ジェイラボワークショップ第44回『表現としてのコミュニケーション』【文化表現研究部】[20221121-1204] #JLWS
表現研の部員に参加してもらったワークショップのログをあげておきます。僕は体調の問題もありあまり参加できておりません。後にこのワークショップに関連付けてまとめの記事を投稿します。
■にしむらもとい
皆様、ご無沙汰しております。西村です。本日から二週間、表現研がWSを担当させていただきます。
表現研では、現在e-sportsを軸にデジタルメディアにおけるコミュニケーションについての研究を行なっております。本WSにおいては、表現としての「コミュニケーション」について、皆様と一緒に考えを深めてゆくことをテーマとして据えております。
手始めに、そもそもコミュニケーションとは何かということについて皆様に考えていただきたく思います。表現研は正式には文化表現研究部という名目の活動であり、様々な文化表現物を研究することが我々の活動目的です。その中でコミュニケーションというものを扱うのは何故なのか。それを理解いただくためには、表現とは何か、そしてコミュニケーションとは何かという二点について触れる必要があります。
表現とは、狭義には文化性の認められる何らかの有形の作品物ということになるかと思いますが、広義には人の意志を反映したあらゆる行動、活動がそのまま表現であるとすることもできると思います。古典的には芸術、アートの分野において表現が語られたと思いますが、もっと広く例えば漫才なども表現として捉えて問題ないと思いますし、漫才が表現であるなら日常会話すら表現であろうと思います。漫才と日常会話の違いは、質としてどこまで笑いという特定の要素が練られているかという部分が大きいですが、決定的には質の問題ではなく、それが何らかのメディアにおいて広く共有されているかという部分にあろうかと思います。ほとんどの方は、表現、特に表現物とは何かと問われたとき、その判断材料として、それが広くメディア共有されているかどうかということを念頭に置くのではないでしょうか。それは、これまでの「古い」頭では確かにそうだと思いますが、個別最適化が進むこれからの世界においては、共有範囲(の広さ)はいずれ時間の問題で表現(の価値)とは無関係になってゆくと思います。その話は今回のテーマとはややずれますのでこれ以上追いませんが、ともかく皆さんが日常的に行なっている何らかの行動(の結果)そのものをそのまま「表現」として捉えるスタンスで話を進めていきたいと思います。
そして、もうひとつ、コミュニケーションとは何かというお話ですが、僕の意見としては、今日においては表現とコミュニケーションはほとんど同義のものであると捉えています。強いて言うなら、表現は無人の壁に相対しても行なうことができますが、コミュニケーションは基本的には無人の壁打ちでは成立しないため、対「人間」を想定した、より狭義の表現ということになろうと思います。つまり表現というものの中にコミュニケーションというものが含まれているというのが基本的な構図であろうと思います。あるいは、そもそもは直接的な意思疎通としてのコミュニケーションしか存在しなかった世界線に、直接性を超越した「表現」が発明され追加されたと考えても良いのかもしれません。その中で、表現はある種の作品物として直接的なコミュニケーションから離れ、独立した存在であるかのように振舞ってきましたが、ここにきてあらゆる人間活動のシェア可能性が一気に高まることで、再び孤立した表現群が人間とのつながりを回復し、すなわちあらゆる表現がコミュニケーションとして再回収されつつあるというのが、僕の基本的な考えです。
さて、それではコミュニケーションとは何か。その話が置き去りでした。極めてシンプルには、コミュニケーションとは対人間の意思疎通のことですね。つまり、人と人が情報を交換することがコミュニケーションであろうと思います。ここにおける情報とは、これも狭義には言語情報ということになろうと思いますが、広義にはいわゆる身振り手振り的な身体「表現」も含むと思いますし、いま使った身体という表現は何も人間の身体(からだ)そのものを指すだけではなく、もっと広い意味での時空間的な情報を全て身体という表現に含めて良いと思います。そして、コミュニケーションを定義するにおいて僕が決定的に重要と考えていることは、それは可能性に過ぎないということです。あらゆる人間は個別に認知というフィルターを通じて世界を構成しており、情報は誰に対しても常に同一の「意味」を構成しないということです。技術的にあらゆる情報の共有可能性が進む今日の社会において、特にそれは明確化してきていると思います。
お話としては本日はここまでです。
----論点1----
デジタルとリアルのコミュニケーションの違い、そのメリットデメリットについて
明日から部員が感じる素朴な意見を順に投下させてもらいます。少し抽象的ではありますが、皆さんも何か感じることがありましたら、投下してもらえれば幸いです。
