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ジェイラボのコミュニティメンバーであること 2022


  • この記事は『ジェイラボ』のメインコミュニティメンバー(研究員)のために書いたものですが、外部の方(潜在的メンバー)にも読んでいただけるよう敢えて公開してあります。


僕が一応の主催者として運営しているジェイラボという(オンライン)コミュニティがある。

ジェイラボの大元の理念は、以前YouTubeで活動していた時代はYouTubeの動画、いまはこの僕のnoteアカウント内のあらゆる記事のそこかしこに散りばめてある。ただ、実際のところ僕がジェイラボのメンバーにどこまでの理念の実践を期待しているのかについて、それなりに線引きをしておく必要性を感じ始めたので、記事としてここに残しておく。本当は

この辺の記事を参考にしながら自分で判断して欲しいところではあるのだが、Feel differentは読んでもらえていない人が多そうだし、まぁ一度くらい公式な指針を出しておいても良いかと考えを改め、今後活動を共にする可能性のある全ての人に向けて、伝えた方が良さそうなことの極めてコアな部分だけ具体化して書き残しておく。

ジェイラボの活動の一部始終を追ってもらえている人には伝わっていると思うが、僕の活動についてはあらゆる詳細まで追求してもらっても、その理念はほぼ守備一貫しているはずである。これは、ジェイラボとして活動していなかった頃までさかのぼって含めたとしても、さほど大きなブレはないようにも思う。

世間では言ってることが日々ブレブレな人間が多い中、何故僕はブレないのか

何も自慢話をしているのではない。僕は能力主義にも否定的な立場だし、そもそも自分が賢いとは考えていないので、偉そうにマウントが取りたいわけでも何でもない。単に事実を理解して欲しいだけである。僕がブレない理由の根本を理解しておいてもらわない限り、今後も「ジェイラボのメンバーであるとは何なのか」の認識は深まらないと思う。

僕は、ブレないために、具体的な行動指針を意識してそのチェックリストを厳守することで一貫性を保っているわけではない。

基本的には、ここに全てのタネが隠れている。上辺だけの行動指針など、どれほど徹底したところで、いつか必ずうっかりミスが生じてブレる。だから、僕は「具体を丸呑みにさせる」自己啓発の類には意味を見出していない。こうした、皆が大好きな心理学による「行動指針の具体化」こそが、そもそも行動がブレる諸悪の根源である。処方された薬を飲んだせいで起きる苦痛から逃れるためにまた同じ薬を飲む。その薬を売っているのは誰か。行動がブレるから具体化された指針を摂取するわけだが、それでもまだブレるからもっと指針を摂取する。果てなき具体化、その「いたちごっこ」は、いつしか意識的に実践できる限界を超え、破綻する。残るのは動いたお金の「経済的」事実だけである。

仮に、もし破綻を迎えずめでたく自己啓発に「成功」したとするなら、それはきっと、新しい指針からはみ出さないように自分を恐ろしく狭いルールに閉じ込めているか、自分を成功者に見せる視点を自覚したに過ぎない。僕個人としては成功することにはほとんど何の意味も見出していないが、それでも成功することと「成功者」である(に見える)ことが全然別物であることくらいは伝えておきたい。皆さんは、成功「したい」のか成功者に「なりたい」のか。視点はどこにあるのか。

さて、これくらいでもういいだろう。では、僕はどうしているのか。

説明したところで、その字面だけを追いかけてコピーすれば簡単に実践できるような話ではないが、それを書き出せと言うなら、書き出すこと自体は非常に簡単である。


  • どこに逃げも隠れもしない(覚悟の問題)

  • 知識よりも意志を開示する(知性の問題)

  • 経済効率に人生を委ねない(動機の問題)


この三つの意識が守れるなら、行動がブレることはまずない。

覚悟の問題とは出口の問題であり、知性の問題とは過程の問題であり、動機の問題とは入口の問題である。

空間的に捉えてしまうと順序が逆のように感じるかもしれないが、思考の本質は生物としてのリスク回避であるゆえ、脳内での意識は退路確保の問題から始まるこの順番を自然に感じるはずである。

人間の思考を支配しているのは、いつだって入口ではなく出口だ。出口が見えなければ我々の足は前には出ない。それでも足を踏み出すために、僕は出口を覚悟と直結した。覚悟とは出口が見つからない可能性を受け入れることである。多くの人にとって、出口とは非常口のことであろう。いつだって自分だけは緊急避難できる扉の鍵を持っていたい。それが人情であり、そして、それこそがあらゆる人的分断の根源である。しかし、その非常口を開けた先はどこにつながっているのか。どこにもつながっていないから、人はわかり合えず、分断され、自らもブレてゆくのである。

覚悟の問題に比べれば、知性や動機の問題は些細なものだ。むしろ、覚悟があれば自ずとついてくるものであろう。だから、僕はこれまで「覚悟」だけをやたらと強調してきたのである。今回そこまで指針として挙げたのは、皆さんが安心するための素材になると思ったからである。

そんなわけで、何も隠さず、常に自分の考えの根っこを晒しながら、必要以上のお金にも執着しなければ、行動指針がブレることは、絶対にない。少なくとも僕はブレずに生きている。過去様々な動画や記事でしてきた様々な話の内容をもはや全てを覚えてはいないが、いちいち整合性をとるために過去発言を確認などせずとも、基本的な意識が変わっていなければ、少々言い回しは変わることはあっても言っていることの中身は変わらない。ただ、それを皆さんにお伝えしたとして、一番の問題は、はたしてどこまでそんな意識を守り切れるか、である。

