午前3時、202号室の団欒【1/5】
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今日、駅からアパートに戻るまでに陽炎を見た。
ブラウスが汗で素肌に張り付き、こめかみから汗のしずくが顎へ伝う。
その日は大学で学内合同企業説明会があった日で、あたしはリクルートスーツを着ていた。
黒いスーツに日光が集中する。
虫眼鏡で炙り殺される蟻みたいな気分だった。
駅から徒歩七分。
悪くない距離だ。
それに文句を言うなんておかしい。
「でもマジで……マジで死にそう。ああもう」
あたしは事情があって大学三年のときに実家を出た。
どんな事情かって……?
まあ、家族と折り合いが悪かった、とでも言っておこうか。
ムリしてでも一人暮らしをはじめる女の子には、それなりに事情がある。
多くはあたしと同じように、家族とそりが合わないというのが理由だと思うけど。
あたしの住んでいるアパートは、裏野ハイツという。
そのアパートにまず惹かれたのは、敷金なしで2万5千円、という家賃。
「ものすごく安くなってます……くれぐれも他の住人の皆さんには家賃のこと、内緒にしておいてくださいね」
と不動産屋さんは小声で言った。
実際、家賃は5万弱というところらしい。
築三十年で木造二階建てで、はっきり言って見掛けは良くない。
刑事ドラマで刑事が聞き込みにきて、隣の部屋から水商売風の女がぬっと顔を出し、
「ちょっとお、うるさいなあ……こっちは夜商売なんだからね!」
と迷惑そうに言いそうな感じの、寂れた昭和の感じ。
なんかテレビの再放送で見るドラマみたいな感じ。
……いやいや、贅沢は言ってはいられない。
あまりにも安すぎる家賃って不安じゃない? ……と友達には言われる。
自殺者があったとか? 殺人事件があったとか? 幽霊が出るとか?
まあ、気にしない。
両親や妹と暮らすより、幽霊と暮らしたほうがずっとマシだ。
大学まで電車でひと駅というアクセスの良さも魅力だった。
でもその日はあまりにも暑すぎて、太陽の光も残酷すぎた。
商店街を抜けると、裏野ハイツのいかにも昭和な外観が陽炎の中に見えてくる。
あたしの頭はインフルエンザにでも罹ったようにぼうっとしていた。
(あれ……?)
アパートの前にはガレージを兼ねたアスファルトの広場がある。
その中央に三歳くらいの男の子が座り込み、チョークで地面に何か書いていた。
「……こんにちは~……」
あたしは男の子に声を掛けた。
男の子が顔を上げる。
無表情。
男の子は緑色のTシャツにベージュのハーフパンツ姿。
この裏野ハイツで暮らし始めて半年になる。
何度か見かけたことがある子だった。
確か、30代のお父さんとお母さんと3人暮らし。
確か、102号室か103号室に住んでいるはずだ。
「今日もあっついねえ~………… なに描いてるの?」
「…………」
男の子はくすりとも笑わない。
人見知りが激しいのだろう。
そういえばあたしは、この子と言葉を交わしたことがない。
あたしは男の子に近づいて、彼が地面に描いていたものを見た。
(ん? …………なにこれ?)
何なんだろう。
男の子は上下に3つずつ連なった合計6つの箱を描いている。
そのなかに……たくさんの人影が描かれていた。
赤・白・青・黄色のチョークで、びっしりと。
「絵、上手いね…………これなに?」
あたしを無表情に見上げたまま、男の子がこくりと頷く。
「タカユキ!」
急に、背後から声を掛けられて、あたしは飛び上がった。
振り返ると、前にも見かけたことがあるこの子のお母さんが、子供用の麦わら帽子を手に立っていた。
三〇歳くらいの、すらりとした美人。
ノースリーブにカットオフのショーパンと、白いサンダル。
長い髪をきれいに茶色に染めて、少しギャルが入っているけど……スタイルがすごくいい。
あたしと目が合うと、きれいな顔に人懐こそうな笑みを浮かべた。
「こんにちは! あっついですね~!」
「え、ああ……はい……」
「……ほら、タカユキ。外で遊ぶときは帽子かぶらなきゃダメって言ったじゃん……なに? お姉ちゃんに遊んでもらってたのぉ?」
男の子……タカユキくんが、お母さんを見上げてこくり、と頷く。
「かわいいお子さんですね……それに、絵がとてもお上手で」
「そうですかぁ? ……でもほんと、絵を描き出したら止まんないんで、困ってるんですよぉ……ほっといたら、何時間でも描いてるんだからぁ……」
「い、いえでもとても……個性的な絵で……」
あたしは慎重に言葉を選んで言った。
「2階の学生さん? あれ、今日はスーツ? もう就活なんですかぁ?」
「いえまだ……学校でセミナーがあったから……」
「こんな暑い日にタイヘンですねぇ……あ、ダンナだ。お帰り!」
と、その女性があたしの背後に向かって声を掛けた。
「おう! ただいま!」
声のほうを振り返る。
(……あれ……?)
