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徐々に進めるジョジョ論 #総論(1)(一部二部)【哲学的研究】「生き方ではなくその生き様」


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まえがき

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第1部 第1巻

活動開始当初からずっと、ことあるごとにジョジョの引用をし、ジェイラボというコミュニティを続けてきた。ジェイラボののほとんどはジョジョのでできている。

僕がジョジョを好きなのは、他のマンガやアニメが好きなのとは意味合いがまるで違う。たとえば、僕は宇宙世紀原理主義のガノタ(と言ってもそれ以外のガンダムもほぼ観ている)だが、別に古臭いガンダムをいまさら他人に古典だと言い張って強要することはない。ガンダムは僕の中ではあくまでも娯楽、趣味、ファッションの一部だからだ。しかし、ジョジョは違う。ジョジョは単に「面白い」という類のものではない。連載当時においては面白いものであったのだとは思うが、そのあとに残された軌跡にいま改めて触れた時、そこでは面白いという即時的な感情の発露よりは、いったん受け入れた後遅れてやってくる「気付き」の方が重要になってくる。

それは、よくある考察班的な人々が、作品の背景や伏線についてあれやこれや議論するのとは全く異なる。ジョジョにおいて、伏線や伏線の裏切りによる物語的驚きなどは、どうでもよい。僕にとってのジョジョとはそういうものではない。少なくとも、僕は物語が面白くてジョジョを読んだり観たりしているわけではないし、キャラクターや設定などを同人的精神で愛でているわけでもない。ジョジョは既に僕の中で生きている。彼らを自分の人生に住まわせているか。そこが、ジョジョを「ちゃんと」読めているかの線引きになる。ここで言う「ちゃんと」とは、自分の思想に影響するまでジョジョという「価値観」を落とし込めていることを意味する。

ジョジョの週刊少年ジャンプでの連載開始は1986年12月ということである。いまとなっては、そろそろ連載40年という(とっくに週刊ではなくなりいまどこで連載されているかも知らないがそれでも)とんでもない長寿マンガになってしまった。しかし、そもそもジョジョの前にジョジョは存在したのか。そして、ジョジョの後にジョジョは続いたのか。僕の知る範囲においては、否である。それは別にジョジョがとても高尚なテーマを描いているとかいうことではなく、あり得ないほど巧みなプロットを生み出しているわけでもない。しかし、ジョジョの唯一性というのは、噛めば噛むほどどうしようもなく味が染み出てくる。そういう意味で、ジョジョはアニメではなくマンガで読むことをすすめる。アニメで観てしまうと、物語としての時間消費で終わってしまう可能性が非常に高い。したがって、このジョジョ論の基礎はアニメではなくマンガに置く。

いずれにせよ、ジョジョという作品は有名であるが故に、かえって新規参入者を拒みがちである。有名なネタがありすぎて、結局断片的引用により単なる消費物とみなされる機会が多い。これについては、僕が「ジョジョ良いよ」といくらつぶやいたところでどうしようもない。ジョジョをしゃぶり尽くした先にある光景を知る者としては、本当にもったいなく感じるが、せめて、ジョジョという価値観の本質をこれから何回かに分けて綴り、いつかの誰かに届くよう、残しておくことにする。

人間は呼吸をする

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第2部 第2巻

ジョジョの唯一性 - 他作品との違い

それにしても、ジョジョの一体どこに、そんなにも他の作品と異なる唯一性が宿っていると僕は主張しているのだろうか。

人生のレベルで影響を受ける作品となると、まず「人生とは何か」というテーマを直接的に語りかけてくるパターンがある。こういうのは大体面白くない。そもそもそんなにも直接言語的に何かを語りたいなら、ビジュアルに頼らず文章という媒体に頼るべきである。なので、僕はこうした説教ライクな作品に自発的に進んで触れることは、まずない。もしかしたらそんな中にも面白い作品もあるのかもしれないが、別にマンガで言語情報にアクセスしようとは思わないし、それはきっとマンガにしない方がもっと面白い。

