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Feel different! 断章d「Social Media - 資本主義と民主主義の行方」【陰謀論をやめて百年後の哲学の話をしよう】

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"Think difficult!"から接続して、僕自身の考えそのものを、つらつらとまとめてゆく"Feel different!"シリーズ。「100%正しい」哲学を運用して、今回も続けてゆく。

前回でいったん考えを締めくくったのだが、「そこ」に至るまでの道程や詳細の記述をカットしているので、今後は思いつく限り隙間を埋めていきたいと思う。


Hello

いまや壊れかけたこの世界。わかりやすい「作り話」を求めている方が多いのだろうとは思うが、僕は僕にできることしかやらないし、できない。あくまで目先の情報に踊らされないための、極めて地味な哲学をひたすら掘り下げて語り続けてゆきたい。

ポストトゥルースとか、アフターコロナとか、己の脳みそをすり減らすことなく、したり顔でそんな単語を転がすだけで世界を写し取ることはできない。解決策を知識の形で求めても、得られるのはやはり知識だけだ。皆、心の穴を知識で埋めている。

知識とは、ただ並列された情報のことであり、つまり知識は構造を持たない。深く考えるとは、情報そのものではなく情報の構造を調べるということ。知ることと考えることは、文字通り、次元が違う。レトルト食品を買うことと自分で食材から料理することくらいの違いがある。レトルト食品に対して別のレトルト食品を持ってきて並べても、永遠に料理のことはわからない。皆さんがやっている「議論」とは、概ねそれを指している。その意味が通じない人には、僕の話は通じないかもしれない。2回、3回、4回、5回読まないと理解できないかもしれない。理解するまで2時間、3時間、4時間、5時間かかるかもしれない。それでも、論点を何ひとつ共有できないかもしれない。

「価値」とはそういうものだろう。出会って4秒で面白いものは4秒で消えてゆく。

なお、今回は、約3万字と、いつもより更にボリュームが増えてしまった。分けても良かったのだが、同じテーマで書き切ったものなので、塊のまま出すことにする。シンドいと思うが、長いからとテキトーに流し読みせず、時間のある時にじっくり腰を据えて目を通してみて欲しい。

0 出口なき多様性 - アンモナイトとオウムガイ

世界について語るための、表面上の切り口は、たくさんある。世界とは、人間の世界のことだ。自然界とか宇宙のことではない。科学がいつの日か宇宙を征服し、我々は世界を手にするだろうか。そんな馬鹿なことは起こり得ない。何故と言われても困る。宇宙とは論理的には人間「以前」ということだろう。科学という論理的な手段で人間が人間「以前」まで遡ることなど論理的に不可能だ。論理を捨てるなら遡る方法はあるのかもしれないが、僕はそれを知らない。科学はあくまで眼鏡に過ぎず、論理空間(という人工物)を鑑賞するための観客席に過ぎない。科学は宇宙を目指してはいるのだろう。擬似宇宙を創り出すことはできるのかもしれないが、科学が宇宙を解き明かすというのは宗教だ。

念の為に補足するが、宗教(信仰)は人類にとって最も重要なものであり、全く否定するものではない。今の時代に科学という信仰は必要なのだろう。ただ、人間から切り離された完全純粋知たる科学などはあり得ないと言っているだけだ。我々は「我々」であることから解き放たれることはない。

いま世界がうまくいっていないのだとしたら、まず人間社会のルールについて考えねばならない。誰もが生きやすい世界にしたいのなら、世界の本質などより、政治経済という目先のルールから介入する必要があるだろう。しかし、残念ながら僕は政治経済に興味がない。政治経済は興味ある有能な人間に任せたい。政治経済は10年単位で世界を動かす。動かしてきた。とても大事なことだ。しかし、100年を見据えるなら、それとは別に、そもそもの進路を決断するための哲学が必要だ。それは、おそらく皆さんにとって「大事なこと」ではないのだろう。ただ、哲学が見出されなければ、人類は間違いなく袋小路に迷い込む。

