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妹 の 恋 人 【9/30】

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 あの喫茶店で佐々木のもとから離れて、もう二時間になる。
 というのに、わたしは何故か咲子が待つ部屋に帰れずにいた。

 気分がそわそわして、落ち着かない。

 ふらふらと街を歩き、目に入った路面の座席があるカフェに入った。

 結構肌寒い日だったが、なぜか外で熱いコーヒーが飲みたくて仕方がなかったからだ。
 外のテーブルにつき、コーヒーを片手に、ぼんやり人の流れに目をやる。

 道行くおやじたちは誰も、先ほど顔を合わせてきた佐々木とどこか一部分、似ているところを持っているような気がする。

 たとえば、出っ張ったお腹とか、薄くなった頭とか(その頭をスダレで誤魔化しているセンスとか)、みんな同じ店で買ったんじゃないかと思えるくらい、個性のないシルバーのメタルフレームの眼鏡。

 顔の拭き出もの。濁った目。前方を見る、どんよりとした空虚な視線。
 とりあえず、『着とけばいいんだろ』とでもいわんばかりのくたびれたスーツやコート。

 ……仕方のないことなのかも知れない。
 
 こんな世の中だ。

 ふつうに生きていくためには、人は何かを捨てて生きて行かねばならない。
 
 それはさわやかな笑顔だったり、活力ある目線だったり、健康そうな体つきであったり、ふさふさとした頭頂部の毛だったり、若いころ少しは持っていたはずの服装に気をつかう心づかいだったりするのかもしれない。

 それらをひとつひとつ失っていきながら、人は大人になって、男はおやじになる。

 誰もがなにかを諦めて、何かに妥協して、薄汚れ不誠実に醜くなっていく……そして、最終的には、あの佐々木のようになってしまう。

 思えばこの世界には佐々木のような男でいっぱいだ。
 目の前を通り過ぎるおやじの何人かが……佐々木自身であるかのように思えて仕方がなかった。

 佐々木が行ったり、来たり、行ったり、来たり……って……なんだろう。

 なぜ、心の中で佐々木を弁護しはじめているのだろうか。
 なんでそんなことしなきゃいけないの?
 
 コーヒーを一口飲んで、意識をはっきりさせようとした。
 
 だめ。だめだ、だめだ……なんでそんなことを考えはじめたのだろう。
 
 咲子に電話しようかと思った。
 多分、部屋で待っている咲子は、心中穏やかではないだろう。
 
 しかし今すぐそれから解放してやるというのも、何だか甘いような気がする。
 
 少しくらい苦しんだら……? 
 
 と、わたしはいつものように意地悪な心持ちになった。
 
 何か咲子は……わたしを救いの神かなんかと勘違いしているのではないか、と思うときがある。
 どんな馬鹿なことをしても、どんな恥知らずなことをしても、それで万事休すとなったら、咲子はわたしに頼る。

 そしてわたしは、そのとおりに奔走する。

 ……確かに、七年前のあの高一の時……あの内藤という、教師の風上にも置けない人間のクズと咲子の中を強制的に断ち切ったときは、すこしやり方に問題があったんじゃないか、と思うことがある。

 多分、もっと考えれば、ほかに方法はいくらでもあった。
 ……しかし、あのときのわたしは、ああすることしか考えられなかった。

 そのためにわたしは、自分の身体を犠牲にした。
 あのときわたしは処女で、それをあのけだもののような男の釣り餌にした。

 しかし、正直な話、あまり後悔はしていない。

 自分の教え子の十六歳の少女を……しかもわたしのたったひとりの妹を……たぶらかし、そそのかし、おもちゃにしたような男だ……それ相応の報いがあっていいはずだ。




「ああっ?」

 わたしの内股が血で真っ赤に染まっていたことに気付いたときの内藤の顔といったらなかった。
 今思い出しても口元が緩んでしまう。

 わたしは真っ青になって言葉を失っている内藤を突き飛ばすと、そのまま自分のブラウスの前を思い切り力を入れて引き裂き、すう、と息を吸い込んだ。

いやあああああああああああっっ!

