自足生活は、絶対に、できない。ありのままの自給自足生活などしようものなら、現代の社会システムからいわれのない「周辺化」を受けることは免れ得ないだろう。「周辺化」については、前回『断章a』で既に述べた。社会システムの利用を放棄すること自体が圧倒的な生きにくさを押し付けてくるため、「自然体」で生きることなど不可能だ。今の時代に田舎で悠々自適生活を謳歌するというのは、地理的に「周辺」であるかどうかを本質とはしておらず、現代の<システム>をハックした上で、後付けで好みの地理条件を選択しているというだけの事実に過ぎない。先に田舎があるのではなく、後に田舎がある。わかるだろうか。<システム>ハックなしに「ありのままの田舎暮らし」を満喫することなど不可能である。念の為に補足するが、ここで言う「田舎暮らし」は田舎で生まれ育つことではなく田舎に移住する「なんちゃって」を指している。ともかく、そういうわけなので僕もやむなく、「なんちゃって田舎暮らし」は諦めて、こうして<システム>と向き合っている。いや、向き合っているというよりただ「にらめっこ」をしていると言った方が正しいのかもしれない。

- 連続性と対称性

人類が人類を完全に管理支配するという構図は、SFにおけるディストピアとしてよく登場する。「中央」の予測範囲を超えた活動や存在は排除され、「中央」の維持に都合の良いものだけがシステム化され残される。SFでは、その「中央」は人類ではなく人工知能として描かれることも多い。

しかし、そもそも、人類は何者かに管理されるべきなのだろうか。

人類も生命体であるということを考えれば、元々は地球上の他の動植物その他のあらゆる生命体と連続性を為した一体物であるはずである。しかし、どうも、人類はその連続性を断ち切り逃げ切った感を強く持っているようだ。人類は他の動物とは違う。特別なのだ。特別であるらしい。

では、その中で、人類同士の連続性までも失われたのだろうか。

人類が遺伝情報系を無視して神経情報系で考えるという能力を獲得してしまったため、各々が自律的に思考することで、当然連続性も失われている。古典的な意味での「生物」の連続性の本質は遺伝情報なのだから。

哲学的に見ても、エロティシズムおじさんこと、ジョルジュ・バタイユ氏などは「失われた連続性への郷愁」なんてキーワードを語っているので、人類が連続性を失っていることは、僕だけの感覚ではなく、わりと共通性の高い認識なのであろう。

「連続性への郷愁」は、かつてはマスメディアで、最近はSNSで、個々の自律性を溶かして、管理者が情報的奴隷を連続的に一括管理するのに利用されている。これは非常に逆説的で皮肉な連続性である。

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