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永遠に哲学入門書を読んでいる君へ【全文公開】


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何かに思い悩んだとき、人は哲学に答えを求める。世の中には哲学という学問があり、哲学者という存在がある。望むなら学問として哲学というものを研究し修めることもできる。それも一つの道だろう。しかし、そうした道を選ばなかった者にとって哲学とは永遠に「難解」なもののようである。生きるヒントを哲学に求めるものの、古今東西の哲学者のナマの思考をどうしても難解なものと感じる人々はどうするか。

永遠に哲学の入門書を読み続ける。

僕でも、若かりし頃にあまり親しまなかった哲学者、思想家の第三者による解説書の類を読むことはよくある。しかし、入門書や解説書「しか」読まないということはない。心に引っかかりを感じた思想については、可能な範囲でその起源をたどって触れるようにしている。もっとも、言語的な素養が不足しているため真面目に原語で触れるというところまではしていない。僕は研究者ではないからである。「それ」が正確にはどのような意図を持っていたか。それを読み解こうというスタンスは取っていない。僕にとって、哲学も思想も全ては「自分のためでしかない」からだ。著者が正確に何を言わんとしていたかということは僕にとってはどうでもよく、著者が何かを言おうとしていた「現場」の空気に触れ、そこで自分で考えることが、僕にとっての読書の最大かつ唯一の目的である。

僕が哲学や思想の類を読むとき、僕はそこに答えは求めていない。そこで「僕自身が答えを見つける」ことを求めている。

なんとなく哲学というものに興味があり、なんとなく読んでみている。そういう人々は、なんとなく永遠に哲学入門書を読み続ける。もちろん、哲学入門書は様々な形で読者を手助けしてくれる。自分の興味のある分野を扱ったのはどのような哲学者であるかを整理するのにも役立つだろうし、興味のない分野の体系をふんわりとイメージするのにも役立つ。そこには、人間が作り上げた哲学の世界がどのように広がっているかが示されている。まあ、使い古された雑な言い方をするなら入門書は地図である。

世の中には、確かに地図だけを見て満足する類の人もいるだろう。ガイドブックを読んでいる限りにおいては旅をするリスクがない。安楽である。しかし、実際に現地に出かけて旅をするとなれば、そこにはリスクが待ち受ける。たとえば、せっかく興味を抱いて手に取った難解な哲学書をいくら読んでも中身が全然頭に入ってこず時間を無駄にする。たとえば、一生懸命読んで理解したつもりになっていたのに他の人と話したときに自分が丸っきり見当違いな理解をしていたことに気づいて恥をかく。そうしたリスクを避けるためガイドブックに目を通し、恥をかかないための通説を先に頭に入れ、そしていつかは現地に赴こうと思い続けながら、結局死ぬまで現地に足を運ぶことはない。そうした人々は数多い。

永遠に哲学入門書を読んでいる君は、恥をかくことを恐れている。それは恥ずべきことではない。問題は、入門書だけを読み続けて君はどこにたどり着けるのかということである。もちろん、どこにもたどり着けない。あるいは、そもそも「人が生きるとはどこかにたどり着くことなのか」と問われると、確かにそういうことではないと僕も答えざるを得ない。この問答は、おそらく永遠に終わらない。これは、引きこもりとの対話に似ている。僕自身がかつて引きこもりであったため、自身の体験を元に想像を挟んではいるが、要するに、やったことないけどやった気になる、やったことないけどやった人と同じ目線でいたい、そういう願望が根っこにある。

僕のこれまでの人生経験からか、上で述べたような意識は今もかなり根強く残っており、つまり、入門書を読むこと自体は間違いでなくとも、リスクを冒して実際に現地に赴かなければ(難解な原典に触れなければ)自分で何かを感じ取って答えを見つけ出すといった「意味」を見出すことは不可能という考えが強くある。あった。時間的にかなり効率が悪くとも自分で脳みそを傷めつけて孤独に思考を掘り下げ続けるという行ないを経ない限り、「答え」が降りてくることなどない。そういう考えである。

しかし、比較的最近になって、はたして自力で「答え」にたどり着く必要があるのか、本当にその行ないこそに意味があるのか、に多少なり疑問を感じ始めてきている。もちろん、僕が感じている様々な問題を深く掘り下げて言語的コミュニケーションをはかろうと思うと、そうした哲学的「痛めつけ」を経てくれていないと困難であろうとは思う。ただ、そうしたスタンス自体が、もはや時代にそぐわないという可能性も大いにある。別に哲学なんてものは時代に左右されないだろう。そういう意見もあるだろうし、それは当たり前すぎることではあるが、生きるということのその本質は変わっていないとしても、見せかけ上の意味は確実に時代と共に変容している。それもまた事実である。

僕がいま一番感じる哲学的思考の転回の可能性は、統計や機械学習の類である。そうした類の行ないは、一切「答え」を与えてくれない。だから、僕のような「古い」人間は統計や機械学習に強い信頼を置かない。けれども、それらは答えを与えてくれない代わりに「最適化」を与えてくれる。理由はよくわからなくても方針を与えてくれる。理由がよくわからないまま結果が降って与えられるという意味では、実は統計というのは一回限りの身体性とつながっているのではないか。そういう認識が最近僕の中で芽生え始めている。一回限りの自分だけの「体験」とあらゆる一回性を排した演算上の「最適化」という、一見全く真逆で相容れないものが、もしかすると座標の無限遠、根っこではつながっているのかもしれない。そう考え始めると、哲学をするという一回限りの「体験」を演算可能な「最適化」で置き換えることは、むしろ間違いどころか全く正しいことなのかもしれない。正直なところ、この辺の考えについては自分でもまだ消化しきれてはいない。僕自身は、答えを求めるのに今後も哲学的自虐に頼るのだろうとは思うが、それをいまの時代にそのまま当てはめて押し付ける考えは、もしかしたら違うのかもしれない。

そこまでぐるっと何周か回って考えてみると、難解な原典は理解できずとも哲学入門書だけを読んで哲学をわかった気になること、それがどこにもたどり着かない行ないだと本当に断じることができるのかもわからなくなってくる。もしかすると入門的思考だけを専門とした最適化という哲学もあり得るのかもしれない。正確には、たぶんそれはもうこれまでの意味での哲学ではないと思うが、それ自体を駄目だと思う必要はないのかもしれない。

ただ、最適化とは最適でない世界の理由なき消去であるという事実だけは意識しても良いのかもしれない。入門書ばかりを読んでいる見栄っ張りな君は、世界にただ一人自分だけになったときに拠って立つべき足場を消去して暮らしている。それは間違いない。もっとも、現代とは「世界にただ一人自分だけになることが決してない世界」のことである。そんな世界で、世界には自分ただ一人しかいないと自覚することを求める僕は異端であるのかもしれない。それでも、僕はこれまでの自身の体験もあり、世界には自分一人しかいないという「哲学的」意識を消すことはできそうにない。

永遠に哲学入門書だけを読んでいる君と体験だけを信じて生きてきた僕が意思の疎通をはかることは難しい。単にそれだけのことなのかもしれない。歩み寄るべきは僕なのかもしれない。


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