かつて、進化の袋小路に突き当たり、目的を持て余して異常な多様性を獲得したアンモナイトという生物がいた。詳しくない人は各自で調べてみて欲しい。彼らは餌が豊富で暖かく生存の「効率が高い」表層のみに分布したため、気候変動により滅亡したとされている。もちろん、アンモナイトの絶滅理由は諸説ある上に、そもそもそんなものわかりっこない。あくまで例え話の一環である。とにかく、自作自演の多様性に溺れ、もっと広い「可能性」の世界に進出することはなかったらしい。一方、アンモナイトに深海へと追いやられたのが、オウムガイである。彼らは、最盛期には何千種類も存在したが、競争の結果、最終的に数種類にまで数を減らした。しかし、彼らは生き残った。そう、彼らこそが「可能性」だったのだ。表層で異常な多様性に溺れている人類を、アンモナイトではないと、我々は言い切れるのだろうか。時代に生きにくさを感じ、思考して深く深く潜るオウムガイを、「敗北者」だと、我々は言い切れるのだろうか。

1 基本無料 - 地球平面説とトランプ盲信者を演出する全自動装置

無料で受けられるサービス。基本サービス無料。

皆さんはどう感じるだろう。残念ながら皆さんの大好物ではないかと推測される。そこを今回の話の導入にしたい。この記事も敢えて全文無料公開としていないので、全文を読む人は少ないだろう。構わない。有料にしていることにはお金儲けとは別の信念がある。儲けたいならこんなやり方をせずカルト化の手法を取る。

さて、何も考えずボンヤリ生きている皆さんは、タダなのは良いことだと感じておられるだろう。カルト予備軍である。僕としては、以前から繰り返し述べて少し飽きていることだが、念の為しつこく繰り返しておく。無料という概念は、皆さんを家畜化する。理屈はいまから改めて説明する。よく考えて欲しい。経済原理で動いているいま2020年代の社会において、完全無料のサービスなどあり得るはずがない。

たとえばYouTubeで「ただで学べる」みたいな話が出てくると、

「これで教育格差がなくなる」

「世の中が変わる」

「ヤバい」

などと感動する人がすぐに出てくる。

そんな馬鹿なことがあるわけがない。ヤバいのは皆さんの脳みそである。現に、何も変わっていない。何が変わったというのか。

そう。

何も、

変わって、

いない。

タダで得られる情報では何も変わらない。それがわからない皆さんは残念ながら頭が悪いにもほどがあるし、わかっていてビジネスのためそれを広めようとしている方はこれまた残念ながら悪人にもほどがある。あるいは、「タダで学べる」「タダで手に入る」をその意味も理解せぬまま広める立場におられる方は、怠惰極まりない。すなわち、極めて頭が悪く、かつ、極悪人である。

その場でお金を払わずとも、基本無料サービスを利用する皆さんは、確実に支払いを行なっている。

「え?」

「何を?」

「何も払ってないよ?」

いいや、支払っている。
自分自身を、だ。

正確には媒体として自分自身を外部に開放することで、他人に自分自身という土地の使用権を売ってしまっている。

土地という概念における新大陸はとっくになくなった。それはすでにこのシリーズで述べた。

新大陸を見つけ植民地化し利益を吸い上げる。そのサイクルは、地理的には難しくなった。しかし、人間の飽くなき欲望は、新たな大陸を見つけたわけだ。それこそが、人間である。すなわち、皆さんそのものが新大陸なのだ。皆さん自身が不動産であり、土地であり、資産である。皆さんがどこに興味を注ぐのか、そのエネルギーの流れがコントロールされ取引されている。皆さん自身が、Social Mediaがデータ収集し広告を売りそして金融システムの管理者が肥え太るための、栄養培地みたいなものなのだ。もしいま土地の権利、売買に一切の法の規制がなかったとしたら、どうなるだろう。そういうことである。

