
午前3時、202号室の団欒【3/5】
■
その日の夜、あたしはほとんど眠れなかった。
おばあさんに見せられた写真の中のタカユキくんが、目を閉じればはっきりと蘇ってくる。
あの写真をどうやっておばあさんに返したのか、あのときの動揺をどうやってごまかしたのか、どう言い訳してあわただしくおばあさんの部屋を後にしたのか、はっきり覚えていない。
失礼なことをしたんじゃないか、とは思うが、それでもあたしは恐ろしかった。
あの赤く焼けた古い写真に写っていたのは、あきらかにタカユキ君だ。
あの写真に入っていた日付が間違いでなければ、あの写真は17年前に撮られたことになる。
でも、タカユキ君はいま、3歳くらいの子供で……
この真下の103号室で、お父さんとお母さんと一緒に暮らしている。
(見間違いだって……あたし、きっとどうかしてるんだ……)
あたしはベッドの上で膝を抱えながら、自分に言い聞かせた。
(あれがタカユキくんなわけないじゃん……写真の中の男の子が、タカユキくんに似てただけじゃん? ……それとも、タカユキくんがあの写真の男の子に似てる、ってだけで……)
もしくは。
あたしが勝手に何もかも、関連づけて考えすぎているのかもしれない。
あの写真の男の子は、タカユキくんにちっとも似ておらず、タカユキくんもまた、あの写真の男の子とはちっとも似ていないのかもしれない。
103号室の旦那さんは、もともと髭もじゃで筋肉質な男性だった。
あたしが見かけたとき、103号室の奥さんとタカユキくんは、旦那さんではない別の男性と出かけていたのかも。
(それが、昨夜コンビニで見かけたあの灰色のジャージの男性? ……おばあさんが言ってた、無職で引きこもりの男? ……あまりにも見掛けが変わり果てすぎてない?)
自分を納得させようとすればするほど、頭の中に疑問符が増えていく。
髪なんて染めれば色が変わるし、数ヶ月もすればボサボサになる。
別になにも不自然なことではない……ありえないことじゃない。
(ってことは……あの、タカユキくんのちょっとギャル入ったお母さんは、隣に住んでいる無職の若い男と不倫とかしている、ってこと? それも堂々と、子供をつれて食事に出かけたりしてるってこと?)
だめだだめだだめだだめだだめだだめだ。
無理やり理屈をつけようとしても、どうしてもあたしのなかの理性と常識が、もぐら叩きみたいに理屈を打ち消していく。
ひざを抱えて、なんとか眠ろうとした……がそんなには眠れなかった。
まず鼻をついたのは、カレーの香りだった。
はっとして顔を上げる。
壁掛け時計の示す時刻は午前3時。
そして……隣の部屋からの声。
(わーい! カレーだ! カレーだ!)
(あんまり辛くないから安心してね……ご飯もいくらでもあるから)
(いやあ、僕もカレーには目がないんですよ……)
(とりあえず、ビールでも開けますか……)
(カレーライスでもビール? ……まあまあ、どんどん飲んで)
「……ひ、ひっ……」
もちろん声は、となりの部屋……空き室のはずの202号室から聞こえてくる。
「だ、誰?」
声に出して言った。
思ったより震えて、霞んだ声だった。
「誰が……誰がそこにいるの?」
(俺、おかわりしていいっすか?)
(食べるの早っ!)
(僕も、僕も!)
(ほらほら、慌てない……まだまだたくさんあるんだから)
(ビール、もう一本いっとく? ……さん、ほら、飲んじゃおう)
「……なにしてるの?」
今後は、もう少しましな声が出た。
「なにしてるの? 空き部屋なんでしょ? 空き部屋でなに団欒してんの?」
最後のほうには、もうほとんど叫んでいた。
(あははは、ほんと、テンション上がっちゃうよなあ! カレーって)
(あんた、口の周りカレーだらけ。拭きなさい)
(生卵入れる?)
(あ、入れる入れる!)
(僕も!)
「…………よ、夜中の3時だよ? なにみんなで楽しそうにカレー食べてんの? おかしくない? あんたら、ほんとにおかしいんじゃない?」
何度も何度も叫んだ。
しかし、彼らはあたしの声など耳に入らないように、楽しそうに語らい続ける。
強烈なカレーの匂いとともに。
あたしのほうがおかしいんだろうか?
彼らは、団欒を楽しんでいるだけだ。
たとえ今が、夜中の3時であろうとも。
それを、おかしいと非難しているあたしのほうが、おかしいのだろうか?
あたしは、心が狭いのだろうか?
