妹 の 恋 人 【10/30】
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お姉ちゃんから電話がない……。
壁に掛けてある時計を何度も確かめたけど、いくらなんでも遅すぎる。
待っているだけのあたしにとって、一分は一〇分に、五分は三〇分に、三〇分は数時間にも感じられた。
お姉ちゃんに電話しようかと思ったけど…………怖くてできなかった。
ただでさえ、お姉ちゃんはあたしと佐々木さんのことであんなにも怒り狂っていた。
ここで自分の根拠のない心配を解消するためだけに、お姉ちゃんを刺激するのは、いくらなんでもまずい。
まさか、あたしの心配どおり、お姉ちゃんに初めて会った佐々木さんが、お姉ちゃんのことをすごく気に入って、お姉ちゃんに……あんなことやこんなこと……。
だめだ。
そんなことを考えたりすること自体、とてもいけない事だ。
内藤先生の一件の後、あたしたち家族は別の街に引っ越した。
その後、内藤先生がどうなったのかは知らない。
お母さんもお父さんも、あの一件があって以来……家ではあたしにもお姉ちゃんにもあまり話しかけないようになった。
特にお姉ちゃんには……両親がお姉ちゃんに対して、腫れ物にでも触るような態度をとっていることは、あたしにもわかった。
お姉ちゃんはあの件に関して、あたしに何も言わない。
それどころかお姉ちゃんは、あたしと内藤先生の間にあったことを、両親には黙っていてくれた……それは今日に至るまで続いている。
でも、あたしがそのことを話題にしようとすると、お姉ちゃんは強い口調で話題を遮った。
前にも増して……あたしに対するお姉ちゃんの態度は冷たく、固くなったように思う。
仕方がない。
お姉ちゃんは、自分の身体を犠牲にしてまで、あたしの問題を解決してくれた。
ぜんぶあたしのせいだ。
あたしがあまりにもだらしなく、こらえ性がなく、自分の意志が弱かったから、あんな事が起きてしまった。
そして、お姉ちゃんは学校中に恥ずかしいことを知られて、先生の人生は破滅して、あたしたち一家は近所に顔向けできないようになり、引っ越す羽目になった。
それ以来、あたしは何も望まないように、何も求めないように生きることに決めた。
少なくとも……お姉ちゃんと暮らしている間は。
とはいえそれは、あくまであたしの決意だから……自分でもあてにはならない。
引っ越してから、しばらくは平和な日々が続いた。
江田島さんが……隣の家に住んでいた一家の長男が……あたしに興味を持ち始めるまでは。
「ねえ、君、ここに越してくる前、学校の先生にレイプされたんだって?」
その人はもう暖かくなりはじめている季節なのに、ペパーミントグリーンのジャージの上下を着て、その上からどてらを羽織り、マフラーを巻いていた。
でも脚はゴム製サンダルで、毛深い素足が見えていた。
髪の毛はボサボサで、無精ひげを生やし……それなりにいい体格をしていたが、少し太り気味のようだった。
あんまりこの街では珍しいタイプの人だ。
なんというか、その、隠遁者みたいな感じの。
その日、あたし以外の家族は留守で、あたしは一日中家に居た。
夕方近くになって、夕刊を取りに外のポストまで出たとき……玄関先にその人が立っていた。
「あの……」
あたしはすっかり面食らってしまった。
これまでに何度か、その人のことを見かけたことはあった。
近所のコンビニや、駅前の本屋などで。
その度にその人は、あたしに向かって微笑みかけ、軽く会釈した……
あたしはその人が江田島さんという、隣の家に住んでいる家族の長男だということを知らなかった。
「……あ、ごめん。おれ、江田島ってんだ。隣に住んでんの。よろしくね」
「……あ、はい。よろしくお願いします」
あたしは自動的にそう答えた。
うちはしつけが五月蠅くて、子どもの頃からご近所様に対してはそんなふうに無難に接するようにしつけられていた。
「ごめん、急にへんなこと言って……おれ、あんまりこんなこと人には言わないんだけどさあ……実は、小説家を目指してんのよ。大学出てからずっと」
「はあ……」
江田島さんは見たところ、三〇を過ぎているように見えた。
しかしあたしが江田島さんを見かけるのは、真昼や夕方もまだ早い時間で……江田島さんがふつうの勤めをしているのではないことは、何となく理解できた。
小説家を目指している……?