情報産業に関わるテック企業、ビッグテック、彼らは彼らにとっての善をなしているだけである。しかし、その善は人類にとっての善ではない。法がない以上、現時点では彼らは無法者ではない。実際、彼らも目的のために多大な投資をし、相応のリスクを背負ってきてはいる。もちろん勝てる前提のリスクではあったろうが、それでも初めから濡れ手に粟状態だったわけではない。

始まりはきっと尊かったのだ。

だから、全てを否定するのは間違っている。かつては、誰もが歓喜しその恩恵を享受したはずだ。しかし、一度押さえてしまえばコスト面(データセンターなどの)で新規がもはやアイデアだけでは永遠に競争に参加できなくなるような一人勝ちの支配システムが構築されることに対しては、明確に法が必要だ。実際、だからこそ彼らはそこに投資をしたのだ。倫理は歯止めにならなかった。その話はまた後で触れる。

ちなみに、Social Mediaという表現よりもSNSという和製英語表現の方が日本では一般的かと思うが、ここではSocial Mediaというグローバル表現を敢えて採用している。僕がグローバル志向で、欧米に媚びているわけではなく、むしろ全くの逆である。この裏にいる黒幕は日本人ではないからだ。責任は欧米由来であることを明確にしておきたい。それだけのことである。

話を戻そう。

Social Mediaにとって、皆さん自身が原材料、栄養培地そのものという話である。一人勝ちのメディア管理者は、ユーザーの動向を分析すれば、その流れをほぼ自由にコントロールできる。たとえばYouTubeならどうだろう。

・この地域の視聴者が弱いからアルゴリズムを変えよう

・この系統の動画をこの層にこれだけ見せればこの広告は売れるだろう

・もっと効率よく売るためにポリシーをうまいことこっそり変えておこう

・世論がうるさいからそっち系の動画は広告外して倫理観アピールしておこう

・自分達にコントロールできないような動画は丸ごと消してしまおう

そんな思惑でスイッチポンされるだけで、我々は緩やかにコントロールされ、気付かぬうちに趣味嗜好そのものを内側から変えられてゆく。中毒性という意味では、単純なゲームよりも危険である。何故か。

リソース(資源)がローカル(身の丈)で閉じていないからだ。

ゲームにも中毒性はもちろんあるが、それより「ソーシャル」であることの中毒性の方がヤバい。ソシャゲがヤバいのも、ゲームであることよりもソーシャルである(リソースが閉じていない)ことが原因である。閉じたゲームであれば、どれほど中毒化しようとも、そのゲーム世界に留まり続けるしかなく、リスクは有限である。そこに、運営管理者が何でもアリの「ソーシャル」な回路をつなげたことが、言ってみれば運営側のチートである。ユーザーには禁止しているチートを、運営は平然と使っているのだ。

この文脈における「ソーシャル」とは、他者と双方向的につながるという意味ではない。システムの管理者と被管理者という主従関係がリアルタイムに更新され続けるという意味である。

「ソーシャル」な中毒性はゲームでなくとも、当然成立する。

課金ガチャで「あと一回だけ」と感じるのと、画面を消してデスクに置いたスマホにすぐまた手を伸ばして新しい情報がないかSocial Mediaを「もう一巡」し始めるのとは、刺激の強さに違いはあれど原理は同じだ。情報更新(ガチャ)すれば、その都度そこ(Social Media空間)に何かがあるのではないかと期待してしまう。

タダで使える
タダで遊べる
タダで学べる
タダの情報
タダのゲーム
タダの学校

それを享受しているとき、皆さんは自分の身体を他人に明け渡し、培地として与えているわけだ。なんなら、自ら進んで自分の身体を耕し、与えられるがままに種を植えて、その収穫物を差し出している。だから、いま目先で広告経由でお金を搾り取られていないからといって、「俺は大丈夫」とはいかない。システム管理者も想像を絶する多大なコストを払って運営しているのだ。無料のままで済むはずがない。彼らが何のためにそこまでの投資をしているのかを考えて欲しい。YouTubeが黒字化したのはごく最近の話だが、しかし、Googleはずっと赤字を押して無料サービスとして投資を続けてきたのだ。

何のために?

