妹 の 恋 人 【16/30】
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お姉ちゃんのスマホに電話をする。
無愛想な電話の呼出音。
さっきは四回目で切ってしまった。
お姉ちゃんが出る前に、切ってしまうべきか。
それとも、もう一コール待とうか。
ああ、なんであたし……こんな子どもみたいなことをしてるんだろうか。
「……あ、はい……え? もしもし?」
七回目のコールの後、出し抜けに電話が繋がる。
受話器の向こうから聞こえてきたのが、意外な声だったのでびっくりした。
「あれ? ……あ、あの、えーと…………もしもし?」
「…………あ……ああ、えーと……」
「あの……すみません、間違い電話でした……」
「…………あ、ちょっと待って……あの……ひょっとしてサッちゃん?」
「……えっ? ……あの、ひょっとして、さ……佐々木さんですか? ……あれ、おかしいな……あ、あたし……お姉ちゃんに電話したのに……」
「あ、ああ…………ううん。合ってるよ。お姉さんに電話したんだよね……?」
「……あ、はい……」どうなっているんだろう。またあたしの頭が混乱しはじめる。「でも、なんで佐々木さんが……」
「あ、あのね、お姉さんね、スマホを忘れてったみたいなんだ…………だから、僕が預かってんの。いや、いきなり鳴ったのでびっくりしたよ…………出ようかどうしようか迷ったんだけど、表示見るとサッちゃんからだったからさ、つい出ちゃった……お姉さんから連絡あった?」
「……いえ……まだ」
「だよね。お姉さん…………スマホ忘れてんだもんね……ところで、身体の調子、どう?」
「……えっ」
どきん、と確かに胸が、大きくひとつ鳴った。
「いや……その、あの、さ、しゅ……手術の後、どうかと思ってさ」
どきん、どきんと、また胸が鳴る。
鳴り続ける。
この人は、あたしのことをまだ気遣ってくれてるんだ……そう感じた。
いや、それはあたしのいつもの勘違いなのかも知れないけど……
それらしい言葉を掛けられて…………あたしはたしかに動揺していた。
だめだ。
また、何か間違いを犯してしまいそうな気がする。
あたしがこの人と犯した間違いのせいで、お姉ちゃんは死ぬほど怒り狂って……それで……
「……元気? 身体の具合、悪くしてたりしない?」
「えっ……あの……は、はい、大丈夫です……」
動揺があたしの声に出ていた。
明らかに出ていた。
「ほんとに、ごめんね、今回は…………ほんと、サッちゃんには済まないことをしたと思ってるんだ……こんなことになってしまって…………」
だ、だめだ。
このままでは、また佐々木さんのペースに巻き込まれてしまう。
それでは同じことの繰り返しだ。
あの二月の寒い日、佐々木さんとこの部屋で過ごした、あのひとときと同じだ。
佐々木さんは今、電話の向こうに居る。
それでもあたしの意識は、そこに向かって飛んでいきそうになった。
佐々木さんが、追い打ちをかける。
「……ほんとうに、君には悪かったと思ってるんだ…………ほんとうは、僕は、今の女房なんてどうでも良かったんだ。サッちゃんに、そんな辛い思いをさせるくらいだったらね。これは本気だよ…………信じて欲しい……わかる?」
「……あ、はいっ……は、はい……」
ああ……だめだ……あああ…………。
「手術、辛かっただろ……サッちゃん。僕は、君に辛い思いをさせただけじゃなくて、人を一人殺したことになるんだな…………僕と、君との赤ん坊を……ちなみに、男の子だった? 女の子だった?」
「……あ、あの……わかりませんでした……っていうか、まだはっきりしてなかったみたいです……」
「…………ふうん」そのまま佐々木さんはしばらく黙った。その沈黙からは、悲壮と痛みが伝わってきた…………それもあたしの気のせいかも知れない。「……僕はなぜか、女の子だったような気がするんだよね…………君や、お姉さんにそっくりの、かわいい女の子……もし、僕が……その、僕が、もうすこししっかりしていれば……たとえ君のお姉さんにどんなに反対されても、もっと強い意志を持って決心していたなら……その子は、産まれて、きっとかわいい、すてきな女の子になっただろうね…………サッちゃんや、貴子さん……君のお姉さんみたいに…………」
「そ…………そんな」
気が付くと、あたしは泣いていた。
なんだか、自分がまぬけな機械になったような気がした。
「…………僕は、その子の未来を摘み取ってしまったんだ。その子の人生を……僕は多分……この罪を一生背負って生きていくことになるんだろうな……それくらいしか、僕にはできることはないけど……」
「さ……佐々木さん」名前を、呼んでしまった。「……そんなに自分ばかり責めないでください」
「……え」また佐々木さんが黙る「……やっぱり、優しいんだね、サッちゃん。お姉さんみたいに、僕を責めないの?」
「えっ……あの、やっぱり姉は、その、なにか佐々木さんに失礼なことを……言ったんでしょうか?」
「……失礼? ……まさか、そんなことはないよ。僕は言われて当然のことを言われてしまったまでさ……それよりも、サッちゃんはほんとうに、妹思いのお姉さんを持って幸せだね……」