■シト
こんにちは、シトです。本日は、私の考えるデジタルとリアルのコミュニケーションの違い、そして、そのメリットデメリットについて述べていきます。
まずは、デジタルとリアルのコミュニケーションの違いについてです。違いは3つあります。
1つ目は、場所に制限されるかどうかです。デジタルは端末などを使用することによって、回線などの環境があればどこでもコミュニケーションをとることができます。これに対して、リアルはコミュニケーションを取りたい相手と実際に会うことでしかコミュニケーションを取ることができません。
2つ目は、一部だけで済ませることができるかどうかです。デジタルは声、文字、画像だけなどといったように限られたものだけでコミュニケーションをとることができます。これに対して、リアルでは生身の人間でなければいけないため、さまざまなものを同時に通してコミュニケーションを取ることになります。そのため、リアルはよく知っている者同士、または、知らない人であってもある程度の身分の保証がされている人とのコミュニケーションが多く行われていますが、デジタルでは、よく知らない人とのコミュニケーションが多く行われています。
3つ目は、一回性が重視されるかどうかです。デジタルはそこで流れているものそのものを録画などすることによって保存することができます。それをいつでも好きな時に振り替えることができるため、一回性は重視されていません。これに対して、リアルはその場でのやりとりをそのまま保存することはできないので、一回性が重視されます。
次に、以上のことを踏まえてデジタルとリアルのメリットデメリットを見ていきます。
まずはデジタルについてです。デジタルのメリットとしては、どこでもできるというものが挙げられます。回線とデバイスがあれば、その人が海外にいようとすぐにつながることができます。デジタルのデメリットとしては、偶然が生じにくいというものが挙げられます。デジタルは、人間が認識できるレベルの出力がされるため、制限のある範囲でしか動くことができません。例えば、人間が認識できる速度の限界は240fps、8kだと言われ。それにあわせてモニターなどが作られ、そこから出力がされています。しかし、実際の世界にはそのような制限はありません。デジタルは世界を人間用に切り取ったものを人間に処理させています。
次はリアルについてです。リアルのメリットとしては、偶然が生じやすいというものが挙げられます。デジタルと対比して、リアルは人間の都合関係なしに情報量があふれています。つまり、人間には認識できないレベルの情報がたくさんあるということになり、想定外の偶然な出来事が生じる可能性が高いです。リアルのデメリットとしては、その場に行かないといけないというものが挙げられます。人間の都合は関係ないため、人間はそこに合わせなければいけません。
本日は以上です。
■Yuta
こんにちは、Yutaです。本日は僕の考えるデジタルとリアルのコミュニケーションの違い、そのメリットデメリットを紹介したいと思います。
デジタルのコミュニケーションの萌芽は電話機からでした。ここ数十年で携帯電話を使って、音声通話に加えテレビ電話ができるようになり、スマートフォンの登場で、LINEをはじめとした無料通話アプリによるビデオ通話が広く普及しました。さらに近年、新型コ口ナウイルスの感染拡大によりzoomを通したオンライン会議などの利用が日常の一部といっていいほどに一般的なコミュニケーションのツールになりました。デジタルのコミュニケーションにおいて相手の声色に加え、相手の顔色も見ることができるようになったことでほとんどリアルとの差がなくなってきました。僕は現在、デジタルとリアルのコミュニケーションにおける違いは、身体性にあると思います。例えば、自分と相手でビデオ通話をしているとき、自分は家で相手は外出先から掛けているなら、この時自分と相手を取り巻く周りの環境が異なっています。つまり、同じ時間軸でコミュニケーションを取っていても、空間としては別の場所にいるというのがリアルとの違いであると捉えることができます。当然ですが、デジタルだと相手に触れることができません。デジタルのみでコミュニケーションを取った相手は、リアルでコミュニケーションを取ったことがある相手よりも距離感があるのはコミュニケーションを取っている空間が異なるせいだと思います。もしも電脳空間上で、こういった肌感覚まで同期・共有できるような時代が来れば、もはやデジタルとリアルのコミュニケーションに差異は無いといっていいでしょう。
ここまで、デジタルとリアルのコミュニケーションの違いについて僕なりに考えてきましたが、次に、それぞれの手段でのコミュニケーションにおけるメリット・デメリットについて考えます。
