![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/126381693/rectangle_large_type_2_bc9e429aa980d524d8598c20fb6d6c62.png?width=1200)
先生、この冷たいの何ですか 【1/3】
■
昨年末の話だ。
と、いうことはほんのつい最近のことだが。
「この前さ、すっごい笑える事件があったの知ってる? ……東北の方で殺人事件があってさ……その日は大雪だったんだ。で、雪が積もってて、死体の脇から足跡がずーーっと続いてたんだって。で、警察がそれを辿っていくと、犯人の家まで続いてた(笑)で、犯人は御用になったんだって」
「………」
悠は答えない。さっきからずっと黙ったままだ。
その顔は下から半分以上をマフラーで覆われていて、ほとんど伺うことができないが、帽子とマフラーのわずかな隙間から覗く目が明らかに醒めているのは事実だった。
「怒ってるわけ? ……やっぱり」
「べつに。気になるんですか」
」
悠がマフラーの下から答える。
しばらく新雪を踏みしめるサク、サクという二人の足音だけが続く。
雪は横殴りに降っている……辺りは真っ白で、右も左も上も下もわからないくらいだ。
こういう状況では、たまに『ホワイトアウト』という現象が起きるらしい。
真っ白な銀世界を延々と歩いていると……人間はいったい自分がどこを歩いているのか、どこまで歩けばいいのか、どこまで歩いてきたのか判らなくなって、てんかんのような発作を起こす。
……って感じだったかな。
ちょっとどこかで読んだだけだからそのへんはいい加減だ。
「……寒いね」
おれは沈黙に耐え切れず言った。
「………」
やはり悠は答えない。
仕方がないのでそのまま黙って歩き続けることにした。
サク、サク。
雪の勢いはいっそう強くなっている。
駅までの道はまだまだ長い。
誰もおれ達を追い越してはいかないし、誰ともすれ違わない。
……ここはどこなんだ?
本当に日本なんだろうか?
それとも南極かどこかか。
靴の中では感覚を完全に失った指先が丸まっている。
手袋をしてはいるが、それに収まっているはずの指先もまた、すべての感覚を失っていた。
まるでゆっくりと冷凍されているような気分だ。
悠は相変わらず口を利かない。
赤いニット棒にぐるぐる巻きのマフラー。
分厚い茶色のダッフル・コートに雪道には実用的なスノーブーツ。
小さなその姿を見ていると、まるで小学生のように見える。
俺の方も負けずに着膨れしている。
零下30度まで持ちこたえるという触れ込みの綿入れの防寒ジャケットにウールのズボン……その中にはちゃんとパッチまで履いているが、それでもやっぱり寒いものは寒い。
ちらちらと悠の横顔(と、言ってもほとんどマフラーで見えないが)を伺いながら、新雪をひたすら踏みしめ続ける。
サク、サク。
本当に悠は小学生のようにしか見えない。
しかしこうやっておれと一緒に雪道を歩いている。
振り返れば、おれと悠がつけた足音が、延々と後方に続いている。
それを逆に辿っていけば……ここから2キロほど後方のラブホの出入り口に到着するはずだ。
いや、この雪だから……ラブホから出てすぐにつけてきた足跡はもう消えてる頃だろうか?
多分消えてるだろう。
今、消えていないとしても数分後か小一時間後くらいには確かに。
しかし俺と悠が先に進むたびに、新しい足跡が作られる。
後から後から雪が降り積もり、古い足跡を消していくが、われわれが歩くたびにまた新しい足跡が作られていく……いたちごっこというやつか、これは。
少し違うか。
サク、サク。
「……駅前でなんか食べようか? うどんとかなんか暖かいもんを」俺は悠に言った。「……いい店知ってんだよ。てんぷらが旨くて……」
「お腹は空いてません」
悠がおれの言葉を遮る。
「……ごめん、いや、あの、それならいいんだ」
サク、サク。
「……ああ、もう今年も終わりか……」
おれはつくづく意味のない事を呟いた。
「先生……」悠が出し抜けに呟いた「あの、いいですか、そんな事より」
「……ああ、うん、ええっと……ごめん」
「……前から聞こうと思ってたけど、この際聞いちゃいます。今年ももう終わりだから」
「ああ、ええと……」嫌な予感がした。下痢の兆候みたいな、重苦しい空気だ。「……なに? 聞いてよ、何でも」
「……あの、どうなんです? 先生……ほんとにあたしの事、好きなんですか?」
「……えっ」
いや、予期してはいた。
しかし、それでも冷や汗が出た。
雪が横殴りに降りつけるこの零下の雪道の中、新雪を踏みしめながらも冷や汗が出た。
「どうなんですか?」
悠が聞く。おれの方を見ずに、まっすぐ前方を見ながら。
「……そりゃ、もう……」感覚を失った唇から、また耳カスより軽い言葉が飛び出す「愛してるよ。あったりまえだろ?」
悠の足取りは変わらず、おれの方も見ない。
「……じゃあ、なんで……」悠が同じ調子で言う「……なんであたしに、あんな事ばかりするんですか?」
サク、サク。
おれたちは一直線の新しい足跡を作り続けた。
■
このままただただ前方に歩いていけば、ちゃんと駅に着くはずだった。
しかし吹雪のせいで、前方5メートル先もおぼろげにしか見えない。
太陽はどこに行ってしまったんだろう?
