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「全体の中の個人」として見る

先日、Photoshopの授業で学生に課題をやらせていた。その時、教卓からは皆のモニターの様子が見えないので、教室の後ろ側にまわってみた。すると、全員が教卓の場所からはモニターが見えないことをいいことに課題をやっていなかった。そして、私が後ろ側に行った瞬間に手を動かし始めたのだ。そんな様子を見た私は、君たちに意思はないんかと、つい言ってしまった。

私はよくスリランカの人に意思とか自分の可能性とか、そういうことを言っているが、最近はそれは若干見当違いだったのかもしれないと思っている。というもの、スリランカは社会主義がベースの国。個人の意思とか自由よりも、家族とか村とか社会といった「私達」の価値観が強いからだ。

私が急にそんなことに気付いたのは、クレア・ビショップの「人工地獄」にある第5章の社会主義体制下の参加型アートを読んだからだろう。

旧ソビエトでは西洋の参加の公共圏の立脚ではなく、個人主義を築く足場としてパフォーマンスがあった。

クレア・ビショップ「人工地獄」

特に上記の記述がとても興味深く、私自身もスリランカの人が作るパフォーマンスやアートを個人のものとして見てた。しかし、それは視点として若干異なっていて、スリランカの人は「私達」の中で個人を築く足場としてパフォーマンスがあるのかもしれない。つまり、個人が全体を巻き込むのではなく、全体の中の個人が自由とか意思などを認識する手段としてパフォーマンスや表現があるのだろう。

私はこの事実に気付いて、つい痺れてしまった。今まで自分が、全く違う方向から見ていたことにも気付いたのも勿論だが、「全体の中の個人」という別の視点を獲得したことで、「君らの意見はないんか」と言っていた私とスリランカ学生の違いも分かった気がした。
彼らが課題をやらない理由なんて、究極は存在してない。何故なら皆やってないのだから。休み時間に皆でクリケットをして、授業時間に遅れてしまったとしても理由なんてない。何故なら皆遅れてるのだから。
すごいバカみたいに聞こえてしまうけど、これが本当に現実なのかもしれないと、すごく腑に落ちたのだ。

別の話だが、スリランカではお金持ちの家はお手伝いさんを雇うことがある。その理由も面白くて「私たちはお金を持っているのだから、お手伝いさんを雇うことでお金がない人の雇用を増やし、結果として彼らを助けることが出来るから」なのだ。
そこは日本人的な考えなら、生活に必要か必要でないかで判断する所だが、そうではない別の判断軸がスリランカには存在することが面白い。ついでにそれに付随して、お手伝いさんのいるようなお家では家主は掃除等をしてはいけないらしい。これもお手伝いさんの仕事を家主がやってしまうことで、お手伝いさんの仕事を奪ってしまうことになるからとのこと。

社会主義というものは皆が国家の一員であって、存在している時点で既に「参加」させられているような状態だ。だからこそ、「私たち」のために動くこと、考えることがごく普通の考え方になる。逆に西洋においては「参加すること」と「参加しないこと」のそのものを選べるからこそ、そもそもの考え方も変わってくるのだろう。
しかし、これも「社会主義」という言葉で言い当ててしまっているだけで、遠い国のことにように感じるが、実際は日本の田舎の集落のシステムとあまり変わらないようにも思う。

いやはや、私は本当にこのことに気付けて良かった。そう何度も思うぐらいに私は嬉しい。これからスリランカにいれる約1年の間で、いかに「個人」というものが全体の中で立ち上がっていくのか、興味深く観察していきたい。

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にしはる
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