彼女はシークヮーサーの味だった【1/5】
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2006年、世間がいろいろと騒がしかった時のことだ。
はっきり言って東京から沖縄までなんて飛行機に乗ればひとっ飛びだ……と、そう思っていたがそうでもなかった。
なんと2時間半もかかるというじゃないか。
「のぞみ」で新大阪まで行くときと同じだ……大阪へは何度も出張で出向いたことがあったが、沖縄に行くのはこれがはじめてだ。
なぜ、沖縄なのかと聞かれたら……特に理由はない。
多分、数日後……いや、最短で明日だろうか?
誰もがそう考えるだろう。
なぜ、よりによって沖縄なのか?
妻は頭を捻るだろう。
両親だって、多分いろいろ考えるに違いない。
娘はまだ3つだが……大きくなって、ひとりでものを考えられるようになったときに、やはり同じようにいろいろと想像を巡らせるだろう。
会社の人間だってそうだ。
会社以外の世間だって……マスコミも、司法当局者もきっとあらぬことを考え、それに関しては様々な憶測が飛び交うに違いない。
まあ、勝手に考えろ、だ。
みんながいろんなことを考えて、おれが何故、死に場所を沖縄に選んだのかってことに関して、この国中の人間が推測や憶測を巡らしているときには……もうおれはこの世にはいない。
なんで沖縄なのか?
……そうだなあ、敢えて理由を述べるとするなら……あくまで、“敢えて”だよ。
暖ったかそうだからかな。
だいたい、今年の冬は寒すぎた。
毎日毎日コートに包まり、手袋をしてマフラーをぐるぐる巻きにして……かと言って屋内に入れば、まるでむせ返るようにどこもかしこも暖房がガンガンに効いている。
昔からおれは、寒いのが大の苦手なんだ。
人間、寒い状況にいると躰だけじゃなく心まで縮こまってしまう。
なんで俺が巻き込まれることになったあの大騒動がこの国で起こったかといえば……それはかなりの確立で、今年の冬の寒さと関連してるんじゃないだろうか。
寒い気候の中では、人間は自然と背を丸め、分厚いコートの中で躰をすくめ、帽子やマフラーで視界を狭めて……自然と自分の身の回りを広く見回すことができるような、そんな余裕を失ってしまうものだ。
気候が寒く、風が冷たいからといって……それによって人の心まで冷たくなるなんてのはあまりにもバカバカしくて紋切り型すぎる考え方だ。
寒い気候が人の心を荒涼とさせるなら……北海道に住んでいる人間は皆、ツンドラのように冷たくて狭い心の持ち主、ということになってしまう。
ああ、そういえば……沖縄と同じく、おれは北海道にすら行ったことがない。
北海道はいろいろと食い物が旨いらしい。
あの社長がそう言ってたっけ。
伝え聞くとこによるとジンギスカンの焼肉が美味しいという。
さんざっぱらラム肉を腹に詰め込んだあとに、その漬け汁にジャスミン茶を入れて啜る……これがまた最高らしい。
想像もつかない味だが。
それに……今は冬だ。冬にはいろんな魚介類が旨いらしい……カニに鮭にホッケ、ウニにイクラ……やっぱり、死に場所は北海道にしとくべきだったかな?
いやいや、俺は寒いのが苦手だ。
北海道の食道楽は今度にしよう……あ、いけない。
無いんだっけ、“今度”は。
それに引き換え……沖縄にはどんな美味いものがあるんだろうか?
知っている限りでは、ゴーヤチャンプルーソーにメンチャンプルーにソーキそば、ミミガーやらハナガーやら何やらかんやら。
北海道に比べると、個人的には北海道ほど胸躍るものはないが、何と言ってもそういう食い物を沖縄特産のオリオンビールで流し込むと最高という噂だ。
これもあの社長が言っていた。
それに……おれは酒が大好きだ。沖縄といえばやっぱり、泡盛だろ?