ジェイラボのコミュニティを三年ほど運営してきて、僕と全く同じ感覚でこうした理念を共有できていると感じる人は、ほんのひと握りもいない。多くの方はきっと惰性(優しさ)で僕のわがままに付き合ってくれているに過ぎない。それでも、一緒に過ごす時間を増やす中で僕の言いたいこと、意図はじわじわと伝わりつつあるように感じる。コミュニティの運用を始めた最初の瞬間に感じた「届きそうで全く届かない」メンバーとの絶望的な距離感からすると、いまはお互いのほんの少しの歩み寄りだけで触れ合えるくらいの距離感にはなってきた。

おそらく、生活の「糧」以外の部分は、これから理念の共有に向かう方向性はできつつあるとは感じている。しかし、いかにして糧を得るかについては、現状綺麗事では済ませられない。糧がなければ生きてゆけない。だからメンバーのモヤモヤを一度スッキリさせておこう。

先ほど挙げた三つばかしの意識を守ってもらえるなら、僕としては別に何をやってもらったところで構わない。どうせ、倫理的に悪いことをしているなら覚悟を示すことはできないし、自分の根っこを開示せず上辺の知識ばかり話す人には知性を感じることはできないし、経済効率の追求のみに明け暮れている人の動機には全く面白さを感じないので、どれか一つでも守ることができていなければ、それはすぐにわかる。

では具体的に、たとえば僕の嫌いな「教育系YouTuber」というカテゴリで作成した動画がバズって大きな収益を得るようなことは、理念に反するのでジェイラボメンバーは絶対にやってはいけないのか。

先ほどの三つ(覚悟・知性・動機)の意識と照らし合わせて欲しい。常にダメだと言っているわけではない。逃げも隠れもせず、自分の立ち位置をはっきりと示し、収益の奴隷になっているのでなければ、ただ結果だけを見て間違っているなどと判断することはない。僕が完全に教育系YouTube活動を辞めて撤退したのは、それが絶対にダメなことだからではなく、コミュニティの主催者たる僕にはそうした態度を非対称ながら「エクストリームに示す」必要性があったからだ。立場が違う。

結果だけを見て、ジェイラボのメンバーならこれは絶対にやってはいけないなんてものは、ない。しかし、もし自分の心を裏切り、やましさから逃れられない生き方を選んだなら、皆さんはその瞬間からもうジェイラボには、少なくともその最もコアなレイヤーには、きっと居られなくなるだろう。

ビジネス系のオンラインサロンと違い、ジェイラボは圧倒的に互いが深くつながって活動することを理念にしている。ジェイラボの最終目的地は新しい「家族」であると僕が公言しているのはジョークではない。本気である。

オンライン主導のコミュニティ運営形式として相当異例なことだと思うが、メンバーが自分を隠したまま潜伏し続けることは極めて困難になるようデザインには気をつけ、年々制度もアップデートしている。素養として、結果(功績)を出力する能力などは問わないが、上に挙げた三つの意識がクリアされているかというハードルだけは今後も上げ続けると思う。そもそもこのコミュニティに「潜伏」などしていても、得るものは何一つない。ジェイラボは情報を得るためのサロンではないのだ。

僕がジェイラボのメンバーの皆さんに求めることは、それぞれの判断において、覚悟と知性と動機の三つを担保して活動と向き合っていただくことだけである。世のほとんどの人が身につけられないでいる行動の首尾一貫性なんてものは、それだけで自ずとついてくる。言っていることとやっていることが乖離するのは、言っていることが己の身の丈(身体的実感)に基づいていないだけである。ジェイラボの理念は行動ではなく皆さんの人間そのものにあると思ってもらえれば良いかと思う。

僕は皆さんが行動をしてくれるから大好きなのではなく、ただ皆さんが生身の人間だからこそ大好きなのである。極論するなら、皆さんの行動などどうでも良い。行動を見て人を好きになるというのは、一見もっともらしく響くが、その好きは対象に向かっていない。少しでも論理の挟まった「判断」は全て利己である。この手の説明はたくさんしてきたはずなので今回は省くが、「論理的な善人」などというものが存在し得るか、想像してみて欲しい。わかるはずである。論理は効率を包含する。効率が善を包含するか。善とは偶然の別名である。

そして、人が人を好きになりつながり合うことにも、同様に理由などない。それは異なる説明をするなら、「感情とは脳内の化学物質の反応のことだから」とも言える。化学は論理ではない。心理学は物理ではなく化学なのだ。我々が生きていることに理由などないのも同様であり、理由が存在しないことこそが「真実」の姿であり、その本質は中身が空の輪郭でできている。

真実の輪郭とは、マーケティングによる最適化のことではない。偶然のことである。

理由(最適化)を求める人にはきっとジェイラボの姿は見えない。遠くから見ていてもここには何もない。しかし、近くに来て手で触れたなら、確かにジェイラボはここにある。

皆さんとの偶然の出会いを、神様だか何だかに感謝しながら。

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にしむらもとい / ジェイラボ所長
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