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セルジュの舌/あるいは、寝取られた街【2/13】
■
その翌日、クラスに和男の姿はなかった。
その翌日も、さらにまた翌日も、和男は登校してこなかった。
恵介には何の連絡もない。LINEでも返事をよこさない。
何か、イヤな予感がした……何かがあったに違いない。
その日の昼休み、恵介は担任の江藤を廊下で呼び止めた。
「先生、和男……どうかしたんですか?」
「えっ、恵介くんも知らなかったんだ……二人、仲がいいから連絡取り合ってると思ったんだけど……」
江藤は昨年この中学に赴任してきたばかりの新人教師だ。
いつも学校ではトレーナーにジーンズというラフな格好だが、大きな目の愛嬌のある顔立ちと、 トレーナーを持ち上げる案外豊かな胸、そしておそらく無防備に晒しているボリュームのある尻で、男子生徒たちの間ではそれなりに妄想の対象となっている。
いつも明るく、芯が強い性格。
学生時代は女子サッカーでならしたという。
「家族の人とか、なんか言ってました?」いやな予感が胸の中で膨らんでいく。「おれも連絡取ろうとしてんだけど、全然返事よこさなくて……」
「ううん……お母さんからは“風邪を引いた”って連絡をいただいてるんだけど……よっぽどひどい風邪なのかな? ……よかったら恵介くん、お家まで様子見に行ってあげてよ!」
「え、あ……はあ……はい……」
まさか、そんな役割をいきなり任されるとは思っていなかったが、恵介は首を縦に振っていた。
たしかに、友人である自分が任されるべき役目なのかも知れない。
「何かわかったら教えてね。和男くんによろしく言っといて」
「は、はあ……」
そのまま江藤教諭は鼻歌を歌い、多くの男子生徒たちの妄想の対象になっているその魅力的な尻を揺らしながら、職員室のほうに去っていった。
と、そのとき。
恵介は背中に視線を感じ、反射的に振り向く。
廊下の果て……
そのまたさらに果てにある渡り廊下の向こうに、人影があった。
距離にして40mは離れている。
昼休みの時間。
その間に廊下は笑い、走り、ふざける生徒たちで溢れている。
それでも、恵介には廊下の真ん中に立ったその人影が、誰であるかわかった。
そして、そいつが自分のことをじっと見ていることも。
(友里江……)
学校の中で彼女を見かけることはほとんどなかった。
上級生であるということもあったが……実際は彼女と口を効いたこともなければ、そばに近寄ったことさえない。
彼女が誰にでもヤらせるスケベ女だというのが彼女に関する噂のすべてだった。
その噂のために、恵介は無意識のうちに友里江に近づくことを恐れ、避けていたのかもしれない。
その友里江が、廊下のはるか向こうから恵介を見つめている。
あまりにも遠く、顔は長い栗色がかった髪に隠れているので……表情を伺うことはできない。
しかし、視線は感じた。
恵介はその場に立ち尽くし、硬直していた。
“全身が”という意味で特定の部分が、というわけではない。
二人の間には何人もの生徒たちが、残り少なくなった昼休 みの時間を精一杯謳歌しようと、笑い、跳ね、走り、囀っている。
しかし、友里江の視線は恵介をその場に貼り付けていた。
その視線は恵介を強引に引き寄せ、彼女と関係を持つことを求めている。
(……なんだよ……なんなんだよ)
友里江がこちらに歩み寄ってくる気配はない。
友里江は視線で、“こっちに歩いておいで”と言っている。
気がつくと恵介は、引力に従うように友里江のほうに向かって歩き始めていた。
何人もの生徒たちとすれ違い、ぶつかりそうになりながら、どんどん友里江に近づいていく。
友里江まであと5m……ここまで友里江に近づいたのは始めてたった。
たしかに、友里江は他の女生徒たちと比べて、ぐっと大人びていた。
紺色のブレザーの前は開いており、襟元のボタンは第二ボタンまでが外されている。
だらしなく垂れた臙脂色のリボン……他の女子生徒も同じものをつけているのに、それはまるで淫らさのシンボルのようにも見える。
ブラウスの胸元は過剰なまでに発達した乳房ではち切れそうだ。
スカートは……
妹の千帆が言っていたように、“今どき”にしては丈が極端に短い。
骨盤もその年齢の少女にしては発育がはげしく、紺のフレアスカートの中で張り詰めている腰のボリュームは、担任教師の江藤にも負けていない。
大部分が露出した太腿と、メリハリのあるふくらはぎへのライン。