焼酎は何でも好きだが、泡盛……特に古酒(クース)をシャキシャキに削った氷で一杯やると、ほかの焼酎が飲めなくなるとか。
それにあわせてアンダンスーという油みそをツマミにするのが最高だって話だな……あの社長が言うには。
いかん、飛行機の中からしてすでに腹が減ってきた。
さっき味の無いサービスのサンドイッチを食べたばかりだというのに。
飛行機の狭いシートの中で身をよじりながら……不思議なことに心はウキウキと高鳴っていることに気付いた。
ああ、早く沖縄に着かないかなあ……などと、気分はまるで遠足に向かう小学生だ。
いや、これは確かに遠足に近い旅行だった。
大人になってからこっち……つまり、お金を貰って働くようになってからこっち、日本中の様々な場所に出かけた。
ほとんどは仕事の出張でだが。
その中に沖縄と北海道は含まれていなかった。
だいたい、出張で出向く地方遠征ほどつまらなく、人生を何か空しいものに思わせしめるものはない。
日本国中、どこに出向こうと一緒だ。
着いたとたんに仕事に追われ、得意先を回り、夜は日本国中どこにでもあるような飲み屋での接待。
こっちが接待する立場であろうが、逆に接待を受ける立場であろうがそれは変わらない。
ぬるいビールに、ぬるい水割り。
乾燥したおつまみに、これまた全国どこに行ってもまるで全国的なマニュアルに基づいて提供されているかのようなキャバ嬢たちの相槌と微笑み。
……何もかもが終わったときには、すでに時間は深夜2時を回っている。
死んだような躰をタクシーに押し込み、そのままホテルへ。
そして狭いバスルームでシャワーを浴びて、法外な値段の備えつきのビールちびちびやりながら、備え付けのテレビで有料放送を見る……
いつの間にか眠りに落ちていて、目が覚めるとベッドサイドには四分の1ほど残った缶ビールが時計や眼鏡と一緒に並んでいる……
すっかり気が抜けて人肌にぬるくなった小便色の液体。
たまの休みに……そう、まだ娘が産まれていない頃は、よく妻とも旅行をした。
妻は飛行機が苦手なので、海外にはあまり出向いたことはない。
だから主に移動は車か、もしくは電車だった。
二人では温泉や山の上のホテルによく出かけた……全国のいたるところにある、温泉と山のホテルに。
最近は下手な海外旅行よりも豪勢な国内旅行のほうが出費が嵩む。いい宿を取り、いい食事をすれば……それなりの大名旅行だ。
無論、おれは稼いでいたのでおれたち夫婦には有り余るほど金があった。
さっきも言ったように、おれはかなりの食道楽だ……あの社長ほどではないが。或いは妻は、あの社長以上に食道楽だ。おいしいものに目がない。
そんなわけで、おれたち夫婦は似合いの夫婦だったといえる。
おれたちは全国津々浦々に出かけては、山海の珍味に舌鼓を打った。
伊勢に出かけては生牡蠣をたらふく食べて、浜名湖に出かけてはたっぷりと脂の乗ったうなぎを腹に詰め込んだ。
京都の料亭では味は薄いが値段だけは張る料理を味わった。
ごちそうを前にして、二人で食事をしているとき……おれたち夫婦はこのうえなく幸せだった。
しかしおれは、妻との旅行すら心から楽しんだことはない。
どんな場所に居ても……おれの携帯電話の電源は切られることがなかった。
おれはここ数年……いや、十数年か?……携帯電話の電源をオフにしたことがほとんどない。
おれに連絡がつかないことによって、東京で右往左往せざるを得ない人々のことを考えると、おれは恐ろしくて携帯電話の電源を切ることができなかった。
おれは連絡を絶やすことの出来ない人間だった。
携帯に掛ってくる電話には、どんなことがあっても出なければならないし、電話を通して様々な指示を与え、どこに居ようと物事が滞りなく進行するよう、的確に采配を振るわねばならない。
よって……そんな訳でおれは、いつの間にか携帯の電波が届かない、切らなければならない可能性がある場所には出向かないようになっていた。
地下の喫茶店でコーヒーを飲むことは無いし、映画館やコンサートや美術館にも行かない。当然、演劇を鑑賞したりもしない。
最後に映画を観たのはいったいいつだっけ……?
最後に観た映画のタイトルは?