デジタルのメリットは、コミュニケーションの取り方のバリエーションがあり、相手にも依りますがその時の気分に応じて文字か、音声か、ビデオかが選択できることだと思います。要するに、デジタルでのコミュニケーションは、手軽で気楽なものだと言えるでしょう。一方デジタルのデメリットは相手への意識が薄れてしまうことにあると思います。というのも、リアルで接していたら話を聞くときには相手のことを見ながらが基本ですが、デジタルだとビデオ通話ならまだしも、音声通話となると、相手の話を聞いている間は別に何をしていても相手に気づかれさえしなければ、失礼にはならないし、相手もそれを気にする余地がないからです。 リアルのメリットは、デジタル上での体験とお互いの時間を共有するというのに加え、空間を共有していることによる相手との一体感がより増すという面にあると思います。また、ちょっとした仕草、行動を観察することができるのもリアルでのコミュニケーションを取るメリットかもしれません。デジタルだとそういう部分は隠れてしまって見えにくいです。一方リアルのデメリットは、そういった観察眼から、また、何かまずい事態に陥った時に逃げ場がないということであると思います。あと単純にデジタルでコミュニケーションを取るよりも気を遣う部分が増えて、手間であるというのも挙げられるでしょう。
本日はここまでです。読んでいただき、ありがとうございました。
■ジパング
こんにちは、ジパングです。シトさん、Yutaさんに続いて私からもデジタルとリアルのメリットとデメリットのお話をしたいと思います。
一口にデジタルと言ってもビデオ通話であったり音声のやりとりであったり、テキストのみでのやりとりであったりと様々である。デジタルとリアルのコミュニケーションの違いはコミュニケーションをとりあっている者同士で情報量の差があることである。
テキストで送られてきたメッセージに対して音声で返信をするといったことを可能にするのがデジタルである。
リアルのコミュニケーションの場合、コミュニケーションとりあっている者同士で情報量の差が生じることはない。表情や抑揚、言葉の間などお互いが同じ次元でやりとりをしている。
この情報量の差という物がデジタルとリアルのコミュニケーションの違いである。
デジタルのメリットはコミュニケーションを取るハードルの低さである。デジタルコミュニケーションではやりとりを行う者同士で次元を選択できるため、それぞれが自分の使いやすものを用いることができる。
また次元をテキストベースなどに落とすことによって、リアルでは話しづらい相手であってもコミュニケーションをとることができる。リアルの場合次元が限定されるためコミュニケーションを取る上でのハードルが高いと言える。
逆にリアルコミュニケーションのメリットは言葉に信用度が増すことである。対面のコミュニケーションの場合デジタルと違って情報量が多いため、デジタルでコミュニケーションを取るよりも言葉に信用度が増す。
これがリアルのメリットと言えるだろう。デジタルのデメリットはレスポンスの遅さであろう。
相手の状況を一旦確認する必要がある事項を決めるとき、リアルの場合それこそリアルタイムでコミュニケーションをとっているためすぐに決めることができる。
デジタルの場合相手の返信を待たなくてはならないため、そこにラグが生じてしまう。
このラグがデジタルのデメリットである。本日はここで終わりです。読んでいただき、ありがとうございました。
■にしむらもとい
ここまで、デジタルとリアルのコミュニケーションについて少し考えてもらいました。
表面上に現れるデジタルとリアルコミュニケーションの具体的なメリットデメリットはいくらでも挙げられると思います。デジタルとリアルの究極の線引きは何かというと、当たり前と思うかもしれませんが、それは計算機(コンピュータ)に乗せられるかどうかということです。様々に手を変え品を変えデジタルとアナログ、リアルの差異は表現されてきましたが、要は計算機に乗せて処理できるものは全てデジタルという線引きが一番現実的でわかりやすいかと思います。そして、「デジタル」は計算機の処理性能が上がるにつれてどんどんリアル(アナログ)を飲み込みつつあります。認知的な観点としてヴァーチャル対リアルという構図もありますが、ヴァーチャル対リアルとデジタル対アナログは、今日においてはもちろんそのまま対応することが多いですが、本来的にはそのまま対応するものではないということも一応頭に置いておくべきことかと思います。
僕が感じるデジタルとリアルコミュニケーションの違いは、先ほどお話をした通り、計算機にできることとできないことから帰結する差分の全てです。日常生活の観点に落とし込めるその主だったものは、時空間的な同時性の有無(時間や場所に縛られるかということ)や再現性というものに集約されると思います。これが一般的にデジタルとリアルの違いとして感じられるものでしょう。あるいは、計算機の限界という意味では、データ量の大きさもその違いとして感じられるものの一つかもしれません。データ量の限界の問題はデジタル対リアルというよりヴァーチャル対リアルの問題でしょう。データ量が生のアナログに近づけば近づくほど、よりリアルに感じられるようになります。