マンガとテキストの関係については以前書いたことがあるので参考まで。

そうなると、今度は言葉による語りではなく、間接的に人生について考えるきっかけを与えてくる作品について考えることになるが、そこにおいてもまだいくつか手段は枝分かれする。その中の多くは、生き方を問う、あるいは生き方を見せるという形で、テーマの深淵にアクセスしてくる。

生き方とは何か。

生き方とは実現せぬ理想のことである。こんな風に生きたい、そういう想いが生き方に現れる。理想とは何か。現実の向こう側にあるという意味で、それは幻想である。そもそもマンガというフィクション世界の内部であるがゆえ、幻想であろうがなかろうがどうでも良い、いやむしろ幻想の方がフィクションとして価値が高いんじゃないかと感じる人も多そうだが、幻想的フィクションと現実的フィクションはかなり意味合いが異なってくる。確認しておくが、ここでいう幻想と現実という話は、具体的な設定の話ではない。つまり、設定が緻密であるから現実味があるとかいう見た目の話ではない。設定が破綻していようが何だろうがそんなことはどうでもいい。事実、ジョジョにおいては破綻した無茶な設定はよく見られる。僕がそこに現実(生身)を感じるポイントは、人物が息をしているかしていないか、それだけである。生き方とはあくまで理想像のことでありそこに息づいた人間はいない。生き様とはまさに息をしているその様のことである。

世代に関係なく誰でも知っていそうな作品として『ドラゴンボール』を例に挙げると、確かに序盤の登場人物はその世界に息づいていたように感じる。等身大で登場人物が行動できていたように思う。しかし、ダラダラと続け(させられ)た後期においては、登場人物は物語のための道具に成り下がってしまったように感じる。それが良い悪いという話ではない。僕は『ドラゴンボール』という作品が大好きである。ただ、人物先行から物語先行に変遷した瞬間、そこに生きていたはずの人物が息をしなくなったというだけである。物語自体は最後まで面白い。登場人物が終始息をしていない典型作品は、『進撃の巨人』である。この作品は一般評価が高いが、伏線の長期的回収という仕掛けだけが全ての作品であり、個人の自然な行動原理すら時に物語の都合によって曲げられていたりする。突然思い立ったように行動原理が発露したりするシーンもあるが、

諫山創『進撃の巨人』第10巻

それはあくまで単発で特に一貫性はなく、後半になればなるほど行動原理は物語の犠牲になってゆく。正確には各人物の行動原理の説明描写が不足しすぎている。それゆえ、物語として全体を見た時に仕掛けとしての驚きという面白さはあるが、そこにナマの人間の呼吸音を聞くことはできない。

いわゆる少年漫画の多くは、こうした人格不在の傀儡の人形劇として描かれていることが多く、それは少年向けという縛りの中で逆に呼吸の「息苦しさ」という側面を取り除くための必然ではあるのだろう。それがよくわかるのは、場所を変えて青年漫画を覗きに行くと、そこでは登場人物はわりとしっかり息をしていることが多いからである。これはマーケティングの影響だろう。少年には夢を見せておくのが良い。

では、ジョジョはどうなのか。ジョジョはまぎれもなく少年誌で連載を開始した少年漫画であるが、これ以上ないくらい人物が息づいている。つまり、物語の骨格はあるにせよ、そこに存在する人物は物語のための小道具ではなく、物語から独立して実在しているのではないかと思わされるくらい、独自の行動原理を発揮して活き活きと動いている。別に他のマンガでもそういうものはあるだろうと思うかもしれないが、少なくとも有名どころの作品においては僕は読んだ(観た)ことがない。ずっと食わず嫌いしていた『ワンピース』を近年100巻以上一気読みしたのだが、これも少年漫画として王道の典型的な人形劇だった。強いて言うなら、人形ではあるにせよ、物語進行上の制限を少し緩め回り道を許容することで人形の行動自由度を高めているような印象は受けた。つまり、物語の天下り的進行のため明確な犠牲にされた(行動原理を裏で殺された)人物は、他のプロット依存作品よりかなり少な目には感じた。