確か、ビートたけしが出ているヤクザ映画だったか。
映画の中でたけしは、東京のヤクザを演じていた。
何らかの事情で……確か抗争かなんかだったが、沖縄に行くことになる。
そして事情はよくわからないが、映画の中のたけしの手下は、次々に殺されていく。で……どういう事情だったかはこれもまたよく覚えていないのだが、たけしは離島に匿われる。その後、延々とたけしが青い空と真っ白な白浜で、花火をしたりフリスビーを標的にしてピストルを撃ったりするような退屈なシーンが続く………確か、おれはそのあたりで寝てしまった。
あの日、突然目が覚めたのは、画面の中でたけしがピストルで頭をぶち抜いて自殺したからだった。
画面を見ると……たけしは青い軽自動車の中で頭から血を噴いていた。
なんとなくそんなことを思い出していて……ふと気付いた。
そうか、おれが自殺の場所として沖縄を選んだのは、あのたけしの映画が頭の隅に記憶として刻み付けられていたからかもしれない。
とにかくおれが……携帯が鳴り出すことを気にすることなく、映画を観たのはあれが最後だった。
あれ以来……おれは一本の映画も観ていないし、演劇にもコンサートにも美術館にも行ったことはない。
しかし……今の俺にそんな心配はない。
何故なら飛行機に乗る少し前……空港のゴミ箱に携帯電話を捨ててきたからだ。
一緒にノートパソコンも捨てた。
携帯とパソコンが手元にある限り、おれはどこに居ても会社に居るときと同様に仕事をすることができたが……今はもう、そんな必要はない。
空港の清掃担当者は、パソコンと携帯の処理に往生するだろうなあ……。
そんなことを考えていると、いつの間にか飛行機は那覇空港に着陸した。
思ったより2時間半は短い。
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やはり思っていたより沖縄は暖かい。
そう思っていつも東京で着ていた中綿のコートではなく、少し薄めの綿のレインコートを着てんだが、やはりゲートを潜るなりさっそく汗ばんできた。
周りを見回すと、ほとんどの乗客の男性はジャケット一丁だった。
中にはジャケットを小脇に抱えてシャツ一の人も居る。
女性と言えばみなカーディガンやパーカーや、もしくは薄手のセーター一枚。
彼、彼女らがもともと沖縄の人間で、故郷に帰ってきたところなのか、もしくはおれと同じように東京から沖縄に着たばかりなのかは判別つきかねた。
心なし、顔の造作の彫が深く、眉毛や唇がしっかりしてるタイプの人は……ともすれば沖縄出身者なのだろう。
いや、必ずしもそうと言い切れる訳ではないだろうけど。
とにかく人に覚えてもらうのには苦労しがちな薄い顔立ちで、レインコートを着込んで汗ばみながら空港内を歩くおれはどこからどう見ても旅行者cだったに違いない。
実際のところ、おれは旅行者なんだろうか?
そうであるとも言えるし、そうではないとも言える。
ちょっとセンチメンタルにものを考えるのであれば、おれはこれから住み慣れたこの世界から別の世界へ旅立とうとしている旅行者だ。
実際、死んでしまってから自分の魂がどんなところへ行くのか……というか、そもそも旅立つ先なんていうものがあるのかどうか……はっきり言って見当もつかないし、その結果に関しては期待もしていない。
しかしまあ……とにかく誰に邪魔されることもなくここまで来ることができたということは、とにかくおれは自分がそれから少しでも逃れたがっている何かからの逃走の、第一段階をクリアしたということだ。
うん、ここまでは大変結構。
ともすれば、あのまま東京に残って、自らの運命と向き合い、それと正面から闘争すべきだったのかも知れない。
妻も子も、家も両親も居るんだし……
社会的・法的・倫理的・道徳的・同義的、ありとあらゆる理性的基準を総動員するまでもなく……おれがこんなにして沖縄くんだりまで逃げてきたことはどうしようもなく卑怯で、恥ずべきことなのかも知れない。
いやいや……この陽気の中だ。
この暖かさの中では、とてもまともにもの考えることはできない。
おれはコートを脱いで小脇に抱えると……適当なコインロッカーがないかを探した。
幸運なことにコインロッカーはいたるところにあった。
料金も東京と同じ。うん、悪くない。
コートをサッカーボール大に丸めて、ロッカーの中に放り込み、鍵をかける。チャリン、という音とともに小銭が機械の奥底に飲み込まれていった。
おれはポケットに鍵を仕舞いながら、ロッカーの扉に張られた注意書きを読んでいた。
“万が一、鍵を紛失された場合は、実費10,000円を頂きます”
はあ。この鍵が10,000円?