黒いハイソックスが、足首でこの身体の放埒さを戒めているよう に見える。
あと数歩の距離まで近づいたところで、突然、友里江が顔を上げた。
栗色がかった髪が顔半分を覆っている。
三白眼に近い瞳。
視線は恵介との空間にただよう空気を射抜くようだった。
「で……近くで見るとどう? やっぱり噂どおりにエロい?」
囁くような、大人っぽい声。
「え?」
「噂してるでしょ、みんなであたしのことを……あんたもしてるでしょ? あたしが誰にでもヤラせる女だとかなんとか。ほかにどんな噂をしてんの?」
「き、き、きょ……きょ、興味ないね」
思わず、どもってしまう。
実際、友里江とはじめて対峙して、その性的魅力をありありと感じたところだった。
恵介はもともと友里江に関するそうした噂に関しては積極的に関わってこなかったので、否定したとしてもそれは嘘ではない。
「なんであたしのところまで歩いてきたの?」厚めの唇がくにゃり、と歪む。「ヤらせてくれ、って頼みにきたの? ……こんな昼間っから? てか、見かけによらずおませさんなんだね」
「そうじゃねえよ!」ここでムキになってしまうのが、童貞の弱さだった。「なんだよ、その上から目線の態度はよ? 学年がひとつ上で、セックスしたことあるからって偉そうにしやがって……」
「“したことある?”……あはは、うける、あははははあは」
そこではじめて、友里江はその年頃の少女らしい笑顔と仕草を見せた。
恵介はバカな言い方をした、と後悔した。
そうだった。
この女は、“したことある”どころではなく“ヤリまくっている”んだった。
いかにも童貞らしい、バカっぽいことを口にしてしまった。
同学年の、同じクラスの生徒たちだって、ヤってるやつらはヤっているはずだ。
たぶん、友里江の目には、顔を真っ赤にして涙を堪え ている幼児のような、情けない自分の姿が映っているのだろう。
ひたすら悔しかった。
「……笑うな! だいたい、おれのことじっと見てたのはおまえのほうだろ? 何か用か、って聞きたいのはこっちだよ!」
友里江はひとしきり笑うと、呼吸を整え、吹き出すのを堪えるような顔で恵介を見た。
「あ、ごめん……そうそうあたし、あんたのこと見てたの……あんたの友達の……ええっと……カズちゃんに聞いたから」
「カズちゃん? ……和男のこと?」
予想外だった。
まさか、友里江の口から、自分が気にしていた友人の名前が出てくるとは。
「そうそう、カズちゃんの友達なんだよね、あんた。カズちゃんに負けないくらい、あんたも可愛いじゃん」
「えっ……和男と話したって……いつ?」
信じられない。
4日前、セルジュと裕子のことを話して暗い目をしていた和男のことを思い出す。
「3日前の夜……あの子、裕子ちゃんのことが本当に好きなんだね……だって、いきなり押しかけてくるんだもの」
「押しかけてきた? 和男が? ……いったいどこに?」
そこでまた、友里江が意味ありげに笑う。
濡れた、赤い、やわらかそうで、ボリュームのある唇。
恵介はその唇から、スジコを連想した……ほかに連想できるものがなかったので。
「どこにって、セルジュの家よ……あたしとセルジュがベッドでエッチしてたら、いきなりカズちゃんが窓にコンクリートブロックを投げ込んできて……」
「ブロック? 和男が? そんなまさか! ……っていや、ちょっと待て。セ、セルジュの家だって?」
「そうだよ……カズちゃんがブロック放り込んできたとき、あたしとセルジュがどんなことしてたか、聞きたい?」
友里江が小首をかしげる。
まるで幼稚園児に対応する保育士のお姉さんの仕草で。
「……い、いや、そっちじゃなくて、なんで和男がそんなことを?」
「ふん、なんだ……つまんないの」友里江はそっぽを向いてしまった。「……詳しいことは本人に聞けば?」
「あいつ、病気で寝込んでる、って聞いてたけど……」
「病気?」友里江が目を細める。「まあ、病気かもねえ……だって、セルジュの舌を知っちゃったんだから」
「セルジュの舌?」
不気味な響きだった。
友里江の唇のすきまから、チロっと舌先が飛び出してくる。
そしてそれが、淫らに、円を描くように動いた。
恵介は、名も知らぬ深海の海綿生物を見ているような気分だったが……その動きから目を離せない。
やがて、舌が“ちゅるっ”と音を立て、巣に戻るように唇の割れ目へと消えていく。
「あたしも、裕子も、ほかのみんなも……それにカズちゃんも、同じ病気なのかもね」
■
放課後、和男の家に向かう恵介の足取りは重かった。
わけがわからない……“セルジュの舌”って何だ?
