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必 殺 に し き あ な ご 突 き 【1/5】
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19世紀末にイギリスの片田舎に、“ばね足ジャック”と呼ばれる謎の怪人が出没したという。
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あたしもちらっと本で読んだだけだから、あんまり詳しいことは知らない。
“切り裂きジャック”は有名だけど、“ばね足ジャック”なんて、なんだか名前からして冗談みたいだけど、伝えられているお話はもっと冗談みたいだ。
“ばね足ジャック”は、切り裂きジャックのような殺人鬼じゃない。
“ばね足ジャック”は、何人かの女の人を襲い、レイプしようとして失敗した。
こういうと単に煮え切らない痴漢みたいだけど、事実、“ばね足ジャック”のやったこと自体は、その程度のことだった。
しかし問題は、“ばね足ジャック”自身が全く非・現実的な存在で、その正体が今日にいたるまでさっぱり分からないということ。
語り継がれているところによると、“ばね足ジャック”は悪魔のような邪悪な顔(どんな顔だ)にらんらんと輝く目を持ち、頭に角のついた銀色のヘルメットを被っていたらしい。
全身タイツみたいにぴったりしたぴかぴかの青いスーツを着て、黒いマントを羽織っていた。
手には鋭いかぎ爪があり、それで女の人の衣服を引き裂いたという。
そして口から人に蒼白い炎を吐きつけ、警察に追いつめられると数十メートル上の建物の屋根に飛び上がり、ぴょんぴょんと屋根から屋根に飛び移って、そのまま夜の闇に消えた、と語り継がれている。
いくらなんでも、ウソ臭すぎる。
あたしも正直言って、この話はウソだと思う。
しかしウソだとは思うが、ただのウソならばなんでここまでウソくさいウソが語り継がれているのか、その理由がわからない。
おとぎ話や言い伝えには教訓など、それが語り継がれていることには何らかの意味があるけど、この話にはそんなところがまったくない。
ただ単にあり得ない話。
それが今日まで語り継がれていることは実に奇妙だと思う。
あたしの体験したことも、この話に似ている。
少なくともこれまで人並みで平凡な人生だったと思うけど、16歳の時に経験したあの事だけは……自分で体験したことながら、未だに何だったのかよく理解できない。
高校を卒業してから実家を離れて以来、これまで一度もあのことに関して人に話したことはなかった。
わざわざ人に話して聞かせるような話でもないと思ってきたし、ちゃんとしたオチがあるわけでもないし、第一、こんな話を聞かされた人が面白がるとも思えない。
この話には、“ばね足ジャック”の物語と同じく……人に語り聞かせるにしてはあまりにも現実感と意味がなさすぎる。
だから、あたしがこの話をするのは、あなたを楽しませたいからでも、あなたに理解してもらいたからでも、また信じてほしいからでもない。
改めて語ることによって、あたしの中でこの話に関する、何らかの見解が出るかもしれない。
別にそんな見解なんか出す意味はまったくないのだけど、かといってあたしはこのことを忘れることはできない。
あたしの記憶の中で、この話はものすごく収まりが悪く……それがとても不快だから。
まるで、のどに引っかかった魚の小骨や、夏の夜に部屋に飛び込んできた虫の羽音、一体どこで転がり込んだのかわからない靴の中の小石とか……なんかそんな感じ。
だから、この話はあなたにとってはまったく有益ではない。
しかし、あたしにしてみても、軽い思い出話気分でこの話をするわけではない。
実際、16歳だったあたしにとってはものすごく恥ずかしい体験だったので、これを語ることには多少の苦痛と不快感をともなう。
トラウマってほどではないけど……あの事件はあたしの心にしっかりと、四つの痕跡を残していった。
一つめは、満員電車に乗ると、落ち着かなくなってしまったこと。
二つめは、それからというもの、人の噂を簡単に信用しなくなったこと。
三つめは、多分あたしはこれから一生、整体や鍼灸やカイロプラクティスの類は受けないだろうということ。
四つめは、きれいな女の子を見かけると、なんとも言えないもの悲しさを感じるようになったこと。
それだけのことだけど、それだけのことでも、あたしはやっぱりこの話を忘れることができない。
あたしにとっての“ばね足ジャック”の物語は、本家“ばね足ジャック”と同じく……痴漢に纏わるお話だ。
…………あたしが話しにくい理由を、何となく判ってもらえた?