……笑わせるよな、実際。
それこそ鍵を失くしたら自殺したくなるだろうな。
「………てか、あたし、今どこにいるかあんたわかる?」
突然背後から女の声がして、おれはその方向に振り向いた。
ロビーのド真ん中に立ち、行きかう人々の通行をこれ見よがしに邪魔しながら、ひとりの背の低い痩せた女が立っている。
その女がおれと同じ旅行者であることは明らかだった。
何故ならその女は、自分の背丈以上にでっかく見えるボアつきのカーキ色の防寒コートを、まるで死んだ犬みたいに抱えていたからだ。
「……ちょっと、切んないでよ。ねえ、ねえったら。……あたしが今、どこに居るか気になんないわけ?」女はかみ締めた唇をさらきつく……食いちぎるように噛んだ。「……実家? ……なわけないじゃん。ってか、あんた、あたしの実家にすら連絡してないわけ? ……え? ユウコん家? ……バーカ!バーカ!バーーーーーーーーーカ!!!……なんであたしがユウコん家なんか行かなきゃなんないんだよ? バッカじゃねーの? ……ってか、あんた今ひょっとして、ユウコん家に居るんじゃないの? ねえ、そうでしょ? ……え、まさか、マジでそうなわけ? ……って、あんた、ユウコともそういう仲だったわけ? ……え、ちょっと、誤魔化すなよ、ねえ、ちょっと、何ヘラヘラ笑ってんのよ……ねえ、まさか、そこにホントにユウコ居るわけ? ……ちょっとユウコに代わってよ。ねえ、ホラユウコ電話に出しなってば………ねえユウコ、聞こえてんでしょ? ……何か言えよ!! ホラっ!!!」
はじめその女を人目見たときは……沖縄にやってきた家族連れの一人娘が空港ではぐれてしまったのかと思った。
そんな風に思えるくらい、その女はチビで頼りない体つきをしている。
色褪せたダメージジーンズに、薄手の黒セーター。
あまり化粧っけのない顔に……長い直毛の黒髪。
それなりに気を使えば美しい髪なんだろうに、それをえらく乱暴に、かつてきとうに後で束ねている。
まるで自分で自分の髪をいじめているようだった。
女の顔はこの陽気の中で少し青ざめて見える……もともと肌が白いんだろうが、多分電話口の向こうの相手に対する怒りが、彼女からますます気色を奪っているのだろう。
しかしそれにしても……いくら旅先とは言え、女の人目を憚らない興奮ぶりはかなり滑稽だった。
おれはしばらくロッカーの前でその女を観察していた。
「……やっぱそうなわけ? そこに居るんだユウコ?……ってか、やっぱ、そこユウコん家なんでしょ? ……え? おかしい? おかしいのはアンタでしょうが!!……だいたいアンタ、どうなってる訳? ……アタシの友達、ほとんど全員食いまくりじゃん!! なんなの? あたしは? あたしはあんたにとって仲介人かなんか? ……ちょっと待ちなよ、何ヘラヘラ笑ってんだよ……って、何? え? もしかして、あんた、ミユキともヤってたわけ? ………え、マジ? あたしと付き合う前から? ………って………それじゃ何よ? あたしはミユキにあんた、押し付けられてたってわけ?………えええええ? ってそれ、マジかよ!……どーなってんの? 時系列で話せよ時系列で!!!!」
女は小脇に抱えた死んだ犬のようなコートをぶんぶんと振り回す。
気がつくとおれ以外にも彼女を遠巻きに眺めている人間が、少なくとも20人は居るようだった。
……沖縄についたばかりで、この土地の人間の人柄や恋愛感というものがどういうものかというのは想像がつきかねるが、それにしてもこの女の一連の大騒ぎは沖縄の人間から見ても相当面白い見世物らしい
別に彼女を見ている人々が全員沖縄の人間とは限らないが。