明け方まで、彼らの声はやまなかった。
いつの間にか、あたしはベッドの上で膝を抱えたまま、眠り込んでいたようだ。
目が覚めると、部屋に朝日が差し込んでいて……声は止んでいた。
カレーの残り香も、消えていた。
■
その朝、あたしは一限目の授業があったので、朝8時少し前に部屋を出た。
隣の202号室、そして昨日、夕食をごちそうになったおばあさんの部屋……201号室の前を通る。
階段を降りようと思ったところで、足が止まった。
タカユキくんが、先日と同じ場所にしゃがみ込み、同じように地面にチョークで何か描いている。
アパートに背を向けているので、彼の顔は見えない。
そっと足音を忍ばせて……階段を降りた。
彼があたしのほうに振り向くのが……なぜか恐ろしくて仕方がなかったから。
(振り向かないで……お願いだから振り向かないで……)
振り向いたタカユキくんの顔が、ゆうべ、おばあさんに見せられた写真とまったく同じだということを……改めて確認するのが怖かったからかもしれない。
あたしは出来る限り足音を忍ばせながら、なんとか階段を降りきった。
タカユキくんはあたしのことに気づいていない様子だ。
あたしに背を向けたまま、地面に絵を描き続けている。
そのまま、彼の横を走り抜けてマンションの敷地を出ようとしたときだった。
ガチャリ、と音を立てて103号室のドアがひらく。
「じゃあ、行ってくるよ……今日は早く帰れると思うから」
「行ってらっしゃい。早く帰ってきてね!」
え。
そんな。
あたしは目を見開き、大きく開いた口を思わず両手で隠した。
カバンを地面に落とさなかっただけ、マシだったかもしれない。
部屋から出てきたのは、グレーのストライプスーツを着た、細身の男性だった。
背が高く、痩せている。
きれいにヒゲを剃り、髪を短く清潔に切っていた。
間違いない……
一昨日の夕方、この場所で見かけた男……髭面で、作業服を着た、筋肉質な男性……とは明らかに別人だ。
(こ、この人は…………)
そして、もう一人の人間ともまるで別人だ。
服が変われば、髪型が変われば、物腰が変われば、人はまるで別人に見える。
わたしが今、目の前にしているスーツ姿の30代男性は……
一昨日の深夜、わたしがコンビニで見かけた、ねずみ色のジャージの男とはまったく違う。
あの夜、彼は102号にだらしない身なりと足取りで入っていった。
その男が、今朝は103号室から、颯爽とした足取りと、ぱりっとしたスーツで現れたのだ。
「おはようございます!」
爽やかな笑顔で、彼があたしに挨拶をする。
だいぶ前に見かけたときは、茶髪で和柄Tシャツにダメージジーンズ、というヤンキー入ったファッションだった男性が。
そしてまた、103号室の父親として帰ってきた男性が。
「あっ……えっ……あの……おは、おはっ……」
と、玄関口からタカユキくんのお母さんが顔を出す。
(え、えっ……えっ……え、えええっ……?)
「おはようございます……」
確かにおんなじ女性だ。
顔立ちは美しく、スタイルはすらっとしている。
しかし彼女の髪は茶色に染められておらず、黒髪。
長さも上品なショートボブに変わっている。
服装はアースカラーのノースリーブと膝丈ショートパンツ。
「あ、あのっ……なっ……なっ…………」
あたしはわけのわからないことを言いながら、思わず一歩後ずさっていた。
自分の手がわなわなと震えているのがわかる。
「どうかしましたか?」
スーツの男性が、怪訝そうに首をかしげる。
彼から慌てて視線を逸らせると……地面に何かを描いていたタカユキくんが、あたしのほうを見ていた。
「えっ……」
タカユキくんは、前髪を輪ゴムで止めていた。
髪も昨日より、ずいぶん長くなっている。
そして……グリーンのワンピースを着ていた。
顔はまったく同じだが……彼は女の子の格好をしている。
「ユキ! お姉さんにご挨拶は?」
ショートボブの髪をかきあげて、お母さんがその女の子に声を掛ける。
「ユキ?」
タカユキくん……ではなく、ユキちゃん……は、無表情にあたしを見ている。
地面に描かれているのは、相変わらず上下に3つづつ並んだ6つの箱と、たくさんの人影だ。
いろいろな色で描かれたおびただしい人影が、すべての箱に描き込まれている。
上の段の一番左の箱だけだ……人が一人しか描き込まれていないのは。
「し、し、失礼しますっ!」
あたしは後ろを振り返らずに駈け出し……裏野ハイツの敷地を飛び出した。
できるだけ早く、敷地から遠ざかりたかった。
タカユキくん、ではなく、ユキちゃんが描いていた箱、あれは裏野ハイツだ。
そして上の段の一番左の、一人ぼっちの人影……
あれは、あたしだ。