もう少し具体的に語ろう。ジョジョも、当たり前だが作者がある程度の物語の骨格を作り、その構造の中で人物が動かされている。それは他の作品と特に変わるものではない。しかし、決定的に違うのは、人物の行動原理が暗示ではなくかなり明確に示されることである。普通の作品では、登場人物の行動原理を毎度毎度大っぴらに開示することはしない。これをやりすぎると、言い訳が効かず物語の進行とつじつまを合わせるのが面倒な場面も出てくるはずだからだ。しかし、ジョジョにおいては、ほぼ全ての主要登場人物の行動原理が明示される。筋書きの決まった人形劇で人形に自由意志を持たせてしまうと収拾がつかなくなるはずだが、読者の心配をよそに、ジョジョは毎度一定の落としどころで物語が収束する。

なぜそれができているかというと、登場人物の行動原理自体が既に物語に組み込まれているからである。もっと端的に言うと、ジョジョとは人間の行動原理の物語なのだ。他の多くの作品において、登場人物の行動原理というのはあくまで物語を彩るための設定である。ジョジョにおいてはそれは設定ではなく、それ自体が物語になっている。それがどういう違いを生むか。

設定というのは情報である。「ラノベは設定資料集」というのが僕の持論であるが、今日では多くのマンガは、ラノベ原作を持つという事情もあり、設定資料集のビジュアライズという側面がかなり強く存在する。情報というのは構造が複雑なほど面白いし、分量も多いほど面白い。物語より設定資料集が本体といった趣の「凝った」作品においては、登場人物も皆、設定資料である。それゆえ、作品そのものを離れて資料(的情報)そのものを愛でる人たちも、実際多く出てくる。

もちろん、ジョジョ界隈にもそうした人々はいるのだろうが、正直荒木先生の描く女の子に萌える要素があるわけでもないし、本編から読み取れない裏設定が気になって仕方がないという物語の味付けもなされていないため、ジョジョを設定資料の側面から楽しむ人は他の有名作品よりは少ないように感じる。少なくとも僕はジョジョの設定資料に何の興味もない。設定資料が存在するのかどうかすら知らない。アートブック的なものは単なる個人的好奇心で何冊か購入はしている。強いて似たようなジョジョの楽しみ方を挙げるなら、セリフなどがそのまま切り取られてネットミーム的なネタになっているという要素はかなりある。しかし、それは要するに設定資料に面白さが発生しないためそのまま切り取るしかないということでもある。

つまり、繰り返しになるが、ジョジョの面白さは設定の緻密さや物語の背景にあるわけではないということだ。そこで動いている人物、それ自体に面白さが宿っている。だから、人物を設定として本編の物語から切り離せないのだ。そういう意味では、極めて分かりやすい作品とも言える。ジョジョの面白さは見たそのまんまでしかないからだ。それゆえ、青年漫画にありがちな登場人物の呼吸音が生み出す息苦しさも緩和されている。呼吸という小道具がテーマを深めているわけではなく、呼吸そのものがテーマだからである。軽く呼吸して見せれば軽くなるし、重く呼吸して見せれば重くなる。本当に見たまんまでしかないため、息苦しいという雰囲気は基本的に存在せず、少年漫画の明るさはしっかり保っている。

ジョジョのテーマとして「人間賛歌」というワードがよく挙げられる。これは善も悪もひっくるめて「人間って何だろう、尊いね」という話なのだが、時にはむしろ善よりも悪の側にこそ可能性が与えられていることもあったりして、善悪の判断を留保してあるところに、荒木先生の人間に対する(非常識な)愛が感じられる。