恵介たちが暮らす郊外の田舎町は闇が落ちるのが早く、通学路には街灯も少ない。
夜ともなれば、畑に囲まれた国道はほとんどが闇に覆われてしまう。
その中で通学路の国道沿いにあるコンビニエンスストアだけが、24時間明かりをたたえていた。
上空から見れば、そのコンビニはこの界隈でもっとも輝く恒星のように見えるだろう。
闇が空を覆ってしまうまえに、恵介はコンビニに駆け込んだ。
和男の見舞いに行くのに、手ぶらでは格好がつかないと思ったからだ。
ピポパポパポン ピポパポポン
自動ドアをくぐると……つん、と異臭が鼻をついた。
慌てて店内を見回す。
奥の飲料用冷蔵庫の前に、灰色のコートを来た大男の後ろ姿が見えた。
間違いない。
その薄汚れたコート。
垢でくしゃくしゃになった髪、それを覆う大きな紫のベレー帽。
異臭のもとはその男であること、そしてその男がセルジュであることを、恵介は同時に悟った。
「……あァ……たシ あァァァ ゆぅぅめぇぇぇみぇル"ぅぅ しゃンそン にんぎョョョョョョお……」
低い声で、セルジュが歌っているのが聞こえた。
明らかに、日本語だった。
毎日、塩酸でうがいをしているとあんな声になるのかもしれない。
なんてことだ……友里江に、セルジュ。
これまで噂の中にしか存在しなかった人間たちと、一日に二人も出会うことにとは。
「コォォォォコロ"にい いツモ しゃんソン あうれ”る にんぎョョョョョョお……」
その歌が何の歌なのか恵介は知る由もなかったが、しかし確かに……あれは日本語だ。
セルジュが日本語で歌を歌っている。
フランス人(だという噂)のセルジュが。
そういえば、セルジュのことを噂している町の人々は、誰一人としてセルジュと口をきいたことがないに違いない。
「……ワァ……たシ あァァァ キイィイレ"ぃな しゃンそン にんぎョョョョョョお……」
一瞬、セルジュが肩を揺らして、頭をかしげた。
慌てて恵介は商品棚の影に身を隠す。
こっそりと覗き込むと……セルジュは顔を恵介のほうに向けていた。
その顔は……一口で言うなら、むかし動物園で見たマントヒヒに似ていた。
飛び出した前額骨が日除けのように出っ張り、その奥の奥にある(のであろう)目を暗い影の中に隠している。
太くて、しっかりした鼻……モアイ像並みに立派だ。
そしてなによりも圧巻なのが、顎のたくましさだった。
白い不精ヒゲに覆われた顎は人間の域を超越したせり出しかたで、ドア チェーンだって噛み切れそうに見えた。
(あ、あれが……あれがセルジュ?)
想像していたよりセルジュは大きかった。
身長は一九〇センチ越えと聞いていたが、横幅もかなりあるのでまるで巨人のように見える。
猛烈に臭かった。
噂通り、あのコートはかなり汚れている。
まるで動物園で猛獣の檻の前にいるように、そのすさまじい体臭が優に4mは距離を置いている恵介にも漂ってくる。
あれが、フランス人なのか?
頭の上に、ベレー帽を載せているから?
……それだけで? そんなまさか。
いったいあの得体の知れない外人が、なぜ“フランス人”として町中に知られているのか?