「……あの……姉は、佐々木さんに何を言ったんでしょうか?」
「……そんなこと、どうでもいいよ」
と、佐々木さんは黙る。しばらく黙ったまだった。
電話の向こうからは、佐々木さんの息も聞こえない。
「お姉さんは、とてもサッちゃんに似てるよ……もちろん見かけはそうだけど、心の中も。お姉さんはとても僕に怒っていたけれど……その、僕、サッちゃんの怒った顔はこれまで見たことなかったから、サッちゃんと同じ顔のお姉さんのおかげで、はじめてサッちゃんの怒った顔を見ることができたんだよね…………サッちゃんは、いつも、他人を責めずに、自分を責めてばかりいる。それはサッちゃんが、人より優しいことの証なんだ……お姉さんも、サッちゃんのことを、まるで自分のことみたいに思って、怒ってた……正直言って、僕は羨ましかったな……そんな優しい心を持っている二人に……あ、ごめん、何かへんなこと言っちゃった?」
「……い……いえ、そんな…………」
スマホを押し当てている耳の中が、ビクン、ビクンと息づく。
スマホを持つ手が、痺れたみたいに感覚を失う。
気が付くとあたしは全身に汗をかいていた。
電話口から聞こえてくる佐々木さんの声に、心を預けて耳を傾けていた。
……そうなってはいけないはずだ。
そうなってはいけない、とお姉ちゃんに何度も言われてきた。
しかし、あたしはそのお姉ちゃんの忠告を受け入れていながら、頭では、それのどこがいけないのか……なぜ、そうなってはいけないのかが判っていなかった。
“なんで同じ間違いを何度もするの? あんたほんとうに頭悪いんじゃない?”
そうお姉ちゃんに言われたことがある。
というか、何度もそう言われた。
そうだ。あたしは頭が悪い。
何もかも、頭で良く考えず、気分で行動してしまう。
どうしようもない気分の渦に、すべてを飲み込まれてしまう。
それほどまでにあたしの“気分”は強いからだ。
あたしの悪い頭で行う“考え”なんかよりもずっと。
「……お姉さん、かなり怒ってたみたいで、あまり話もできなかったんだけど……出来れば僕はもう一度……そうだな、できればサッちゃんとお姉ちゃんと三人で、お話ができたら、と思っている……そうそう、この、お姉さんのスマホの件もあるしね」
「……は、はい……」
佐々木さんにまた会えるんだ……あたしの心の奥に、ぽっと灯りが灯った。
あたしの心の中は、まるで安物の四コマまんがだ。
そう思うと少し哀しくなるけれども……そのせいで掴むことのできた“小さな幸せ”は計り知れない。
お姉ちゃんにとって、それは、“失敗”や”汚点”にしか過ぎないのかも知れないけど……。
こんなことをお姉ちゃんに面と向かって言うと、それこそ本当に……あの一七歳の時、江田島さんとのことがお姉ちゃんにバレたときなんかよもずっと……お姉ちゃんは怒り狂い、今度こそほんとうにあたしを殺すかも知れない。
でもときどき……思うときがある。
こんなあたしの心の中の“小さな幸せ”を、そんなふうに“失敗”や“汚点”としてしか捉えられないお姉ちゃんは、ほんとうにかわいそうだって。
この動物並みの本能に従って、好き勝手に生きてきたあたしのために、お姉ちゃんは犠牲になり続けてきた。
そのせいで、お姉ちゃんは、あたしみたいにものを見て、感じ、考えることができなくなってしまった。
それは全て、あたしのせいだ。
お姉ちゃん、ごめん。
本当に、ごめん。
あたしさえしっかりしていれば……というか、あたしなんてはじめから居なければ……お姉ちゃんはあんな怒りと、攻撃性と、ハリネズミのような警戒心をもって、同じ年頃の女の子が享受していて当然の幸せを、がむしゃらに否定して生きる必要もなかったのに。
また、涙がこぼれた。
あたし自身の馬鹿さに、そして、お姉ちゃんへの申し訳なさに。
「…………泣いてるの?」佐々木さんが電話口で言う。「ご、ごめん……僕、なんか、ひどいこと言ったかなあ?」
「い……いいえ、ち、違う……違うんですっ」
あたしが泣いている理由を、佐々木さんに説明できるとはとても思えなかった。
説明するかわりに、あたしは泣いた……気持ちよく泣いた。
「…………いまから、そっちに、行こうか?」
「…………えっ?」
「…………行くよ。ちょうどスマホも、お姉さんに返さないといけないし。車で行くから」
「…………えっと……あの…………」
あたしの返事を待たずに、電話は切れた。
あたしは泣きやんでいた。
ええっと……頭が回らない。
何か、とんでもないことになりそうな気がした。
決定的な何かが、起こってしまいそうな気がした。
お姉ちゃんに怒られるとか、そのレベルではない、恐ろしい出来事の予感がする。
……まずい、本当にまずい……
でも……佐々木さんはあたしに会いに来てくれると言っていた……それは、純粋にうれしくて……胸がどきどきした……でも、それをのんきに喜んでいる場合ではないことは、いくら馬鹿なあたしにも、わかった。
この先一体、どうなるんだろう……?
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