皆さんを家畜化して今後飼育するための情報を一手に押さえるためである。

それが長期的に見て管理者に莫大な利益をもたらす。皆さんのより良い生活のためなどでは、断じてない。市場の独占、情報の独占、そのためである。Social Mediaに依存させられた者は、いずれ長期的には間違いなくシステムに搾取される。搾取という面では、胡散臭い情報商材やセミナーにバカ高いお金を払ってしまう方が、まだマシかもしれない。目先でデカいお金を払ってしまうというケースは、その行動の責任が自分にあることを意識できるからだ。しかし、Social Mediaに人格を乗っ取られていることに気付くのは、とても難しい。既に中毒者である皆さんを、僕の一声でポンと元に戻すことなども不可能だ。システムは、単なる情報として皆さんの内部へ侵入するわけだが、知識として侵入しながら、それは感情へ、人格へと浸潤する。映画『インセプション』のようなものだろうか。『インセプション』では「夢の中で他人にアイデアを植え付ける」というのがテーマになっていた。少し違うかもしれない。強い印象を植え付けるというよりは、弱い印象を反復の中で無意識に刷り込むと表現した方が正確かもしれない。

恋は盲目。大好きなあの人に会いに行きたい。いますぐ会いたい。

その気持ちを言葉で止めることができないのは、恋愛小説家でなくとも誰でも知っている。Social Mediaは皆さんの感情に多方面から入り込んでその状態を容易に作り出す。欲望を反復的に刷り込むのだ。皆さんの感じている、TwitterやYouTubeを見ずにはいられないどうしょうもない気持ちは、システムに誘導されている。原理的にそういうものだ。それは自覚しても避けられない。

何かをしたいという気持ち、人や物を好きになることには、何か深い理由はあるのだろうか。夢を壊すようで申し訳ないが、「好き」に理由などない。単に様々な偶然の「タイミング」が「快」につながった時に「好き」という感情が後押しされているだけだ。どれほど「好き」という感情に理由をつけても、『あの日あの時あの場所で君に会えなかった』なら、『僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま』なのだ。小田和正さんが教えてくれる。「好き」とは与えられたタイミングの結果だ。もちろん、ただ会えば良いというわけではない。最高のタイミングで会う必要がある。Social Mediaは、最高のそのタイミングで、そこにあなたの理想のその人(趣味、嗜好の対象)を連れてくる、いわば「全自動『東京ラブストーリー』」なのである。皆さんが大好きな何かを追いかけるのをどんどんプッシュし、次から次へとその「好き」「見たい」という感情をドライブし、その逐一をデータ保存し、必要があればそこに広告をしかけ、必要があれば意見の操作すら試みてくる。広告は、その場で直接収益にならずともそうしたデータが蓄積されることで、別なカモにネギを背負わせる大いなる助けになる。

いずれにせよ、Social Mediaの全ユーザーは、もはやただユーザーであるだけで悪事の片棒を担がされることから逃れられない。僕だって片棒を担がされながら過ごしている。そんなSocial Mediaの現状を、こうしてSocial Media経由で訴えることに意味があるのだろうか。

Social Mediaの問題点を指摘したとして、その情報も当たり前にコントロールを受ける。それは禁止され弾圧されるというようなわかりやすい単純な話ではない。とは言え、外部から不都合な圧力を「大規模に」かけたなら、彼らも実力行使を辞さないだろう。そんな事態になれば、巨大なSocial Media帝国の管理者と国家との戦争になるだろうが、いまは政治ではなく哲学の時間だ。政治は政治家に任せよう。

僕がするような込み入った話は、込み入った話に興味のある層にしか表示されない。コアなトピックはコアな層のみで共有させて閉じ込めた方が効率よくサイクルが回る。たとえばYouTubeなら、同じ種類の動画ばかりを「自由意志」で検索させ、おすすめし、ループを閉じる。「自由」に見せかけながら、結局のところコントロールしてゆくわけだ。