ジョジョにおいては、登場人物がその世界に強く息づいており、ちゃんと読めばその呼吸音がちゃんと聞こえることをお伝えしてきたわけだが、これはもちろん、一部二部に登場する波紋を生み出す呼吸法がそのメタファーになっている。作者である荒木先生自身がどこまでそんな意識を持っていたのかは定かではないが、無意識的であれ意識的であれ、間違いなくそこはつながっている。生きた人間は呼吸をするのだ。

人間は呼吸をするという事実。それはなんて当たり前、と思うほど当たり前のことである。しかし、よく胸に手を当てて考えてみて欲しい。正直に答えて欲しい。はたして、皆さんはマンガの登場人物の呼吸になどいちいち注目したことがあっただろうか。演出として時に作中で呼吸音自体がクローズアップされることはあるだろう。確かにその瞬間、読者は呼吸音に耳を澄ませている。しかし、その呼吸はあくまでひとときの舞台装置であり道具である。そうではなく呼吸そのものが全体のテーマに組み込まれているということ、すなわちこの波紋法という装置の発明こそが、これから続くことになるジョジョの唯一性の始まりなのである。

僕自身、当たり前というつまらないことを掘り下げて表現することを使命のように感じている自覚があるが、ジョジョも同様、当たり前でありふれたことこそがその根っこであり、その全てなのである。当たり前はつまらない。そのつまらなさを突き詰めて荒木先生のユーモアを交えて表現された、究極のつまらなさ。それが一部二部におけるジョジョの本質である。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第2部 第3巻

その生き様 - そのサンプル

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第2部 第5巻

はっきり言うと、この作品のテーマはありふれたテーマ──「生きること」です。
対照的なふたりの主人公を通して、ふたつの生き方を見つめたいと思います。
「人間」と「人間以外のもの」との闘いを通して、人間賛歌をうたっていきたいと思います。
この作品がみなさんに喜びを与え、気に入ってもらえますように。
 ──それでは、どうぞ。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第1部 第1巻 巻頭コメント

上で引用(手元に資料がなく孫引きしたので原文未確認だが僕の記憶と照らし合わせてもたぶんあっている)したように荒木先生は、ジョジョ連載当初に、主人公の「生き方」を見つめたいと述べている。結果として描いたものは、主人公の生き方ではなくその生き様であった。これは単に言葉に対する無自覚さがもたらした結果であり、生き方を見つめようとした結果、間違いなく「生き様」を描いている。それは、当初の二人の主人公以外にも派生している。その生き様が感じられるいくつかのシーンを僕も含めジェイラボ研究員にも挙げてもらった。サンプルとしてそれらを引用しておく。

  • にしむらもとい……カーズの卑劣に生きる覚悟

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第2部 第7巻

目的のためには手段を選ばない。結果が全てであり過程などどうでも良い。ここでは悪役を際立たせるために用いられているが、実際の世の中を見て、この思想は肯定的に捉えられているシチュエーションも多い。経済成長とは「勝てばよかろう」である。人間を描くジョジョの中でカーズは、唯一と言って良いだろうか、元々人間ですらない超越者である。人間的「こびりつき」を排して生命というものを煮詰めた先にどんな生き方があるのだろうか。柱の一族という、実質不老不死の生物はカーズ以前には緩やかに死んでいた。しかし、カーズという天才が生まれ、彼は命の輝きを求めた。その理想を現実とするため、カーズはこの生き様を選択することになったのである。どう考えてもこのシーンは約束を破り卑劣な行動に出たカーズに対して読者が怒る場面なのだろうが、僕はこのカーズの行動にすら彼の覚悟と生き様を感じてしまう。どうやら僕は立派に荒木先生に調教されてしまったようだ。