厳密に議論するには、「デジタル」「アナログ」「ヴァーチャル」「リアル」という用語全てを丁寧に定義しないといけませんが、長くなるので、今回は趣旨に沿った言い回しでシンプルな定義を以下に置いておきます。
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デジタル:計算機に乗る(もの)
アナログ:計算機の外側の(もの)
ヴァーチャル:対応するアナログな実体のない認知的な(存在)
リアル:対応するアナログな実体のある認知的な(存在)
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もっとも、趣旨に合わせはしましたが、現状、これ以上すっきりした定義もないかと思います。違って見える他の定義は、全てこの定義の言い換えか派生的なより狭い定義になるはずです。
というところまでお話した時点で、先に問うた「デジタルとリアル」という表現は少し対応がおかしいことに気づいてもらえるかと思います。「デジタルとリアル」の対応は、あくまで日常の肌感覚に寄せた表現で、正確には「デジタルとアナログ」という表現にすべきものです。が、ほとんどの方が、先の表現に特に違和感を持たなかったと思います。引っかけのようで申し訳ないですが、この辺の厳密さを追求しないと、より抽象度の高い議論をすることは難しくなるということは述べておきたいと思います。
というわけで、「デジタルとアナログ」のコミュニケーションの違いやメリットデメリットは、上の定義からいくらでも引っ張ってこれると思いますので、この話題はこれにて打ち止めとしておきます。
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それでは、本日からまた別な話題として、コミュニケーションの技術的な側面について考えていきたいと思います。
「コミュニケーションとは、人と人が認知を通じて情報交換することである」というのを先に定義として挙げました。ところで、認知情報から「意味」を構成する際の高次脳機能は後天的に経験(学習)として形成されるものなので、個人の経験に依存します。つまり、意味形成の器としての脳が同じ機能を持っていても、実際に器に盛られる「意味」は個人によって千差万別になり得るということです。それは、一つには言語体系そのもの(何語か)の違いでもあるでしょうし、同じ言語体系内ですら同じ表現から想起される「意味」は個人によって確実にばらつき得る可能性を秘めています。要するに何が言いたいかと言いますと、コミュニケーションというのは可能性の獣でしかない(換言するなら不可能性を含んでいる)ということです。その上で、その不可能性を考えるにおいて、現状のデジタルコミュニケーションプラットフォームについて考えてみたいと思います。
そして、その技術がどこへ向かうのかを考える前に、まず現状どのようなプラットフォームがあるのか、具体例を考えていきたいと思います。明日から、また部員による意見を順に投下いたします。
■アンケート
Question デジタルコミュニケーションプラットフォームの具体例として皆さんが日常よく使用するもの(視聴のみも含む)はどのようなものか、教えていただけると参考になります。
[メディア別]動画系 - YouTube, TikTokなど 18
@にしむらもとい, @蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @コバ, @Yujin, @Naokimen, @Daiki, @Takuma Kogawa, @シト, @chiffon cake, @ゆーろっぷ, @西住, @匿名希望, @Hiroto, @イスツクエ, @あんまん, @Tsubo, @ていりふびに
[メディア別]生配信系 - Twitch, 17liveなど 2
@にしむらもとい, @シト
[メディア別]写真系 - Instagramなど 5
@Yujin, @シト, @西住, @Hiroto, @イスツクエ
[メディア別]テキスト系 - Twitterなど 11
@にしむらもとい, @蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Yujin, @Naokimen, @Takuma Kogawa, @シト, @chiffon cake, @イヤープラグさざなみ, @Hiroto, @イスツクエ
[メディア別]音声系 - Clubhouse, Spoon, Voicyなど
[目的別]リアル系 - facebookなど 3
@Takuma Kogawa, @西住, @ていりふびに
[目的別]出会い系 - pairs, tinder, with, タップルなど 2
@シト, @Hiroto
[目的別]ビジネス系 - LinkedInなど