「YouTubeで世界を変えよう」という動画を観て、「YouTubeで世界を変えよう」という動画を作る。その動画を観るのは誰か。コントロールされた閉鎖的半仮想現実の中で「世界を変えよう」という声は、いかなる外部に届くこともなく、その「界隈」でループさせられる。しかし、お互いの声を実際に聴き合っているため、強い現実感が生まれ、閉じ込められていることに気付くこともできない。好きが好きを呼び、最も「気持ち良い」誰かの妄想が、遂には真実にまで昇華され、「全自動『東京ラブストーリー』」が見事に最終話まで完結する。

インターネット上の一部の「界隈」なんてものはとてもとても狭いコミュニティであるが、「界隈」に入り浸っていると、それこそが世界の全てに思えてしまう。ちょっとした「界隈」で有名な話など、一般人は誰も知らない。こうして、「地球平面説」といった「ラブストーリー」ができあがる。突然「地球平面説」という話が出てきて何事かと思う人もいるかもしれない。現代における「地球平面説」信奉者について、ご存知ない方は調べてみて欲しい。なかなか面白いネタに触れられる。

ともかく、システム側としては、そのループする狭いトラップ内に封じている限りは、そこで交わされる内容などどうでもよい。大切なのはトラフィックの動きと量を確実にデータ化しコントロールすることだけである。システム内に収まっている限り、システムの批判をしようが何をしようが、「寛容」な態度で放置される。家畜が放牧地で何を話そうがどうでも良い。ただし、先程も述べたように、システム内ではなく現実に外部から大きな力で働きかけ始めると、一気に排除の動きを見せるはずである。柵は超えてはならない。

キャッチーではない僕の意見は、極めて狭い「界隈」にトラップされるため、システム内部からでは、僕が真に伝えたい「一般」層にはまず届かない。わざわざオウムガイの叫びに学ぼうとするアンモナイトなどいない。

じゃあ、意味ないじゃん。

それでもこうして情報を発信しているのは、システムにも一定の綻びはあるはずだからだ。わずかな綻びから、システムの検知を免れてウィルスのように意見が感染してゆくことに、一縷の希望を抱いている。と同時に、僅かにどこかに生息するオウムガイに生きる道を示したいとも考えている。

僕の信じる道は、現状のSocial Mediaの原理とは噛み合わない。お金儲けに最適化していないので、僕の発信する情報は数値的指標から判断するなら、本当のジャンク情報と何ら区別がないだろう。アルゴリズムからすれば、僕の「意見」は「地球平面説」ほどの価値すらない、ジャンク以下のゴミ情報に違いない。

2 分断 - 自由と無作為の混同による意味矮小化の加速

さて、先ほどからSocial Mediaの文句ばかりを言っているわけだが、

「Social Mediaは人と人をつないだ」
「かつてできなかったことを成し遂げてるよ」
「メリットもいっぱいあるでしょ」

そう感じている人も多いかもしれない。

そんなことは、当たり前である。僕もSocial Mediaなしにはもはや生きてゆけない。Social Mediaには毎日お世話になっている。僕はSocial Mediaを得体の知れぬ新しいものとしてただ否定してぶっ壊したいわけではない。むしろ、肯定的に捉えている。より良いものになって欲しいと願っているだけだ。現代人は、もはやSocial Mediaなしには、身近な人間関係の構築すら難しくなってきている。だからこそ、そこに存在するネガティブな要素の「輪郭」を明確に意識しておいて欲しい。老害が垂れ流すような、目先の利益のみに起因する底の浅い愚痴ではなく、明確で強い問題意識を持って欲しいと願う。

