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ワークショップ「所長所感」 - 第12回[20200622-0628]『知的複眼思考法』

今回の読書テーマは、少しとらえどころがなかったと言いますか、設定が難しかったかもしれないですね。課題図書の方法論そのものについての議論にした方が良かったかもしれません。いずれにせよ、主催者参加者共に、ありがとうございました。

さて、テーマに少しだけ触れておきましょう。

他人の意見を生産的に捉え直す。それを「批判的」思考ということで、本書の中では様々な「手続き」がたくさん挙げられています。正直な話、僕も若い頃この手の文章を読み漁った時期は、あったと思います。ただ、これもまた正直な話、「僕の場合」においては、それらはほとんど身につきませんでした。

身につかなかった最大の理由は、ひとえに僕がものぐさだからだと思います。いちいちルールを作って覚えて使うなんて、やってられませんでした。

いま現在、僕自身が「批判的」であるために心掛けていること。

哲学的ゼロ地点から思考を始める。
判断とはすなわち偏見に過ぎないことを知る。
意見とはすなわち情報に過ぎないことを知る。
意思疎通には各自のリテラシーに応じた限界があることを知る。

別に特に暗唱して覚えているようなことではありません。いま、ふと考えて思いついたことを書き出してみました。いつも頭にあるのは一つ目の文章だけです。繰り返しますが、これは手順として暗記しているのではなく、思考の純度を極限まで高めた結果、「これしか残らない」というようなものが濾過されて残っているだけです。

もっとはっきり言ってしまえば、僕自身は「複眼思考」なんてものは、全くしておりません。むしろ思考なんてものは、どこまで言っても所詮「単眼」でしかないことに自覚的であることこそが、僕の思考の原点であるかもしれません。

「手順」というのは、あるルール内においては極めて有効です。僕自身、大学入試数学の指導をしていますが、「手順化」によるメリットを生徒に伝えることは、確かにひとつの仕事になっています。それは、入試数学というルール内では極めて有効です。しかし、逆に言えば、ただそれだけでもあります。そもそも入試数学なんてものは哲学的ゼロ地点からは遠く離れた「離れ小島」です。たとえば、カードゲームのルールなんてものも、人工的にそう決められただけのものであって、それが唯一の真理であるはずがありません。しかし、カードゲームのルールを決める人間の心理に既に真理が含まれているなんていう意見が仮にあったとすると、それを明確に退けることもできません。要するに、「何もわからない」わけです。つまり、「ルール」というものには明確な基礎構造がないということです。ルールは自己目的的にしか正当化されません。ルールを覚えて手順化すれば、ルールの範囲内効率は上がるでしょう。でもそれだけです。

本書の内容は、その類のものであって、確かに暫定的にそのルールで生きていくと決めてしまえば、役に立つものではあろうと思います。僕がいつも話しているような「抽象的な枠組み」ばかりを持っていても、それが「実際の思考に全然つながらない」という人は多いでしょう。ですから、そういう意味においては、具体的手順でわかりやすく線引きをしてあげることは、著者の「親切心」なのでしょう。

しかし、僕はどんな時にも「哲学的海抜ゼロ地点から出発する」という唯一の指針から離れることはできませんので、本書の意見すら、大いに「あやしく」感じます。少なくとも絶対的「正しさ」は感じません。

それでも、大多数の読者には一定の刺激にはなると思います。僕自身の職業柄でしょうか、大学入試現代文の指導との類似も感じました。よくよく考えれば誰でもわかることを、いちいち全て手順にしてしまう。そして、ひとたび手順化してしまうと、今度は本質よりも手順が先立って一人歩きをする。

勉強法、思考法、そういった「方法論」に関する指南は、本当に様々あります。しかし、「方法=手順」とは、単なるカードゲームのルールに過ぎないということは、理解しておいた方が良いかもしれません。

少なくとも、僕はそんな面倒な思考手順はいちいち覚えていません(職業要請上身に着けた数学の解き方の手順以外は)

究極的には、疑い得ない思考のゼロ地点を自分の中に持ち、そこから出発すること、僕は、シンプルに「それ」しかやっていません。だからこそ、僕は常々「断言する」という「単眼的」姿勢を大切にしています。「断言する」とは自身の中に相当な覚悟がなければできないことです。その覚悟を持てるだけのゼロ地点を自身の中に持つこと。そこには、たぶん「方法論の収集」では到達できないと思います。方法論コレクターとなり、思考が複眼的になればなるほど、高い論理演繹力なしには思考の手前で手順の複雑さで溺れてしまうリスクが高まると思います。そして、思考が複眼的になればなるほど、多くの知識人の意見に自身の思考が置換されてしまい、己自身の立ち位置がぼやけるリスクも高まると思います。

思考力を身に着けるために最も必要だと僕が感じること。

それは、小難しい頭の使い方を覚えることではありません。

それは、己の思考に責任を持つ「覚悟」です。

知性とは論理演繹力の高さなどを指すのではありません。

知性とは覚悟です。

少なくとも、僕はそう感じますし、その意見にも覚悟を持っています。

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