妹 の 恋 人 【19/30】
なんでそうなったのか、記憶が定かではない。
そのときのわたしがどういうつもりだったのか、今となってはまったくわからない。
大学の授業が終わった後、わたしは“なめくじ男”……南野と大学近くの居酒屋で飲んだ.
……そして、それほど飲めるわけでもないお酒を、かなりのピッチで飲んで、目の前の人間ナメクジのような男……南野に、いろんなことを喋った。
何をしゃべったのかは、はっきり覚えていない。
でも、ほぼ初対面だったわたしと南野に共通の話題なんてまったくないはずだから……
わたしは一方的に、自分のことをしゃべりまくったんだと思う。
たぶんわたしは、心の中に溜まった鬱積を、発散できるチャンスを求めていたのだろう。
とにかくしゃべった……ひょっとしたら内藤のことや江田島のことも、喋っちゃったかも知れない。
ぷつり、と居酒屋で意識が途切れたのは覚えている。
気がつくとわたしはひどく酔っ払って、見知らぬ部屋に居た。
据えた匂いが鼻をつく……この匂いには覚えがある。
内藤の匂いか……もしくは江田島の匂い…………いや、そこまで古い記憶を辿らなくていい。
ついさっきまで、同じ匂いを嗅いだんだっけ。
それは生き物の匂いで、分泌物の匂いだ。
それに強い湿気の匂い。
誰にとっても……もちろんわたしにとっても不快な匂いには違いがない。
しかしそれは、わたしにとっては懐かしい匂いだった。
この部屋はそんな匂いに満ちている。
……まるでこの部屋は、その住人の体内だった。
そしてわたしは、そこで酔いつぶれているようだ。
部屋は本で埋め尽くされていた。
なぜかわたしはビニールシートの上に寝かされている。
……その四方にびっしりと積み上げられたらせん状の本の山は、天井にまで届きそうだ。
わたしは何か……台風の目の中にでも居る気分になった。
見上げている汚れた天井が、ぐるぐると回っていることもあって。
ええっと……わたしは何でこんなところに居るんだっけ?
……で、なんでビニールシートの上に寝てるんだっけ?
そうだ、お酒を飲んだんだ。
久しぶりに人とたくさん話して、たくさんお酒を飲んだ。
普段のわたしなら絶対にしないことだ。
他人に心を開いて話をするなんて。
で……わたしは誰に心を開いて、誰とお酒を飲んだんだっけ?
そして、今誰の部屋に居るんだっけ……?
なにか、ぬるいお湯にでも漬かっている気分だった。
部屋を満たしていたその匂いが、不意にふっと強くなった。
丸い顔がわたしの視界に入ってくる。
それがわたしの顔を覗き込んでいる。
汗が一滴、わたしの額に落ちた。
「……め……め……目がさめた?」
誰だろう……というか、何だろう、この顔は。
とても人間の顔とは思えない。
たるんだ肉の固まりのところどころにできた皺が、かろうじて目や鼻や口を形作っていて……
まるで裏返された禍々しい軟体動物の体内のようだ。
思わず、わたしは顔を背けた。
そうだ、思い出した……
この巨大ナメクジの名前は南野……フランス語の授業のあと、わたしに話し掛けてきた男だ。
一体なんでまたわたしは、こんな男に心を開いたの?
しかもこんなに酔っ払って、この男の部屋に居るなんて……とても信じられない。
信じられないことはまだあった。
南野は上半身裸で、その大汗でぬめる白い脂肪の塊のような身体を、わたしの体の上に乗っけていた。
わたしはブラウスの前を大きく開かれていた……なんと、それだけじゃない。
スカートも脱がされているじゃないか。
わたしの素肌に、南野の素肌が触れていた……ほんとうに巨大なナメクジが体の上を這っているようだった。
というか、巨大なナメクジの肌の下を、わたしが這っているのか。
全身に鳥肌が立って、一気に酔いが覚めた。
「な、な……何やってんだよっ!!」
わたしは思わず野太い声を出した。
「…………え?」南野が「……な…………な…………何って………?…」
「どいてよっ! …………てか、どけっ!」
わたしは南野の体を押しのけようと手を突き出した。
南野の胸の上で、自分の掌がぬるり、と滑った。
思わずはっとして自分の掌を見る。
てのひらに、白く濁った粘液のうすい層ができていた。
もちろん、ぞっとする……その感触があまりにリアルだったので。
おかしい、いくらなんでも、こんな事は絶対にありえない。
それは……人間の汗ではなかった。
それよりずっと比重が重く、粘性も高く、ぬめりが強い。
しかも白濁している。
わたしは怖くなった。
この男、わたしの第一印象どおりに、ほんとに大きなナメクジなのではないか、と思ったからだ。
別にありえない事ではないだろう。