具体例として、テレビとYouTubeを例にMass MediaとSocial Mediaの分断様式の違いについて考えてみたい。

その前に、一言、「分断」という言葉について少し触れておきたい。ここ数年でやたらと耳にすることが増えた「気持ち悪い」言葉ランキング最上位の言葉である。本当に気持ちが悪い。何故気持ちが悪いかというと、用法が吟味されずに薄っぺらいまま広まっているからである。分断と多様性は表裏一体、というか実質同じものである。社会が多様化すれば、その多様性を担当する言葉は、社会をより細分化する。

性別を例に考えよう。昔は、「ちんちんがついているか否か」が男女を分けていた。いまは、「ちんちんの有無」を確認するだけでは男女の区別がつかない。産科医も、生まれたての赤ちゃんが男なのか女なのか確信が持てず、さぞ困っていることだろう。もはや、「男女」という性別はやめて、「ちんちんあり」か「ちんちんなし」にすれば良いとすら思う。面倒臭い世の中になったなぁと思うが、仕方がない。文化の成熟が行き着くところまで行ってしまえば、「アンモナイトの異常巻き」が起こるのは必然なのだろう。ともかく、「多様性とは意味の矮小化である」という言葉の意味はご理解いただけただろうか。ジェンダーやらなんやらよくわからない小難しい概念の発明で、「男」やら「女」やらの言葉の受け持つ意味領域が狭くなり、寛容性を失い、硬直したのだ。善し悪しはともかく、それは否定できない事実である。

そして、Social Mediaがその定義付けの固定、強化まで行なっている。細分化した領域にタグ付けが行なわれ、各々の界隈でループが「完結」するため、界隈同士がたまたま重なりを持つ「偶然性」が限りなく失われる。僕自身は分断という言葉を好き好んで使うことはないので、多くの皆さんが何を考えてこんな言葉を使っているのかは知らないが(たぶん何も考えていない)、雑に推測するに、皆さんの言う分断とはこういうことではないだろうか。性別を右やら左やらに置き換えれば同じ説明がつくだろう。

話を戻そう。

テレビは誰かの作った仮想空間、制作者のバイアスのみが効いた、フィードバックのない一方通行の空間である。一般にはバイアスが強すぎるという批判、より正確には準備される選択肢の「少なさ」が批判される。フィードバックがないため、一元的、誘導的すぎると受け止められる。運営管理者の一部の思惑ばかりが反映されるということらしい。ほんの少しの注意力さえあれば、ニュースも含めテレビはあくまでメディア、媒体であって現実でないことくらい気づけるはずだが、その少しの注意力というのも、中々どうして身につけるのは難しいらしい。

YouTubeはというと、制作の規模感から考えて、テレビよりもさらにバイアスのかかった極めて偏ったコンテンツしかないはずである。なのに、注意すれば情報をバイアスフリーに選択することが可能であるかのように感じている人が、あまりにも多い。

YouTubeにはテレビとは比べ物にならない多量のコンテンツがある。すなわち、「自由」な選択肢があるので、注意して選択すれば誘導からは逃れられる。決め付けられた大きな流れに誘導されることのない、多種多様な意見を選択できることに基づいた自由がある。嘘もあるが真実もあり、真実を選ぶことができる。そこがテレビと大きく違う。皆そう信じている。

実際は、おすすめ機能による現実感の編集や嗜好の強化、場合によっては検閲すらなされていることを忘れてはならない。検閲は確かに問題だ。検閲に気づくと、皆さんはやたらと騒ぐ習性があるようだが、実際のところは、目に見えやすい検閲よりも現実感や嗜好を編集されることの方がよほど危険である。より広告を売るのに適した視聴環境、あるいは管理者にとって都合の良い民意を保つための半仮想現実が、アルゴリズム(およびユーザーの「自由」意志)によって再形成されている。検閲には気づけても、システムによる現実の編集に気づくのは本当に難しい。

多様性を認めることこそが分断であり、Social Mediaによるシェアがその分断を加速している。なのに皆さんは、「多様性は素晴らしい」と言い、「分断は良くない」と言う。どちらも同じものである。皆さんの頭の中こそ分断しているのではないか。

質問しよう。

皆さんは、自分だけに許された可処分時間に、好き好んで自分の最も嫌う価値観に触れに行くだろうか?