お母さんに負けないくらい人懐こそうな笑顔で歩いてきたのは、作業着を着た四〇過ぎのおじさんだった。
筋肉質な体型で、あごひげを生やしている。
「タカユキ、今日はいい子にしてたか? ……あ、どうも。二階の学生さんですよね。あれ、今日はスーツですか?」
「学校でセミナー? だっけ? があったんだって。ホラ、就活の」
と、お母さんがあたしの代わりに答える。
お父さんは、タカユキくんをひょいと抱き上げると、高い高いをした。
「そっかあ、最近は学生さんの就職もタイヘンらしいですねえ……あ、いや、ちょっとは景気もマシになったんだっけ?」
ニコニコと優しい笑顔で笑いかけるお父さん。
「い、いえまだ本格的に就活が始まったわけじゃ……」
「頑張ってくださいね! いやほんと、大丈夫ですって……俺みたいな奴でも働き口があって、女房子供を養っていけてんだから! あ、いてっ!」
タカユキくんを抱いたお父さんの脇腹を、お母さんがつねった。
「なにカワイイ子の前だからってイイ人ぶってんだよ!」
「あはは! バレてた?」
「バレバレだっての……ねえ?」
お母さんがあたしの顔を覗き込む。
笑うお父さんとお母さん。
タカユキくんは笑わない。
あたしは、曖昧に笑みを浮かべた。
「じゃあ、ウチらはこれで。就活、頑張ってね!」
そう言って仲良し夫婦は、あたしに会釈をした。
お父さんに抱えられたまま、タカユキくんはじっとあたしを見ている。
家族は、一階の一番右の部屋……103号室に入っていった。
あたしはひとり、地面に人影がいっぱいの箱が描かれたガレージに残される。
すごく違和感があった……なぜだろう? ひとり考える。
そうだ。
確か……前にもあの親子3人を見かけたことがあった。
そのとき、お父さんは確か、お母さんと同年代のスリムで背の高い、ちょっとヤンキーの入った茶髪の人だったような気がするけど……
あれより10歳ほど若く見えたし、顔つきや体つきがまるで違う。
確か、あご髭もなかった。
暑さのせいで、ぼんやりしているのだろうか?
あたしは、親子が入っていった103号室の表札を見た。
名前はない。まあ、あたしも表札なんて出してないけど。
と、そのとき、一斉に蝉が鳴き出した。
いや、ずっと鳴いていたのかもしれない。
それに、あたしが気づかなかっただけで。
■
その夜。
バイトのない日だったので、結構夜更かししてからベッドに入った。
ここのところ、クーラーを点けずには眠れない。
それに、女の一人暮らしで窓を開けて寝るのは不用心だし。
おかげさまで、ぐっすりと眠ることができた。
あの声を聞くまでは。
(…………ほら、もっと飲んで!)
(おっとっと……こぼれる、こぼれるよ)
(もう肉、食べられるよ。ほら、もっと食べなよ)
(ママ! ママ!)
(まだまだ肉も野菜もいっぱいあるから、ほら、もっとビール飲んで!)
……最初は、夢だと思った。
実際、あたしもその声のせいで、家族ですき焼きパーティをやっている夢を見た。
夢のなかで、わたしも、父も、母も、妹も……笑いながらすき焼きを囲んでいた。
……でもあたしは、たとえ夢であってもその光景に違和感を抱いていた。
(それでは……の……を祝して……カンパーイ!)
(カンパーイ!)
そこで、飛び起きた。
部屋はしんとしている。クーラーが静かな音を立てるだけで。
まるであたしが飛び起きたのを合図に、一斉に宴がお開きになったように。
(夢……?)
