Feel different! 断章c「モジューリズム(部品化主義)」
"Think difficult!"から接続して、僕自身の考えそのものを、つらつらとまとめてゆく"Feel different!"シリーズ。
なかなかまとまらないものを、キリがないので、いったん今回で無理矢理収束させてみた。無理矢理まとめたので、いつも以上に雑な構成であることはご容赦いただきたい。また、断章形式にしているので、今後抜けている部分は探し出しつつまた埋めていきたいと思う。なお、今回は、多くの内容を公開していない。僕自身に興味のない方に読んでいただいて意味のある内容ではないからだ。僕の動画や、noteの他記事などを読んで興味を持たれた方だけに読んでいただければ、それで良い。価格はテキストの質ではなく毎回文字数で機械的に設定しているが、今回は特に価格相応以上にオリジナリティのある、他では絶対に読めない記事であることは保証する。しかし、皆さんの人生に役に立つであろうことは、全く保証しない。
◆断章c◆モジューリズム(部品化主義)
- 科学は仮説
我々人類にとって神とは何だろうか。
難しい定義はやめよう。要するに、人智を超えた存在、すなわち人類の外部存在である。
科学というのは、現代社会において圧倒的な万能性を持っている。全能性を感じている人すらいるだろう。しかし、科学とは本来的に人間に認知できる事実を説明するための仮説形成の手続きであり、いま現在科学で説明できているものは、全て「たまたま破れていない」だけの仮説である。
もし、人類がこれから何世紀も生き延びることがあったとしたら、その時には「科学」なんてものはオカルト扱いされている可能性もある。
- 宗教は救わない
科学の文脈では認知の外部を扱わないため、明示的な神は存在しないが、宗教においては、神は明確に定義を持つ。だから、宗教の文脈では神は存在する。しかし、宗教における神は、原則として、信仰なきものを救わない。ゆえに、自由選択的に帰依する宗教というのは、人類全体を対称性を保って救うことはない。
- 新たな神が求められている
だから、新しい神が必要なのだ。人類全てを「対称」に扱う神が。
繰り返すが、対称というのがポイントで、平等では駄目なのだ。
その場の平等より人類全体の対称性を取る。
そんなことは、おそらく通常の人間にはできない。人類全体を対象とした演算が、そもそも人間個人では到底できないだろうし、仮に演算ができたとしても、目の前の平等性を犠牲にして人類全体の対称性を優先することも、感情的な意味で、きっとできない。
だから外部存在に頼ることになるだろうと、僕は考えている。
こんな話、さすがにぶっ飛びすぎているだろうか。ともかく、依存性を発揮せず、ただ人類全体を管理するもの、それが発明された時、人類は次の世紀へ進むはずだと感じている。
- 「真に立つ」とは何か
さて、ようやくではあるが、本題に入ろう。いま目の前の現実を目の当たりにしながらどうすればよいのかという話だ。
まず、「真に立つ」という言葉の定義を明確にしておこう。
「真に」というのは、何だろうか。
こんなもの、定義によって意味が揺らぐに決まっている。だから、僕なりの定義をしておく。僕にとっては「真に」とは「永遠に」というのと同義である。つまり、「永遠に変わることがないという強い信念を持って」とでも言い換えることができる。
「立つ」というのは、何だろうか。
これも、独自に定義をしておこう。「自分一人だけで責任を持って物事を決断する」と言い換えておこう。
そうすると、「真に立つ」とは「永遠に変わることがないという強い信念を持って、自分一人だけで責任を持って物事を決断する」というほどの意味になる。しかし、具体的にはなったが、長すぎてこれはこれでわかりにくい。なので、意味の揺らぎをある程度封じた上で、タイトル通り「真に立つ」という響きのシンプルさを採用する。
- The Ruler Rules
各々一人一人が自覚を持つしか、システムを転覆する方法はない。それはそうなのだが、では、どんな自覚を持てば良いのか。真に、未来永劫システム依存を自動的に拒否するような、そんな自覚の持ち方とは何なのだろうか。
既に答は述べている。
単純な話だ。人間が人間を支配するシステムを否定すればよい。
現代において否定すべきシステム、それは端的に表現するなら、「お金」ということになる。これはまさに人間が人間を支配する構造を作り出すのに適している。
敢えて、問題を明確化して言い方を変えるなら、金融主義とでも言えるかもしれない。表面的なシステムとしては、金融システムがいまの社会のほぼ全てを管理している。僕が言いたいのは、一部の金融家が世界の全てを握っているというような、つまり、誰々がこの世界の黒幕なのだということを煽る陰謀論ではない。単に、金融というシステムは本質的に全てを管理し得るシステムだという事実だけである。
と言っても、それをどうにかしようと考えたとして、お金で支配されているのに、一生懸命お金を稼いでも、お金でどうにかできるはずはない。お金で買えないものはないなどとよく言うが、確実に一つだけ買えないものはある。そう、お金でお金(というシステム)は買えない。
システム内からシステムには手が出ないので、変えるには新たなカウンターシステムの導入しかないという、カウンターにカウンターを重ねて殴られ続けてどうしようもなくなるという、以前述べた「パンチドランカー仮説」にまで話が戻ってしまう。お金で支配云々というのは、お金そのものが支配ツールということだ。お金と言っても、それは実質「データ」に過ぎないわけだが、そのお金というただのデータによって、我々は見事なまでに従順に飼い慣らされている。お金が嫌いな人を見たことがあるだろうか。少なくとも、僕は、見たことがない。
ゲームにはルールがあり、ルールの決定権を持っている者こそがヘゲモニー、覇権を握っているということになるのだが、では誰がその覇権を握っているかというと、当然、それは我々ではない。
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