■
痴漢に関して、やたらとその体験談を人に話したがる女の子も居る。
そういう類の女の子にとって痴漢の体験は、昼休みにお弁当のご飯粒を飛ばしながらするような、昨日観たテレビ番組に関する話題とさして変わらなような物事らしい。
当時あたしの親友だった裕子は、いつもそんな感じだった。
「なんかさ、後ろからお尻の間に、グリグリ、グリグリってしてくるわけ。明らかに電車の揺れとは違うリズムで。時々、アクセントつけるみたいに、何拍かおきにズン、って突いてきたりしてさ。ああ、来たなー……、と思ったら、もうなんか、オッサンあたしの耳元あたりで、臭い息ハアハア言わしてるわけ。ああもう、何だかなあ、ってめんどくさくなっちゃってきてさ……ねえ、そんなことない?」
「…………」
一度もそういう経験は無かった。
あたしは痴漢に遭ったことがない。
「……でさ、あたしが大人しくしてたら、『OK!行っとけ!!』みたいな感じになったんかね。オッサン、いきなりスカートの裾、そーーーーっと持ち上げて来んの。なんか、バレないようにしてるつもりなんか、一秒数ミリずつくらい、そーーーーーーーっと。バレバレだっての。ああもう、って思いながら、あたしもそのままじっとしてたら、なんか、いつのまにかお尻あたりまでめくりあげられててさ。こりゃやばいわって思った時には、腰のあたりまで上げられてたのね」
「……恐くないわけ?」
あたしはいつものように、できるだけ動揺を悟られないように話す。
「恐いってんじゃないかな……まあ、たまに本当に調子乗ってくる奴もいて、本気で腹立つこともあるけどさ……そんな時はさすがに暴れるよ。踵で相手の足ガンって踏みつけて、後ろに向かって後頭部で頭突きかますよ。たいていはそれだけでビビって、それ以上は何もしてこなくなるよ。『あんた、それ以上やったら大声出すよ』って態度で示したら、わざわざ大声出さなくてもそれ以上のことはされないよ」
「……4なんで、はじめに大声出さないの?」
「なんか、注目集めるのヤじゃん。向こうは当然、『それだけは勘弁』って感じなんだろけど、朝からめんどくさいことになるのは、あたしだってイヤだしね。あたし、朝弱いし」
「………」
そういう問題じゃない、とあたしは思うけどあえて追求しない。
何と言っても裕子は体験者で、あたしはそれを聞かされて勝手に想像しているだけなのだから。
どんな時も、体験者の言葉は重い。
たとえお昼ご飯を食べながら話す痴漢に話題に関しても。
「で、どこまで話したっけ、あ、そうそう。気がつくと腰のありまでスカート捲られててさ、オッサン、自分の下半身あたしの腰にくっつけて、スカートの裾をそこでガッチリ固定するわけ。なんなんだろうね。そうするのが一種の痴漢の“型”なんかね、そのオッサンにとっての……まあどうでもいいんだけどさ、あたしも『ちょっと勘弁してよ……スカート皺になっちゃうじゃん』とか、暢気なこと考えてたのね。で、そこに至ってもああもう、どうしよっかなあ、頭突きかまそうかなあ、踵で足、踏んづけてやろうかなあ、とかいろいろ思ったんだけど、結局やっぱ、どうでもよくなってきちゃってさ」
「なんで???」
いつもながら、あたしは本気でそう聞かざるをえない。
「……うーん、なんでだろ。そこで大げさに暴れて、平和な朝のひとときの調和、的な? ……のが乱れるのを取るか、黙って触らせて平和を保つのか、どっちかって言ったらダルさが勝って……まあいいや、触らせとけって感じになっちゃうのかなあ……とにかく、あたし、朝弱いし」
「……はあ」
おかしい。何かが根本的におかしい。
「……でさ、オッサン、ますますハアハア荒い息しちゃってさ」“なんで”とか“どうして”よりも、“なにをされたか”をあたしに語って聞かせることが裕子にとっては大事なのだろう「あたしの髪の匂いとか、クンクン嗅いでるわけ。ああもう、何なんだろ、よっぽど溜まってんだろなあ、このおっさんとか思ってたら、いきなり、ぐあしっっ、ってパンツの上からお尻掴まれたわけ。『いてっ』って、さすがにあたしもムカついたけど、まあなんだか、ああいうのってタイミングなんだよね。抵抗する時のタイミングってのが結構大事でさ。たまにそれ逃しちゃうんだよね。そうなると完全に、オッサンのペースなわけ」
「やばいじゃん……」
「ああ、いつも後から思い出すとやばいなあ、って思うんだけどね。でもなんだか、その後のオッサンの触り方がほんとうにヤだったなあ……なんかさ、触られてるっていうか、手のひらをなすりつけてくる感じなのよね。オッサン、ハアハア言ってるの聞こえてくるし、あたしの髪クンクン匂い嗅いでくるし、太股の裏側にはびたったりオッサンの固くなったズボン前が擦り付けられてくるし……。結局それだけだったけど、何だか何分間か、思いっきり楽しまれちゃったって感じ?ホラ、スーパーの前とかによくあるじゃん、10円入れたらグイングイン動く子ども用の乗り物、アレになった気分」