ほんとうに道はこれで合ってるのか?
だんだん自信がなくなってくる。
ちょうど40歩ほどを沈黙のうちに歩いたところで、空耳のように悠の声が聞こえてきた。
「……なんでいつも……」口調も歩調も一本調子のままだ。「……なんでいつも、あたしのこと縛るんですか」
「……え……」心の芯まで凍てつきそうな気温の中、おれの脇の下に汗が滲む。「……いつもって……そんなにいつも縛ってたかなあ……」
「縛るじゃないですか、いつも」悠の声に非難の色はない……ただこの一面の銀世界と同じく、何の色もない「今日だって、縛ったじゃないですか」
「今日は……でも、手首だけじゃないか」
「でも、縛ったじゃないですか。頭の上で」
「……」
いや、確かに縛った。それは事実だ。
しかし……そんなにきつくは縛っていない。
悠も痛がっている素振りは見せなかったし……だいたい使用したのはホテルの部屋に設えられていたバスローブの、タオル地のベルトだ。
痛いはずはないし、跡なんか残る筈もない。
「先生は、好きなんですか? ……縛るのが」
「……えーっと……」
どうなんだろう、実際。
「あれなんですか?……えーっと……M? ………」
「それはマゾだ」
「そっちなんですか?」
「いや……そうじゃないけど……」
いや、そっちもどうなんだろう?
「じゃあSのほうですか」
「……いや、それほど、っていう訳でもないけど……」
どうなんだろう? 実際。
サク、サク。
妙なところで会話が途切れてしまった。
いや、確かに……おれは女の手を縛るのが好きだ。
しかし……“好きだ!”と、言い切れるほど好きなのかといえばそうではないような気がする。
どっちなんだ。どっちかと言えば、好きな方だ。
かといって、縛らなければ興奮しない、という訳でもない。
縛るとさらに、なお一層興奮する……というところか。
「先生は、ああいう風にしないと興奮しないんですか?」
「ええっ……?」
突然、胸元に冷たい手を差し入れられたようだった。
「なんでなんですか?……相手の自由を一時的に剥奪することで、優越感を感じたいからですか?」
「……いや、そんな、そういう難しい問題じゃないんだが……」
そう言われてみると、そうであるような気がする。
悠は読書家で、同年代の女子と比較してみても、語彙の多い子だ。
無言で歩きながらも、おれは何故いつも悠の手首を、後ろ手や万歳の格好で縛るのか……そうすれば何故興奮するのか、その理由を考えていた。
これまで一度もそんなことを真剣に考えたことがなかった……。
“……縛るよ”
2時間ほど前、悠にそう言った時、悠の様子にいつもと違う感じは見られなかった。
というか、いつもどおりの流れだった。
悠は少し顔を高潮させていた……少し不安げで、それと同時にかすかな期待と興奮を伺わせるあのなんとも言えない表情で。
それはいつもどおり、おれをエラく興奮させた。
こういうのを、“エモい”というのかね? 最近は。
まあ世間一般のことはどうでもいい。
少し俯きながら、悠はおれに手首を差し出す。
昔の刑事ドラマで、ベテラン刑事に説得された凶悪犯が自ら進んでお縄に掛かる時のように。
おれはまったくの強制力も、威圧も、横暴も伴うことなく、悠の手を頭の上で重ねると、その細い両手首を頭の上で可能な限り優しく(しかし自力ではなかなか外れないくらいの微妙な強さで)結わえつけた。
完全に、合意のうえで。
“………”
シーツの上に立ち、頭の上に手を結わえ上げられた悠の姿を見下ろす。
悠は少し恥ずかしそうに目を逸らせた。
悠は黒いセーターにベージュのチェックのフレア・スカート……スカートから覗く脚は素足だった。
その前におれは、悠の黒いタイツを脱がせていたから。
悠の脚はか細いが、そのわずかばかりの全身身長の中でそれなりの幅を占めている。
数ヶ月前までは処女だったそのたよりないくらい白い太股には、部屋の暖房によって突然暖められたことよって生じたのだろう、うすく赤い斑点がところどころ浮いていた。
おれの視線を感じたのか、悠が太股をすり合わせる。
“……あんまり……見ないでくださいっ……”
消え入りそうな声で悠が言った。
「……それに……何でいつも先にタイツを先に脱がせるんですか?」
突然、悠がまたあの一定の調子で言ったのでおれは我に返った。
「ええっ?」
「何で、タイツを先に脱がせるんですか?」悠がまるでテープレコーダーのように繰り返す。「……先生は、その、いわゆる脚フェチなんですか?」
「……いや、その……そういうんでも……ないなあ……」
事実、どうなんだろう?
「あの、初めての時は、あたしのタイツ破りましたよね」
「あ……」
そうだった。
そのことははっきり覚えている。
おれはまた、自分の歩いてきた道を振り返った。
延々とふたつの足跡は遥か向こうへと続いているが、吹雪にかき消されてラブホテルは見えない。
サク、サク。