[公開範囲別]クローズド - LINE, Messengerなど 16
@にしむらもとい, @蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @コバ, @Yujin, @Naokimen, @Daiki, @Takuma Kogawa, @シト, @chiffon cake, @ゆーろっぷ, @イヤープラグさざなみ, @西住, @匿名希望, @Hiroto, @あんまん
[公開範囲別]チーム/コミュニティ - Slack, Discordなど 17
@にしむらもとい, @蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @コバ, @Yujin, @Naokimen, @Daiki, @Takuma Kogawa, @シト, @chiffon cake, @ゆーろっぷ, @イヤープラグさざなみ, @匿名希望, @Hiroto, @けろたん, @あんまん, @ていりふびに
その他このカテゴリにないもの 1
@チクシュルーブ隕石
またそのプラットフォームを日常使用していて感じる満足や不満などもあれば合わせて教えていただけると嬉しいです。
■蜆一朗
Discordのようにテキストが流れていく形式のものはまだしも、Slackのようなツールで文章を表現するための(箇条書きや引用などの)方法が乏しかったり、画像を貼っつけてもテキストの最後にしか表示されなかったり、そういう不満はあります。YouTubeやTwitterにも広告が多いという不満があります。あまりいい言い方ではないですが、どちらかというと消極的な動機で(仕方がなく)使うツールが大半ですので、批判的な意見になってしまいました。
■シト
こんばんは。シトです。今回は、デジタルコミュニケーションプラットフォームの具体例を3つ挙げていこうと思います。
1つ目は、ツイッターです。このプラットフォームでは、主に文字でのコミュニケーションが交わされています。長文ではなく140字といった短文での浅いコミュニケーションが、よく知らない人たちの間で頻繁に行われています。
2つ目は、インスタグラムです。このプラットフォームでは、主に画像でのコミュニケーションが交わされています。それぞれのアカウント所持者が写真をあげあっています。
3つ目は、ツイッチです。このプラットフォームでは、ライブ配信者とその視聴者間でコミュニケーションが行われています。配信者は顔出しや声だけだったりと様々な形式でライブを行うことができ、視聴者は文字でその配信者とコミュニケーションを取っています。主にゲーム配信という形のライブが行われ、対話よりも共に時間を共有するというコミュニケーションが行われています。時間を共有することにより、一回性が生じ、いままであったyoutubeとは違い身近に感じることができます。これは、このサービスの課金システムからも分かります。youtubeは、そのサービス自体に課金をすれば広告なしで見ることができます。しかし、ツイッチは配信者ごとに課金をしなければそのようにはなりません。つまり、配信者に課金するようなことがツイッチ側では起きているということです。その意味で、デジタルとアナログの両面を持っているプラットフォームだと言えます。
■Yuta
こんにちは、Yutaです。
本日は、僕の一番身近なデジタルコミュニケーションプラットフォームであるTwitterを紹介します。ジェイラバーにも比較的利用している方が多い印象です。 数年前から日常的にTwitterを利用しています。Twitterは140文字以内のツイートと呼ばれる文章がタイムライン上に時系列順に表示されます。もちろんツイートには画像や短い動画を貼り付けることもできますがそれらは副次的なもので、あくまで文章主体のSNSアプリです。ツイートへの操作としてリツイート、いいねができるようになっています。リツイートをすると、自分のフォロワーにもそのツイートを見てもらえるようになります。Twitter上で情報が拡散するのは、企業の広告でない限り、リツイート機能によるものが中心です。一方、いいねはフォロー内の人にするのか、フォロー外の人にするのかで意味合いが変わると思っていますが、基本的には「いいね」という気持ちを相手に伝えるための機能です。意味合いが変わるというのは、フォロー内の人に向けての「いいね」は単に既読の意味でつけている場合もあるから、という意味です。実際に他人のTwitterのいいね欄を見てみると、タイムラインに表示されるツイートほぼ全部にいいねしているだろうというのも見受けられました。
これだけデジタルのコミュニケーションの幅が広がったのにも関わらず、文字主体のアプリが今もなお世界有数の大規模SNSのままであるのは不思議な気もします。
本日は以上です。
■チクシュルーブ隕石