このわたしが、いくら酔っていたとはいえ、こんな男の部屋に足を踏み入れて、こんな格好で、こんなことをさせていたのだから。
翌朝、東の空から太陽が三つ昇ってきてもふしぎではない。
「な、なに……これっ?」
「ああ……こ、これですか……ホラ、ろ、ローションですよ…………」
「なっ……な……ロ、ローション?」
「ホ、ホラ、た……貴子さん…………ロ……ローションが好きなんですよね?」
そう言って南野は、液状人工甘味料のプラスチック瓶のようなものを、わたしの目の前に突き出した。
瓶の中には白く濁った半透明の液体が四分の一ほど残っている。
「こ……こ……この、ヌルヌルしたやつを……ぜ……全身に塗られると…………す……す、すごく燃えちゃうんですよね?」
「は、はああっ? ……な、なにそれ? ……頭おかしいんじゃないの?」
わたしはどっしりと重くのしかかって来る南野の巨体を必死で押し返そうとしたが……
粘液によって、空しくその手は奴の体の上で滑り続けた。
「どいてよっ!……どいてったらっ!」
「だ、だって……こ…………この本に…………そう書いてあるんですよ……」
南野は薄いグリーンのハードカバーを手に取った。
見覚えのある本だった。
表紙には、淡い色調で描かれた双子の少女のイラスト。
……虫唾が走るほど、感傷的でセンチメンタルな装丁だ。
それは、わたしにとって……わたしと、咲子にとって、この世で最悪の本。
わたしも、おそらく咲子も、その本を一ページも読んだことがない。
しかし内容は知っていた。
繊細で社会に溶け込めないなひきこもりの青年と、その隣家に住む双子姉妹との濃厚な性愛の物語。
吐き気のするその本のタイトルは………………『双子どんぶり』。
言うまでもないが……作者は江田島だった。
「……な……な、何で? 何であんたがそんな本持ってんのっ……?」
「だ……だって……べ……べ……ベストセラーになった……じゃないですか」
「で、でも……だって」不意に、南野が巨体をさらに押し付けてくる「あっ!!」
まるで粘液と脂肪の海の中で溺れているようだ。
「こ、この……この……本を読んで……から……ぼ……僕の人生は……か……変わったんです」南野はそう言いながら、わたしの身体の上でセイウチのようにぬるぬると這い続けた。「ぼ……僕はその……そ、その……ひ、引きこもりだったんです……ちゅ……中学時代に……ひ……酷く……いじめられてから…………し……仕方な……ない……と思います……だ……だって…………僕は……こんな外見ですから。ぼ、僕の人生は……それまで真っ暗闇でした…………で……でも、本屋でこの本に出会ってから……は……はじめて……じ……人生に……き、希望を持つことができたんです……ぼ……僕は……この本が……作り話だとは…………とても思えませんでした……本を……く……繰り返し……繰り返し…………そうですね……に……二百回くらい繰り返して読み返しました……こ……この本を……か……書かれた……え……江田島先生の……ことも……し……調べました」
南野はわたしの身体を押さえつけたまま両手を使い、まるで十匹の太短いナメクジのような指で(しつこいようだが、ほんとなんだってば)……粘液をわたしの胸の上、お腹の上、太ももに塗り広げる。
内腿に、脇腹に、首筋に塗り広げる。
わたしはなんとかそれから逃れようと身体をくねらせた。
が、推定するところ南野の四分の一の体重のわたしに、彼の体を押しのけることはとても不可能だった。
それにこの、いまいましくもおぞましい、白濁色のローションのぬめり。
あと、まだ酔いが残っているせいで自由に動かない身体が、わたしの抵抗をさらに空しいものにしていた。
いったいあの本に、どんなデタラメが書いてあるのかは知らない。
でもそれは、いたく南野の嗜好を刺激したのだろう。
彼が二百回もあの本を読み返しているところを想像した。
彼があの本を読みながら、どんなことを想像したのかを想像した。
彼がどれほどあの本に書かれているでたらめに、あこがれていたのかを想像した。
そして積年の妄想の末、そのモデル……つまり、わたしだ……と向き合っている彼の興奮を想像した。
気がつくと、自分でも信じられないけど……すっかり大人しくなっていた。
頭がぼんやりして、なんとなくすべてが悪い夢のなかの出来事であるかのように思えてきたからだ。
「……や」開いた口に、南野の指が滑り込んでくる。「…………んぐ……」
「え、江田島先生にも……お……お会いしました……い、意外にも……訪ねてきたファンは……ぼ……僕がはじめてだった……ようです……先生は……そ……その、それはそれはものすごく喜ばれて……い、いろんな……話をしてくれました……ぼ……僕が思っていたとおり……この本に書いてあることは全部……ほ……本当にあった出来事だったんですね……た、貴子さんと……い……妹の……さ……咲子さんのことも聞きました……この本に書いてあることと……こ……この本には書かれていないことも……い……いろいろ聞かせていただきました…………」