  • 西住研究員……ツェペリ男爵の最期

自分の人生を、運命を受容できるか。満足とは満足することではなく満足したことである by にしむらもとい

  • シト研究員……ジョナサンの精神

生き様を感じるセリフを、というリクエストに対して「君がッ! 泣くまでッ! 殴るのを止めないッ!」というまさかすぎる回答。有名過ぎるこのセリフはもはやネタとしての印象が強すぎて、僕自身冷静に考えてみたことがなかった。しかし、言われてみれば確かに「泣くまで」という制限がジョジョの内なる精神を示しているように感じる。目から鱗。

脳と身体 能力主義と運命

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第1部 第2巻

克服と受容

結局、生き方と生き様の何が違うのか。生き方とは理想のことであり、生き様とは現実のことであると既に述べてはいる。しかし、まだピンと来ていない人もいるかもしれない。

要するに、生き方とはモデル化のことだ。現実にぶら下がる数多の都合の悪い要因を切り捨てて単純化した生き方のモデル。それに対し、生き様とは現実に立ちはだかる都合の悪さと折り合いをつけながら生きた、その運動の軌跡である。

モデル化というのは、言わずもがな脳の機能であり、現実の身体を超えたところに抽象されて存在するべき、ある種の画像的概念である。生き方というのはモデルという止まった時間の中に固定されているが、一方で生き様というのは人が生きる、ないし生きたその運動、その軌跡であるため、固定されたものではない。

我々人間は、常に予測可能な世界を追い求めて生きている。それを言い換えるなら、三部以降でディオがやたら饒舌に語るように「恐怖を克服する」ということである。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第3部 第27巻

そして、恐怖の克服については既に一部でもツェペリ男爵が述べている。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第1部 第3巻

この二つの発言は似ているようで全く違う。違いがわかるだろうか。

ディオは恐怖を消し去るという「結果」を主張しており、ツェペリ男爵は恐怖を受け入れるという「過程」を主張している。これは、僕がいつも言っている「手段と目的」の話とも完全に合致する。つまり、目的のためには手段を選ばないという発想は極めて非身体的(脳が生み出すご都合主義)であり、手段の積み重ねで目的に到達しようという発想は極めて身体的(自身で選択不能な運命すら受け入れる思想)だということである。

ディオは作中では明確に悪役として位置づけられている人物だが、実際の社会は、善であるツェペリ男爵側よりむしろ悪であるディオ側の思想が基盤になっていることに気付けるだろうか。既にカーズの生き様のところでも同じことを述べたはずである。原始の時代からいまこうして社会が秩序づけられるに至ったのは、生物としてのヒトがその機能を脳が予測できるレベルで全うできるようにするためである。わかりやすく言うなら、不測の事態で生命が奪われる可能性を極力排除することが目的である。あるいは、技術革新が生み出す利便性は、情報まで含めたあらゆる「流通」を線形(リニア)なラインに乗せることを目指している。と同時に、それらは人間のエゴ(我欲を満たしたい)と激しくバッティングするため、そこかしこで軋みを発生してもいる。現実を全て脳による予測可能ラインで塗りつぶすことは、いまだ実現できていない。

善と悪と脳と身体と

現代は能力主義社会である。問題点を多くはらんでいるが、これは事実である。

能力主義というのは極めて「脳」的な物に思えるが、実際にはこれはむしろ遺伝的要素や教育環境などに依存したかなり「身体」的な物である。身体をベースにした上で、ある種の恵まれた層が自身の「生まれ」を利確するために方便としているのが能力主義である。つまり、これは脳による塗りつぶしの「イキスギ」ラインである。たとえば、ジョジョが波紋(の才能)でがっぽりお金儲けをしたとする。それが能力主義社会を生む。もっと遡るなら、そもそもジョジョは貴族であった。生まれ自体がある種の(社会的遂行)能力を保持している。ディオはどうだったか。いくら才能があろうが抗えない貧困の中に生れ落ち、その呪縛から逃れるため貴族たるジョースター家を利用したわけである。これは一見能力主義的に見えるが、能力があろうが階級という社会的圧力がそもそも本来なら彼の未来を圧殺していたわけで、むしろディオこそが能力主義に対するアンチである。