特定の個人ないし少人数のグループでLINEを使う際に、既読機能があるのは個人的に嬉しいです。ただこの機能は、かなりクローズドな空間でのみ効果を発揮するために他のプラットフォームにないことが不満ではありません。
また、Twitterも一応アカウントは作っていますがほぼ完全に閲覧用(過去にいくつか呟いたり返信したりはしていますが殆どしていないです)として使っています。これにはTwitterの民度をあまり信頼していないことと、Twitterで何かを呟くことで特に何も起きないのでモチベーションが無いことが原因です。
あとは匿名掲示板の2ch(5ch)で「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」(通称洒落怖)というスレッドを見たりしています。これと付随する形でこのスレッドの中身をゆっくりボイス等で朗読するYouTubeのコンテンツも頻繁に利用しています。僕自身怖い話を見たり聞いたりするのが元々大好きなので、このスレッドを見に行くのはお宝探しの側面が強いです。実際に洒落怖スレッドの中にはお宝と言えるぐらい怖い(好みの)話が落ちているので巡回するのがやめられません。ただ、中には長いだけであまり面白くない話も多いため時間が溶けるのが玉に瑕ではあります。
いずれのプラットフォームにも良い点・悪い点がありそれらの悪い点がすぐ改善されるとも思っていないため、プラットフォームが良くなることを待つというよりもそれぞれを適当に使うという方法で利用をしています。
■ジパング
こんばんは、ジパングです。
シトさんyutaさんに続き、私からもデジタルコミュニケーションのプラットフォームの具体例についてお話したいと思います。 私が今回お話する内容は隕石さんのコメントにも上がった5ch、匿名掲示板についてです。匿名掲示板と一言言っても様々なのですが、今回は5chの雑談系の板でのコミュニケーションに絞って紹介します。まず5chは板と呼ばれるものでジャンル別されており、その中でも特定の話題に絞った専門板と雑談や実況ができる雑談系の板に大別されます。板ではユーザーがスレッドと呼ばれる話題を提示して、そこに他のユーザーがレス(コメント)を書き込む形でコミュニケーションが取られています。Twitterとは違いユーザーに名前やアイコン、bioなどはありません。そのため書き込みがどういった人が書いたものかがわからないのが特徴です。Twitterの場合過去の発言などは蓄積されますが、5chではidと呼ばれるその日限りの識別子のみであるため、過去にどんなに過激な発言を行っても日付が変わればリセットされるため過去を漁られません。こういった匿名性が強い5chですが、私が思うに掲示板の最大の特徴はコミュニケーションのライブ性だと考えています。人が多い板では数秒おきに書き込みがされているため、人となにかの話題について常に語ることができる。このライブ性が顕著にあらわれているのが実況というジャンルです。最近ではワールドカップの実況が盛んであり、匿名掲示板においてもYoutubeやツイッチのようにみんなで時間を共有するという側面があります。ある種のテキストベースの生配信のようなもので、ここまで匿名掲示板というサイトが拡大したのもこのライブ性が要因だと考えています。
ここまで匿名掲示板の良い側面ばかりお話してきましたが、実際はこの匿名性を利用した自演やアフィリエイト業者による対立煽り、スクリプトなどによる荒らし、外部の人間を排除する排他的な風土などがありますがこれはまた別のお話。
本日は以上です。
■にしむらもとい
さて、デジタルコミュニケーションプラットフォームの具体例をいくつか見てきました。
様々なメディアを通じたプラットフォームが、現在たくさん存在しますが、アナログ(リアル)なコミュニケーション環境との大きな違いは、やはりデータ量であろうと思います。技術的に全てを補完できない以上、一定のメディアに敢えて制限することでスムーズなコミュニケーションを確保する一方、逆にそうした固定化されたメディアでのコミュニケーションという特殊な在り方が人間側で進化しているとも言えます。SNSの利用法といったコンテンツをよく見かけますが、技術的に制限がかかった中で何ができるかという現状に対して人間側が適応しているのが現状で、人間がやりたいこと全てを技術がサポートできているわけでは全くありません。その中で、僕が現状注視しているコミュニケーションメディアはオンラインゲームです。