 学校中に響き渡るほどの大声を上げる。
 内藤は下半身全裸のまま、そこにへなへなと座り込んでしまった。

 見ると、彼の脚の間のそれは、身体の中に引っ込んでしまったかのように小さく萎んでいた。

「いやあああっっ! せんせえ最っ低えええええっっっ!!」

 わたしはそのまま階段を駆け下りた。
 左足首にはまだパンツが絡まっていたけど。

 わたしはさらにわめきながら、一目散に職員室を目指した。

 内藤は追ってこなかった。
 たぶん、腰が抜けていたのだろう。
 
 わたしは涙を流した。
 鼻水と一緒に、思い切り涙を流した。
 あれほど泣いたことはあまりない。
 
 というか、多分あの時、生まれて初めて泣いたのではないだろうか。
 

 咲子はすぐ泣く。

 泣くことで、親からも、ほかの大人からも、いろんなことを許してもらっている。
 わたしは幼いころから、そんな咲子に嫌悪感を抱いていた。

 めそめそ、ぐずぐず泣いて、人が許すまで泣き続ける咲子。

 胸がムカムカした。
 でも、うそ泣きとはいえ、あのときはなぜあんなふうに気持ちよく泣けたのだろうか。
 
 やはり、処女を失ったことからくるメランコリーとか?
 いや、まさか。

 自分にそんなロマンチックなところがあるとはとても思えない。
 それとも、自分で選んだ極端な方法であったとはいえ、あんな形で馬鹿な妹による失敗の犠牲になってしまった事に対して、自分自身への憐れみを感じたからだろうか。

 いや…………それもないな。

 
 そのまま職員室に飛び込んだわたしは、目を丸くしている先生たち……そこには教頭先生もいた……が集まる真ん中に座り込み、ぶるぶる震え、大声で、声が枯れるまで泣いた。

「ああ………ああ………せんせいが…………せんせいが…………ないとうせんせいがっ…………わた…………わた…………わたしに…………いやああああああああっっっ!!!」

 泣き叫びながら、わたしは奇妙な感覚に陥っていた。

 泣いているのは、わたしではない……奇妙だけど、それがその時の感覚だった。

 職員室の真ん中で、内股を血塗れにして、足首にパンツを引っかけて、破かれたブラウスの前を押さえて、泣き叫んでいる少女。

 わたしは自分のその姿を、なにか幽体離脱でもしたかのように、ちょっと浮いたところから見つめていた。
 自分の意志で大泣きしながら、わたしはこうも思った。

バカなんじゃない…………? この子?”

 不思議な感覚だった。

“自分で撒いたタネじゃん。何をそんなに泣いてんの?……泣いてどうにかなんの?

 もうひとりのわたしが、わたし自身をそんなふうに冷めた目で見ている。
 ……その冷たい視線は……いつもわたしが咲子を見ている目とそっくりだった。 
 
 ともあれ、あれで内藤の人生はめちゃめちゃになった。
 いい気味だった。
 
 わたしたち一家も、住んでいた町を引っ越さねばならなかった。
 
 相手を傷つければ、それ相応に自分も傷つく。
 それは仕方のないことではないかと思う。
 
 咲子とわたしと、家族も深手を負ったけれど……
 とにかくわたしは、内藤をこてんぱんにやっつけた。
 爽快だった……これはほんとうだ。

 

 
 新しい街での生活にも慣れて、わたしたちは高校二年生になり、しばらくは平和な日々が続いた。
 
 新居の隣に住んでいた家族の二八歳の長男……が、わたしに興味を持つまでは。

 ある日の夕方、ポストから夕刊を取りに行ったときだった。
 家の門の前で待ち構えていたそいつは、わたしにこう言った。
 
「ねえ、君、ここに越してくる前、学校の先生にレイプされたんだって?」

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