ディオは能力主義すなわち(能力という)階級主義社会を飛び越えるために人間をやめる。この発想こそが極めて「脳」的と言える。生まれという運命から恩恵を受けられない層の人間は、石仮面をかぶり運命の超越を目指すしかないということである。そして、実際にはもちろん石仮面なんて都合の良い道具は存在しないため、運命の超越は極めて難しい。

ちなみにスピードワゴンという、ディオ同様貧困の中で生きていた若者は、ディオとは異なる人生を選択し、結果石油を掘り当てて財団を作り上げるまでの成功をしている。これはつまり、スピードワゴンはジョースター家との深いかかわりを、すなわち「生まれ」をロンダリングして能力主義を受け入れたということである。生涯をスラム街で過ごして石油を掘り当てることなど決してできなかったはずである。ディオにもこうした未来の可能性はあったはずだ。しかし、ディオは能力主義(階級主義)を決して受け入れることはなかった。その強すぎるエゴに、痺れ憧れる要素があるのだろう。

いずれにせよ、悪は、善の側面では拾い切れない隙間から生まれたものとして描かれる。物語をわかりやすくするためディオは環境が生んだわけではなくそもそも「生まれつきの悪」という札をつけられはするのだが、生まれつきの悪というのも結局は「生まれ」が生んだ運命であり、本人にとっては逃れ得ないものである。

長く続くジョジョという作品において、こうした善と悪、脳と身体の対比というのが全ての基本になっている。

悪を生み出す視点

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第1部 第2巻

もう少し丁寧に議論したい。悪とは何だろうか。

勧善懲悪という言葉があるくらいで、普通、物語においては善が勧められ、悪は懲らしめられる。しかし、ジョジョという作品においては、悪の定義、その境界線が当たり前のものではないことに意図的に目が向けられるよう設定されている。別に悪を肯定しているわけではなく、そういう意味で変に奇をてらった作品というわけでもない。一応、悪は悪として描かれてはいるのだが、読者に悪とは何かを自分で考えるよう要求してくる。

ディオにつけられる「生まれつきの悪」という札。生まれつきの悪人はもうどうしようもなく悪で、善はその悪を討伐して良いのだろうか。

娯楽作品として雑に消費してしまうと気づきにくいことではあるが、この視点もジョジョという作品において、かなり重要な要素である。マンガ、特に少年漫画においては、教育的配慮からだろう、このように善悪の区別に距離が置かれることはほとんどない。善を前面に置き悪を対置するというのが基本である。さすがにいまとなっては読者の飽きに対して変化をつけようと、悪の側に一定の理由付けを持ち込むことで善と悪の境界をモザイク化しようという試みもまま見られる。しかし、それもあくまで善は善、悪は悪として描くという範疇の中で、ある種悪への同情の余地のような感情を持ち込むということでしかない。ジョジョは違う。そもそも、善と悪、一部で言うならジョジョとディオが善と悪であることの線引き自体は極めて明確で、同情の余地もなくディオは誰がどう見ても悪である。にもかかわらず、善が善で悪が悪という価値観の決定を作者がそこに刷り込んでいない。明確に善と悪がそこにあり、にもかかわらず、それらが平等に並べられているのである。

これは、少年漫画としては相当奇妙な構造に感じられる。たとえば、悪を主人公にすることで普通とは逆の視点を提供して読者を混乱させるような奇をてらった作品も、青年漫画にまで範囲を広げれば、世の中には存在する。『悪の教典』のような漫画化、映画化もされている小説なんかがその例である。ただし、この場合、読者は悪の側に肩入れして感情移入したりはしない。これはあくまで「悪の側の視点を提供する」という作風なのであって、一般的な善悪観念の持ち主が悪の側の視点を見せられたところで、悪と同化できるはずはない。しかし、ジョジョにおいては善と悪を生み出すのは読者の視点であるという立場で、読者側に選択の自由を与えてくる。作者が明確に悪と断言して描いている人物に対してなお、その自由が与えられている。繰り返すが、これは相当奇妙な構造である。