以前、コミュニケーションプラットフォームとしての可能性を探るため”Final Fantasy XIV”という、いわゆるMMORPG(Massively Multiplayer Online Role-Playing Game)すなわち「大規模多人数同時参加型オンラインRPG」をYouTubeでも実際にライブ配信しながらプレイしていたことがありました。当時、「コミュニケーションを重視するならMMOよりも『あつまれ どうぶつの森』といったより簡潔なコミュニケーション重視のゲームの方が良いのではないか」と視聴者に言われたこともありますが、僕はそうは思いません。技術的に人間側の要求を全てサポートできない以上、僕は強い制限のかかったプラットフォームである方が、いわゆる「身体的体験」が強く存在し、コミュニケーションとして共有される情報量が多くなると感じています。つまり、オンラインゲームにおいて、テキストやボイスチャットによる言語情報が主なコミュニケーションである場合、僕はコミュニケーションのプラットフォームとしては別にゲームである必要性を感じません。
現在はさらに一歩「身体性」をおし進めてかなりハードコアなFPS(First-person shooter)として”VALORANT”というタイトルをプレイしていますが、これも僕はコミュニケーションプラットフォームとしての意識をもって触れています。それは何もプレイ中にボイスチャットで報告し合い協力し合うとかそういった言語情報を意識しているわけではありません。実際のプレイングスキル、キャラコンやエイムといった言語外の操作部分での表現に特に注目しています。
”VALORANT”ほどハードコアなeスポーツタイトルでなくとも、”MINECRAFT”なども実際に教育現場でプラットフォームとして利用されることも多いですし、最近だとストリーマーサーバーといって有名なストリーマーが多数参加して仮想世界でのストリーマー達のプレイを視聴者が共有して楽しむというスタイルの配信もかなり定着してきています。直近では”RUST”という何でもありでプレイヤー同士が協力し合ったり殺し合ったりするゲームのスト鯖はかなり視聴数を稼いでいましたし、現在は”ARK”という恐竜を飼いならしながらクラフトして協力し合ったり殺し合ったりするゲームの鯖が立っていたりします。
ひと昔前なら、「コラボ」などという表現でストリーマー同士がその都度個々に一緒にプレイしていたものが、現在では一括してサーバーを立ててそこにストリーマーをまとめて参加させ、それを管理者が観測して動画化するのではなく、各ストリーマーが各々の視点でストリームに乗せ、視聴者は好きなストリーマーの視点で自由にその世界を楽しむという形に変化しています。
まだまだ限られた「ゲーム」という制限の強いプラットフォーム上ではありますが、「世界」をその「住人」の個別視点で切り取って流通させるというスタイルは、僕自身ずっと前から予想していたことであり、コミュニケーションの未来の在り方を示唆しています。これが資本主義の枠を離れて運用される姿をどう描くか。そこに問題意識を持っています。
というわけで、僕はデジタルコミュニケーションプラットフォームというのは、現状はその「縛り」の部分に人間側が合わせなければならないことにこそ「意味」が生じている段階だと感じています。それを「便利である」と感じることも「不便だ」と感じることも、どちらもコミュニケーションの多様化に寄与しています。僕は言語情報のやり取りには既に一定の「慣れ」を培ったため、もはやあまり興味はなくなってきており、結果として、言語情報をやり取りするプラットフォームより身体情報をやり取りするプラットフォームとしてeスポーツなどに興味がシフトしています。リアルには、身体性とはすなわち一回性ですが、デジタル空間では身体性すらコピー可能であったりします。
なんてことを考えながら、明日からコミュニケーションの未来について、部員から意見を投下してもらおうと思います。
■Takuma Kogawa
素朴には身体的体験というとVRChatなどが連想されますが、それでもe-sportsを活動の軸に据えたのはどのような理由からなのでしょうか。
にしむらもとい
ご意見ありがとうございます。
理由は、まんま上で述べたとおりですが、言語的なコミュニケーションそのものに重きを置いているタイプのプラットフォームにはあまり新しさを感じていないからですね。身体的体験というものをどうとらえるかという問題に帰着するかと思いますが、もう少し丁寧に説明しますと、ただ仮想空間で身体の構造や動きを模すことがそのまま身体的体験を生むわけではないという考えに基づいています。e-sportsというのは非常に難度の高い操作や認知が求められるため、リアルスポーツや武術、武道の試合に近いものと考えても良いものだと思います。つまり、仮想空間に身体的な要素がただ配置されているから身体体験があるということではなく、仮想空間を通じてであっても、そこに「生身」の側の身体による体験が付随することこそを身体体験として重視しています。
ですので、VR Chatというのは、身体表現のたとえば視覚的要素を利用して単に言語情報をやり取りしているだけの「弱い」コミュニケーションに感じます。上の例であげたFFXIVとあつ森の関係に似ています。FFXIVは生身の側に難度の高い操作などが求められるところに身体性を感じますし、そうした操作の結果は言語にならない情報としてプレイヤー間で共有されると思います。あつ森におけるオンライン性には生身の身体が求められる要素は低く感じます。もっとも、こうしたオンラインにおける「強い」身体性は、現状ほぼゲームというプラットフォームでしか実現されていないことなので「所詮ゲーム」「たかがゲーム」という軽い扱いを受けているのが実情ではあります。