充電中のスマホを見ると3時前だった。
あたしは1LDKの部屋の奥にある洋室の北側の壁にベッドをくっつけ、東向きのベランダを枕にして眠っている。
そうすると、差し込んだ朝日が気持よく起こしてくれるので。
声のした方向を見る……やはり、隣の部屋からだ。
(……いや、夢じゃない。だって……)
なぜなら、隣からのかすかなすき焼きの香りが、この部屋まで漂っているから。
ほんの少し、タバコの匂いもする。
(ってことは……隣? で、でも……夜中の3時だし……)
ベッドから半身を起こして、南側にある押入れと物入れの殺風景な風景を見つめた。
もう、声は聞こえてこない……ただ、すき焼きの残り香だけが残っている。
物音がしたとするなら、隣の202号室からだ。
なぜならあたしの部屋は、2階に3つある部屋の中で一番北側の203号室。
大学から帰ってきたときに会ったあの3人家族の、ちょうど真上になる。
(でも……隣の部屋って確か……)
ずっと空き室だったはずだ。
少なくとも、あたしがこのマンションに越してきてからは。
(それに、夜中の3時にすき焼き? それに子供の声もしたけど……)
子供といえば……このマンションで見かけたことがある子供は、この部屋の真下にに住んでいるあの子……タカユキくん、だっけ? ……だけだ。
ふつうなら、夢だと思ってそのまま寝直しただろう。
でも、すき焼きの匂いがあたしを寝かせなかった。
辺りは静まり返っている。
壁に掛けた時計がカチコチいう音。
どこかかなり遠くから、救急車だかパトカーだかのサイレンの音。
近くの公園で、カラスが鳴く声。
静かだ。
普段、深夜に聞こえてくる自然な音以外、なにも聞こえない。
(…………やっぱり、夢?)
でもすき焼きの残り香は残っているのは事実だ。
錯覚じゃない。
あたしは近くにあったフード付きパーカーを羽織り、お財布だけを握って部屋を出た。
とにかく、あの濃厚な、甘ったるい肉の匂いから逃れたかった。
部屋を出て、隣……202号室の表札を見る。
表札は掛かっていない。
というあたしも、自分の部屋には表札を掛けていない。
外付けの階段を降りて、ハイツの前のガレージに出た。
タカユキくんが描いた6つの箱と、たくさんの人影の絵が残っている。
あたしはなぜか、水たまりをよけるみたいにその絵を避けて、敷地から外に出た。
ハイツの裏手にある一番近いコンビニまで歩く。
こんな時間に女の子の一人歩きは危険だと思われるだろうけれど、幸い、このあたりの治安はものすごくいい……と聞いている。
コンビニに着いたとき、雑誌コーナーに一人、男性がいた。
(……あれ?)
30代くらいの、痩せて背の高い男性だ。
髪はボサボサで、ヒゲは伸び放題。
いかにもだらしない、ネズミ色の上下ジャージにサンダル姿。
“グレー”じゃなくて“ネズミ色”って表現が出ちゃったのは……その人の全体の印象がなんとなくネズミを思わせたからだろうか。
あまり、近寄りたくないタイプだったけど、あたしはなぜか……その人をどこかで見かけたような気がした。
ダイエットペプシを買う。
コンビニの店員さんは、はじめて見る眠そうな太った男の子で、たぶんわたしと同じくらいの年頃だろう。
はじめて見るのも無理はない。
なぜなら、あたしがこんな時間にこのコンビニに来るのははじめてだから。
会計をすませたとき、ちょうど雑誌コーナーにいた男性が店を出て行った。
立ち読みだけで、結局なにも買わなかったようだ。
別に追いかけるつもりじゃなかったが、あたしが店を出ると、前方にくたびれた足取りで歩くネズミ色のジャージ姿が見えた。
あたしは裏野ハイツに向かって、ゆっくり歩き出す。
男性があまりにもダラダラとした足取りだったので、追い越さないように気をつけながら。
(…………でも、あの人…………ほんとにどこかで…………それに…………えっ?)
ネズミ色ジャージの背中を、尾行しているような感じになっている。
なぜなら彼は裏野ハイツの裏手を回り込んで、確実にハイツの方向をめざしていたからだ。
(…………ってことは…………同じアパートの住人?)
それなら、前に見かけたことがあっても不思議ではない。
でも……なぜか、違和感を拭い去ることができない。
予想どおり、男性は裏野ハイツの敷地内に入っていった。
あたしはまるでほんとうに彼を尾行している刑事みたいに、近くの電柱の影に隠れて、彼が鍵を取り出し……一階の真ん中の部屋、102号室に入っていくのを見守った。
102号室の明かりが灯る。
(えっ………………ちょ、ちょっと待って…………)
あたしは、電柱の陰から動けないでいた。
なぜなら……コンビニで見かけた彼の顔をどこで見かけたか、急に思い出したからだ。
前に彼を見たとき、彼は髪の毛を茶髪に染めていた。
あんなに髪の毛を、ボサボサにはしていなかった。
少しヤンキーがはいっているけど、身綺麗にして、明るく笑ってた。
あたしが彼を前に見かけたのは、確か1ヶ月ほど前に大学から帰宅したとき。
彼は若くて綺麗でギャル入った奥さんと、小さな男の子……タカユキくんと一緒に外食に出かけようとしているところだった。
そう、彼は……彼ら家族は、私の部屋の真下の103号室で暮らしているはずだ。
あたしの記憶が…………確かならばだけど。