作者である荒木先生がどのような経緯でこうしたジョジョの構造を作り上げたのかわからないが、少なくとも普通の人間の感覚で作り上げられるものではない。荒木先生自身は「ジョジョは人間賛歌」と謳っているが、人間という存在をかなり相対化して距離を置かないと、つまり人間離れしないと取れない立場にも思える。しかし、これもまた奇妙なことに、人間離れした視点を取りながらなお、善を描く解像度もまたクリアであり、本当に善悪が贔屓なく等しく並べられているのだ。先ほどから同じことを何度も繰り返し述べているが、人間の素晴らしさを謳うことと善悪を並列化することが同値であるという「発明」は、深く考えれば考えるほど頭をおかしくさせる。

人間の素晴らしさを謳うというのは、本当に素朴な表現テーマである。

善悪を並列化するというのは、脳が自然に作り上げてきた善悪という虚構をリセットするという、かなり受容に労力を強いるテーマである。

しかし、この二つが数直線の向こう側でつながっている。僕が何を言っているのか理解してもらえているだろうか。ジョナサンとエリナ、二人の愛。ジョナサンとディオ、二人の友情のような憎しみのような何か。これらは同値なのである。

そこまで言うならそうなのかもしれないということを、ジョジョというフィクション世界の中でなら受け入れられる人もいるかもしれないが、はたして現実世界で同様のものを並べて、それらが同値だと受け入れられる人は、まずいないだろう。

そういう意味で、やはり悪というのは、自然には受け入れがたいものとして我々が無意識的、本能的に定義づけているものである。

世の中から悪がなくならないのは、悪のはびこる強さが問題なのではない。我々が悪(という視点)を常に自ら量産し続けるからである。悪は他人ではない。悪は我々の中にある。

それでも王道であり続ける

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第2部 第3巻

これまで述べてきたように、ジョジョというマンガは、かなり奇妙な視点を取り入れたかなり奇妙なマンガである。しかし、それは傍流ではない。堂々と王道(主流)に位置付けて良いものだ。これもまたジョジョにとって重要な要素である。これについては、実際に作者である荒木先生がインタビューだったか自身の著書だったかで話していたような記憶がある。

結局のところ、奇妙なマンガを描いて、変わり種としてはまあ面白いよねで傍らに置かれて忘れ去られるのでは意味がない。奇妙な視点をいくら持ち込もうが、それをちゃんとど真ん中に位置付ける説得力を持たせるということが、表現者としての荒木先生にとっては諦めてはならないことなのだろう。

実際、荒木先生は流行りにも敏感で、それはネタとしてもそうだし、画風なども時代時代で流行りを取り入れながら工夫を重ねてきたようである。僕はそこまでマンガの画風に詳しいわけではないのでこの辺の話は受け売りなのだが、実際そうなんだろうなと納得はできる。

ジョジョという作品は、浅く消費すればネタの宝庫という位置付けでとんでもなく浅く消費することができる。その一方で、底が抜けるくらい深く掘り尽くしても決して底が抜けることはなく、その労力に十分応えてくれる。

あとがき

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第2部 第7巻

以上が、一部二部を踏まえた、いわばジョジョの始まりの物語である。僕は一応八部まで目を通しているが、ジョジョとしては実質六部で終了というスタンスなので、六部までについて、これから記事にしてゆく予定である。七部以降についても個人的には気に入っているが、また別な要素をレビューとして取り入れる必要が出てくるので、このシリーズでは系譜に入れないこととする。また、一部二部までの構造と三部以降との構造の違いなどについては、次回以降に論じることにする。

それでは、また。

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