行くはずがない。

多様性とは、多様な「選択肢」による世界の分断である。選択された各々の世界を、各々のソーシャルなループに閉じ込めれば、分断はいともたやすく完成する。多様性を手離しに賞賛している人は、皆、世界の分断者である。Social Mediaのおかげで、右、左の二極化、あるいはその他あらゆる派閥の分断が進んでゆく。

「自由」に何でも選択できるとしたら、皆さんは自分と同じ価値観やそれをサポートするものしか選択しない。誰だってそうだ。そしてそれこそが現実の世界そのものだと思い込んでしまう。

情報メディアは人間を家畜化するためのとてもよいツールである。ひと昔前は、メディアは家畜としての人間を大きな一つのかごに閉じ込める目的でマス運用されていた。しかし、テクノロジーの進歩にともない、より細かな個人個人の動きも全て逃さずエネルギーとして吸収し利益を最適化しようという強欲が発動した。大きな一つのかごではなく、小さな複数の多様なかごで多様な家畜を育てる合理性が、技術的に利用できるようになったわけだ。強固な建造物でガチガチに閉じ込めるのをやめ、家畜の動きに合わせて檻を柔軟にしたのである。逃げ出そうというエネルギーにコンクリートの壁で真っ向から対抗するのでなく、そのまま衝撃を受け止めてエネルギーとして吸収するシステムを作った。その檻の中では、基本的に「自由」な動きが許されているため、皆さんは閉じ込められていることに気付かない。そう、皆さんは「与えられた自由な選択肢」という矛盾した手品でかごに閉じ込められている。まさかそこに他者の思惑が介入しているなどとは疑いもしない。

YouTubeでは、どんな動画を視聴するかについては、もちろん自分で「選んで」いるのだから、「全ては自分の自由な意志だ」という理屈である。しかし、それは実際には「与えられた」選択肢だ。同じ意見、価値観、興味の対象は、触れていて気持ちが良い。そんな中、完全に準備された「自由」な選択において、自分が快楽を感じないものをわざわざ選ぶはずがない。それがトリックである。「不快でも生きるためには選ばざるを得ない」「他に選択肢がない」という「自然(ナチュラル)」で「無作為(ランダム)」な選択肢が、そこにはない。

自然であるとは、そしてランダムであるとは、自由であることとは違う。

自然体の私。ありのままの私。そう、私は自由。

頭が悪いにもほどがある。

自由とは「快」のみを選ぶという圧力(バイアス)のかかった行ないである。断じて自然な行ないなどではない。人が自由を目指すのは、そこに「快」があるからだ。自由と自然(無作為)は、全く異なるものだ。

Social Mediaにおいては、不自然に快適な選択肢のみが「自由」に選択される。わざわざ不快を求めてSocial Mediaを利用する人などいはしない。

敢えて言うが、「広告主が広告を売る」「どうでもいいコンテンツでユーザーを中毒にする」「システム管理者の監視体制を強化する」そんなモデルに加担しているのがYouTuberであり、インフルエンサーである。インフルエンサーは皆、本人の意図とは無関係に極悪人なのだ。それは倫理ではなく原理である。特定のインフルエンサー個人が人として倫理的に悪人かなど知らない。場合によっては善人でさえあるのかもしれない。だから、インフルエンサー個人を責める気はない。しかし、繰り返すが一個人がどんな倫理観を持っているかなど、どうでも良いのだ。単に、やっていることの原理が、悪に則っているというだけのことである。

3 「倫理と原理」のトートロジー - 私以外「私」じゃないの

より深く話に踏み込むために、倫理と原理の話をすることにしよう。皆さんの中にひとつの確固たる「基準」を作るのに役立つかもしれない。

倫理で世界は変わらない。

そこから始めよう。これに関しては、過去の偉大な哲学者のほぼ全員が敗北している。

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