とはいえ、「じゃあ一体、おまえは何人だと思うんだ」と聞かれれば……恵介にも明確な解答はできない。
ただ、その出で立ちがあまりにも異形であること、自分たちとは異質であることを改めて認識するばかりだ。
「こぉぉのよあぁぁぁ バぁラ"いロ"のぉぉぉぉ ボんぼンみたいぃぃぃぃねえぇぇぇ……」
気になったのは、セルジュの鼻歌の中で“ら”行の音がすべて、奇妙な響きであることだ。
祖父がまだ生きていたころ、毎日のように洗面台でうがいをしながら、よく痰を吐いていた。
義理の父のそんな行動を、母はいつも苦々しそうな顔で見ていたが……あの“クゥワッ!”という音と、セルジュの発する“ら”行の音は、非常に似ていた。
“ら”行の音を発するたびに、喉奥から痰をを絞り出しているような……そんなふうに聞こえる。
セルジュが冷蔵庫のガラス戸を開け、棚から缶ビールの6パックを取り出した。
恵介はセルジュの死角へ逃れようと……何事もなかったかのように雑誌コーナーの前に立ち、選びもせずに雑誌を一冊抜き出した雑誌を読んでいるふりをする。
そして肩ごしにセルジュを見た。
(えっ……な、なにやってんだ…………あいつ……)
セルジュは6パックのビールを小脇に抱えたまま、洋酒コーナーで赤ワイン(そのへんが、フランス人なんだろうか?)を取り、自分のコートのポケットに入れた。
そればかりか、手当たり次第に陳列棚から、サンドイッチやチーズ、漬物のパック、缶詰を数個、チョコレート菓子を何本か……店の商品をコートのサイドポケットや内ポケットに詰め込んでいく。
(ま、万引き? ……あれ、万引きだよな?……で、でも……あんなに堂々と……)
あわてて店のカウンターを見た。
制服であるコンビニのロゴ入りジャケットを着た、地味な感じのショートカットの若い女がぽつんと立っている。
女はうつむいていた。少し、唇を噛み締めているように見える。
(気づいて……ないのか? それにしても……)
セルジュの鼻歌と、鼻をつく体臭が近づいてくる。
「だぁぁぁレ"でぇぇえも、いつぅぅぅぅでモ わら"イながらぁぁぁぁぁ」
恵介は背中に覆いかぶさってくるようなセルジュの気配と体臭を感じながら、必死で雑誌を読むふりをした。
そのときはじめて、手にとったのは中高年向けの週刊誌で、開いているページがセミヌードグラビアページであることに気付いた。
背後では生活用品の棚から、セルジュが次々とものを漁っていく音が聞こえてくる。
「わぁぁぁぁたしがア うたうるぅ シャァァァソン 聞いておぅどぅり"ぃだぁぁすぅぅぅ……」
セルジュが、恵介の1m圏内に新入してくる。
すさまじい悪臭と、低音で響いてくる鼻歌。
逃げ出そうか? 恵介は思った。
こいつはやはり、噂どおりまともではない。
いかれている。
モラルもマナーもない。
とりあえず恵介の14年の人生経験から鑑みると……まったくもって得体の知れない存在だ。
「ドナいや けいキ あ どなイや」
はっとして恵介は振り返った。
セルジュが、カウンターに腰掛けて無遠慮に肉まんの保温器を開け、カレーまんをむさぼり食っている。
「……あの子がいいの? あたしなんて、もうどうでもいいんだね?」
カウンターの中の大学生風の女性バイトが、うつむいたままセルジュに言った。
「そんナこと あら"えン お前のコト 愛しとル"ガナ」
セルジュがカウンターに腰掛けたまま、バイト学生の頭に手を伸ばし、抱き寄せた。
「いやっ……や、やめてセルジュ……こんなとこで……お客さんもいるじゃん……」
“お客さん”というのは……いまのところこの店では恵介ただ一人だ。
「かまヘン かまヘン がナ」
そして……セルジュはバイト学生を抱きしめ、その唇を奪った。
恵介は思わず、手に持っていた雑誌を床に落とす。
チュバッ……ヌチュッ……ジュルッ……ヌチュ……
恵介は目を見開いて、セルジュがその野暮ったいバイト女の口内を蹂躙するのを眺めていた。
バイト娘はぐったりとしおたれ、セルジュの濃厚なキス……というにはあまりにも下劣な印象の行為に身を任せている。
やがて……バイト娘が薄目を開けて、恵介のことを見た。
しかし、すぐに目を閉じて……自らセルジュの唇に貪りついていく。
恵介の耳に、湿った水音が届いてくる。
自分の存在はまったく無視されていた。
まるで透明人間にでもなったような気分だ。
気がつくと恵介は、商品棚からプリン二つを握りしめて……店から飛び出していた。