しかし、コミュニケーションのアナログとデジタルのミックス、およびコミュニケーションの新しい形は、理屈としては間違いなくこうした仮想空間と生身の身体のリンクを通じて生まれてくるように感じています。
■シト
こんにちは。シトです。
コミュニケーションの未来はデジタルとリアルが融合という形で来るでしょう。両者が融合しお互いの善いところをもったコミュニケーションが生まれると考えられます。
なぜならば、現在その方向に進んでいるものがあるからです。
例えとして、IoTが挙げられます。IoTとはinternet of thingsの略で、ものをインターネットにつなげるという意味です。これは、人間が身の回りの物をデジタル化し始めているといえます。この動きが進み、世界をデジタルで覆うことができたとき、人はデジタルの世界に閉じこもるでしょう。そこでのデジタルは、人間が処理できない情報量というリアルの面を持ちながら、場所に制約されないというデジタルの面も持っているでしょう。デジタルは一回性をコピーするという意味で、真の一回性はなくなりますが、人間が認識できないレベルのコピーとなるので、人間からすると今までと変わらない一回性が担保されるでしょう。
どこでも参加でき偶然(人間からすると)が生じやすいコミュニケーションが成立すると考えられます。
■Yuta
こんにちは。Yutaです。僕が思うコミュニケーションの未来について書きます。
現状デジタルでの主なコミュニケーションといえば、プラットフォーム上での文章、音声、映像のやり取りが主体ですが、これらが可能にするのはせいぜい他者との時間軸の共有であろうと思います。将来的にはデジタルのコミュニケーションにおいても、身体感覚も同期された電脳空間でのリアルと変わりない直接的な対話が未来のコミュニケーションの可能性の一つではないかと予想しています。このような世界は、これまでいくつものSF作品で描かれてきたわけですが、リアルのコミュニケーションを超えない範疇にとどまるかというときっとそうではなく、例えば言語を介さないコミュニケーションが行われているのではないかという妄想もできると思います。自分の考えたことがそのまま相手の脳内に表示される、伝わる、そんな世界が実現しているかもと想像を膨らませます。ガガーリンは宇宙から国境は見えなかったと言いました。性別、デジタルとリアル、そして言語。文明が進むと、色々なものの境界が段々曖昧になっていくのかもしれません。
以上になります。明日はジパングさんの投稿になります。
■ジパング
こんばんは、ジパングです。
私たちは他人とコミュニケーションとりながら生活を行なっています。現代社会で誰ともコミュニケーションを取らずに生きていくことは不可能に近いでしょう。しかしそのコミュニケーションが必ずしも中身のある物であるとは限りません。私たちはある程度関係を築いた者同士で内輪ネタや内輪ノリという物を形成します。これはリアルにおいてもデジタルにおいても変わりません。内輪ネタなどの定型句はコミュニケーションを取る上で非常に楽なものですが、それは思考の放棄と自己の喪失でもあります。そのためコミュニケーションの未来は内輪ネタが加速し自己が薄れた世界になるのではないかと考えています。特に最近リアルやデジタルにおいてもこれを感じることがあり。リアルでは「えぐい」「それな」「マジ」、デジタルでは「草」や猛虎弁など皆が皆同じような場面で同じ言葉を発しそしてコミュニケーションを取った気になる。これらは鳴き声に近くそこに自己は存在しない。内輪ネタが加速することによって私たちの自己は薄れていくだろう。コミュニケーションの未来は自己が薄れた表層的なものになるのかもしれない。
本日は以上です。ありがとうございました。
■にしむらもとい
表現研のWSは本日で終了です。
今回は僕ではなく部員の意見をメインに紹介させてもらいました。もしかすると拙い意見だときちんと目を通していただけなかったかもしれません。けれども、こうして拙いなりにオリジナルな意見を作って人前に晒すことができるかというのも、これからのコミュニケーションにとって考慮すべきパラメータであると僕は確信しておりますし、ジェイラボはその自覚を促すために始めたと言っても過言ではありません。その意味で、表現研部員には率先してもっと自分を晒す(表現する)練習を積んで欲しいと思っております。
諸事情によりまとめのお話はnoteにログをあげる際に追加させてもらいます。よろしければそのタイミングでも目を通していただけると幸いです。拙いWSでしたが、お付き合いいただきありがとうございました。
■追記まとめ
投稿次第リンク貼ります。