「……そ、そんなのっ……」朦朧としながら、なんとかわたしは南野の指を吐き出し、睨み付けた。「ぜ……ぜんぶ、ウソだってばっ! ……ば、バカじゃないっ…………?」
「ぼ、僕も……ほ、ほんとうか……か、確信は持てなかったんです……た……た……貴子さんと、さ……咲子さんの存在を……か……確認するまでは…………」
「……ん、あっ?」
ブラジャーがぬるっ、と上にたくし上げられる。
全身と同様にぬめる南野の唇が、左の乳首に吸い付いてきた。
「や……やだっ! ……ダメだっつってるだろーがっ!」
「し……調べました……し……し……調べ尽くしました……お二人の……所在を……げ、現実にお二人が存在すると……知ったとき……ぼ……僕は……僕は…………」
「んっ」
乳房の先が吸い上げられ、軽く噛まれる。
びくっと、両脚が突っ張った。
「た……貴子さん…………あの……しょ……小説の中では…………た……確か高校一年のときに……学校の……せ……先生にレイプされたんでしたよね? そ、そのときに……そ、そ、その……ロ、ローションを使われて………う……産まれて……は、は、初めて……お、お、お、オルガスムスを迎えたんですよね?」
「……は、はあっ…………?」
南野の唇がわたしの身体を下ってゆく。
乳首から、お臍へ。
そして、そこから下へ。
「そっ……そんなのぜんぶ、ウソなんだってっ! ……あっ! やっ!」
突然、すごい力で身体を裏返される。
わたしはぬめるビニールシートの上に、腹ばいになった。
「……さ、さあ……た……貴子さん……」
「えっ? ……や、やめてってば……えっ! ……な、なにこれっ?」
突然、ふわりと白く細い布があたしの顔の前に現れる。
浴衣の帯か、ネクタイくらいの太さの布だった。
「め、目隠し……ですよ。こ、これも…………す……す……好きなんでしょ?」
「ち、違うって!…………そ、そんなの……ぜ、全部ウソだって言ってるじゃんっ!」視界が完全に奪われた。「こ、こんな……の……あっ…………」
ブラウスがめくり上げられる。
そして、背中に冷たいローションを、どろりと垂らされたみたいだ。
ひやりとした感覚に、思わず飛び上がる。
「ち、ちょっと……お、お願いだから、もうこれ……やめて、よっ…………」
「え……え……遠慮しなくていいんですよ。ほら、本に書いてあるとおりに……か、感じてください。お、思いっきり……こ、声を出していいんですよ……」
背中にぬめぬめと塗り広げられる粘液。
いったいあの本には、どこまでくだらないデタラメが書かれているのだろう?
一体、江田島は、このナメクジ人間に、どんなデマカセを喋ったんだろう?
お尻にも、太ももの裏側にも、脹脛にも塗り広げられる。
何か、マッサージでもされているような、不思議な気分になってきた。
お尻がむずむずした……と、パンツがつるん、と脱がされる。
「ひっ! ……や……いやっ!」
「こ……こ、これ、覚えてますか?」
と、何かが右耳に押し当てられた。
視覚を奪われているので、何なのかわからない。
丸い、プラスチックのカプセルのようなものだった。
「え? な……何っ……て、ま、まさかっ……?」
「こ、これで……さ、されるのが、た……貴子さんは、だ……大好きなんですよね? 本にも……か、書いてました……え、江田島先生も、そう仰ってました……」
不意に耳元で、振動しはじめた。
小さなモーター音がうなりを上げる。
そこではじめてわかった……それがあの、忌わしい、大人のおもちゃだと。
江田島がわたしと、咲子両方に好んで使った、あのチャチなおもちゃの類だと。
「い……いやっ!」
思わずわたしはモーター音から顔を背けた。
しかしそれはしつこくわたしの耳たぶをなぶってくる。
振動が躰全体に伝わってきた。
「ほ……ほら……お、お、思い出してく……ください。一七歳のとき……こ、これで……え……江田島先生に、せ、せ、責められたんですよね?」
どうやら江田島の小説はウソばかりが書いてあるわけではないらしい。
確かに、現実ではあるけれども……
自分が体験した現実のほうが、確かに嘘っぽい、安物のエロ小説みたいなものだったのかのしれない。
でも、わたしは……わたしと咲子は……実際にその世界の中にいた。
そして今また、そこにいる。
誰かと誰かの、妄想のなかに。
「んぐ…………」
カプセルが唇に触れ、そのままそれは口に押し込まれていった。