そう言うと裕子は力無くヘラヘラと笑った。
はっきり言って、親友にこんなことを思うのもなんだけど、裕子はあたしよりずっと可愛くない。
スタイルだって、それほど良くない。
あたしより少し背が高くて、脚は長いけれど、あたしの方が脚は細いし形はずっとキレイだと思う。
しかも裕子は、騒いだり抵抗したりで自分の身を守るよりも、面倒くさいから痴漢に身を任せてしまう(って、なんか表現がすごくイヤなのだが)ようなだらけた女だ。
そして、毎度毎度その話をあたしに事細かに語って聞かせる、無神経な女だ。
だいたい、あたしにこんなことを話して、どんな感想を持てというのか。
あたしは意味もなくいらいらしてくる……毎度のことだったが。
「……でも、今日は大丈夫だったけどさ、たまに、ホントーに恐くなってくるくらいのものすごーーい痴漢が居るんだよね。いきなりスカート捲ってパンツ降ろそうとしてきたり、いきなり太股にコンドーム被せたアレくっつけてきたり、後ろから思いっきりガバッと乳掴んできたりとかね」
「………はあ」
ますますご飯がまずくなるような話だ。
「そういうのに遭うと、正直、恐くなるときあるよ。一体コイツ、あたしをどうしたいんだろうって思ってね。だいたい、電車の中でそこまで超強引になれるってのは、頭が狂ってるんだろうしね。一体なにがアンタをそこまで追いつめたの、って思うとさ。やっぱ恐いよね」
「ふうん……」
裕子にもそういう人間らしいところがあるんだな、と少し意外だった。
しかし……これだけ克明に語られると……あたしはどうしても満員電車の中で痴漢にあんなことやこんなことをされている裕子の姿を想像せざるを得ない。
どういう訳かそうして思い描く情景は、あたしの心の中にしばらく停泊し、頭を一杯にする。
ああ、処女ってほんとうにバカだわ。
今だからそんなふうに斜に構えて見ることができるけど……当時のあたしは何事にも馬鹿正直で、ひたむきだった。
たとえ友人に聞かされた痴漢体験にまつわる妄想、みたいなことに関しても、だ。
「……あ、そういやさ、あんた“必殺にしきあなご突き”知ってる?」
出し抜けに裕子が言う。
「……えっ??」あたしは思わず面食らった「にしき……あなご……? 何それ?」
「あんたと同じ路線遣ってる子が、何人かされたらしいよ、“必殺にしきあなご突き”」
「………なんなのそれ? 有名なの?」
「なーんか、ウソかホントか知らないけどさ、そういうワザを使うジジイの痴漢が居るんだって。それをされると、身体が痺れて指一本動かせなくなって……声も出せなくなるんだって。詳しいことは知らないけどさ………これも噂だけどね、その『“必殺にしきあなご突き”使い』は、大昔から、10年ごとに現れるんだって。そいつが現れるっていうのが………あんたの遣ってる路線の、8時15分に学校の駅に着く電車の前から4両目らしいよ。それで……そいつは10年おきに現れるたびに、決まって女子高生を5人、女子中学生を5人、女子大生を5人、OLを5人……合計20人を“必殺にしきあなご突き”で動けなくして、それで………ものすごいことするんだって………それからまた10年沈黙しては、また10年後に現れるの」
「う……ウソでしょ? ウワサだよね?」
「うん、あたしもウソだと思うよ」
そう言うと裕子はようやくお弁当の残りに手を付け始めた。
にしき……あなご……。
なんだか午後は、その言葉が頭にこびり付いて離れなかった。
放課後、あたしはこっそりと学校の図書館に行って、「魚類図鑑」でにしきあなごについて調べた。
図鑑にはその奇妙な魚のカラー写真が掲載されていた。
「にしきあなご」はインド洋から太平洋に生息するチンアナゴ亜科の魚。
体長は40cmに達し、体の直径は約1cm。
![](https://assets.st-note.com/img/1705189463714-SXz0cQ2Poy.jpg?width=1200)
砂に尻尾を埋めて、まるで植物のように海底からにょろりと“生えて”いるその縞々の身体は、ちょっとグロテスクだけど、マンガのキャラクターのようにひょうきんで、愛嬌がある。
それに…………なんだかよくわからないが、ものすごくいやらしい印象があった。
図書館でひとり魚類図鑑の「にしきあなご」の写真を眺めながら、わけのわからない禍々しさに顔を紅潮させているところを、もし裕子にでも見られたりしたら…………
当時のあたしは本当にその場で舌を噛んで死んでいたかも知れない。