「……このけだものっ! 色魔! スケベ! 変態っ!……一体なに考えてんの? なに考えて生きてんだよっ!! ……ああそうですか。あたしは確かにユウコよりもおっぱい小さいよ。ミユキよりも小さいよ。あんた巨乳スキだもんねえ……で、たまには、ってんであたしみたいな貧乳にも手出して見た、と。そういう訳? ……ねえねえ、知ってる? おっぱいスキな男ってみんな、マザコンなんだよ。そう、あんた今だから言うけどさ、マザコンそのものじゃん? ……いい年してお母さんに部屋代払ってもらってんでしょ? ええ? あたしがあげたジャケット、一回も着てくれたことないじゃん……で、『何で着てくんないの?』ってあたしが聞いたら、『おふくろが似合わないって言うんだよ』ってあんた言ったよね? ……あーっはっはっはっは!! このマザコンっ! あんたなんかマザコンじゃん。ああもう、ユウコ聞いてる? ……そこで聞いてんでしょ? ……ねえ、あんたの男、マザコンだから。あんたも気をつけたほうがいいよ?… …ねえ、もしもし? ユウコちゃーん? 聞いてますかあ?」
おっぱいが大きい女が好きな男はマザコン?
そうなのか? ……おれは思った。それは初耳だ。
そういえばおれも、胸の大きな女が好きだ。
妻の胸は……子供を産むまで、結構大きかった。
そういう女を好むおれは、やっぱりマザコンなのかも知れない。
おれは改めて女の胸を見た……うん、確かに情けないくらい乳がない。
「……そんなわけでね、あたしが今どこに居るかわかる? ……ううん、あんたの想像もつかないとこだよ。この世の果て。プエルトリコかも知れないし、ボラボラ島かもね。ひょっとすると、××駅のホームかもよ? ……まあいいや。あたし、これから何するかわかる? ………知りたくない? ……あんたのしたこと、ぜーんぶ書いたノート持ってんだ。あたし」ここで女はニヤーーーーっと……気持の悪い笑みを浮かべた。「……これを枕元に置いてえ……すっげーやり方で自殺してやっから。写真週刊誌にあたしの死体写真載るくらいに。うん、袋とじになるくらいやったるからね。そうすると、どーなると思う………? あたしの遺書が出版社の目に留まって、出版されて、あんたのやったことが全国に知れ渡るってわけ。あっはっは! ……楽しいでしょ? あんたは可愛いそうな女の子弄んでボロ雑巾にして捨てた鬼畜として、全国にその名を知られるわけ。あっはっは。ざまーないね、まったく。ねえ、楽しみでしょ? ………えっ? ……ちょっと? ……もしもし? ……もしもーーーーし!! ねえ、切ったの? ねえったら? もしもし、もしもーーーし!!」
おれだって多分、電話を切るだろう。
あの女の彼氏は相当、やさしい男に違いない。
おれだったら多分、あの三分の一も話を聞かずに電話を切り、電話の電源をオフにしてそのまま電話番号を換えるかも知れない。
女はしばらく青白い顔のままその場に立ち尽くしていた。
泣くでもないし、新たに電話をかけなおすわけでもない。
しかし女は……そのままジーンズに包まれた固そうな小さな尻をぷりぷりさせながら空港のゴミ箱まで歩み寄ると、携帯電話をそのままそこに投げ捨てた。
途端に、おれの中で女に対する親近感が5倍増しになる。
そのまま女の小さな尻を見ていると……何と女はこっちに向かって歩いて振り向いた。
思わずロッカーのドアに背をつけてしまう。
女は一直線にロッカーまで歩いてきた。
正直な話……おれは殴られるのではないかと思って見構えたほどだ。
しかし女はおれがコートを仕舞ったロッカーの2つ隣のドアを開けると、その死んだ犬のようなコートを放り込み、足で押し込んだ。
おれはコートのことを気の毒に思いながら、さらに女に対する親近感を8倍増しさせていた。
と、女がおれの視線に気付いて顔を上げた。
一重瞼の釣り目が、見事に逆八の字に釣りあがっている。
「なに見てんだよ?!」
女は言った。
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