……そう言われてみると、そんな風に見えないこともなかった。
でも、それとレイプの話と何の関係があるんだろう?
「……あのさ、回覧板持ってきたから」確かに江田島さんは右手に回覧板を持っている。そして左手には、ケーキボックスを持っていた。「……駅前のケーキ屋でシュークリーム買ったんだ。一緒に食べない?」
「……えっ……」あたしは相変わらずどぎまぎしたままだった。「……でも、そんな、急に……悪いです」
「……君がお隣に越してきたときから、ちょっとお話したいと思ってたんだ。今、家族の皆さん、お留守でしょ? ちょっと君の家で、お話しない?」
……江田島さんは強引だった。
いくら馬鹿なあたしでも、警戒せずにはおれなかった。
知らない人を家にあげるなんてとんでもない。
いや、江田島さんはお隣さんなわけだし、知らない人ではない。
いやいやいやいや、でもいけない。
だってあたしはそれまで、江田島さんと口をきいたこともないのだらから。
しかし、それでも……。
「おれ、今、新しい小説書いててさ、その中で、先生にレイプされた高校生の女の子の話が出てくんの……まあどうでもいいだろうけど、ちょっとそのへんに関して、君に取材したくてさ。別に、へんなつもりは、まったくないから……ね、いいじゃん。ちょっとだけだからさ」
「……あの……」あたしは夕刊を手に、まごまごするばかりだった。「……で、でも、違います……」
「え?」江田島さんはそういいながら、うちの門の中に入ってきた。あたしは一歩、後ずさった。「……違う? 何が違うの?」
「レイプされたのは……」……いちおう、そういうことになっている。「……姉です。あたしたち、双子なんです」
「はあ……」江田島さんはあたしの顔をじっと見て言った。「そうかあ……双子なんだ。ウソみたいにそっくりだね。ほんと……瓜二つだよ。全然見分けがつかない。なんで見るたびに髪型が違うんだろうって思ってたんだ……じゃ、髪が短い方がお姉さん?」
「……はい」あたしは答えて……江田島さんが一歩前に進んだので一歩後ずさった。「……あの、ですから……」
「……まあ、本人に直接こんなこと聞くのも、アレか」そういって、また笑う「……ねえ、じゃ、君から話を聞かせてよ。すぐ済むから」
「……あの、でも、だめです……」
あたしは江田島さんに背を向け、家のドアを開けた。
家の中に入ってドアを締めようとしたとき、江田島さんの手がそれをくい止めた。
「……あっ」
江田島さんは力が強くて、ドアは半分開いたままびくともしなかった。
「……ねえ、ほんの、ちょっとでいいんだ。話聞くだけでいいからさ。ほんの一〇分、……いや、五分でいいから。ほんっとに、それだけでいいんだ」
「だ、だめです……あたし、何も知りません……」
あたしは必死だった。
「ふうん……」江田島さんは首だけをドアの中に入れて言った。「ねえ、君のお姉さんにあったことって、まだこの街じゃ、誰も知らないよねえ?」
「えっ……?」
「だって、誰にも秘密にしてるんだもんねえ」
「…………」
あたしが黙っていると、江田島さんは意外なことを言った。
「なんだか、君見てるとさ、寂しそうでさ」
「……えっ?」
「……引っ越してきて友達がいないのはまあ仕方ないけど、なんていうか、君、いつも一人でさ、寂しそうなんだよ。おれの目から見たら」
「…………」
あたしは江田島さんの目を見た。
とても優しそうで、少し寂しそうな目だった。
ピキン、と音をたてて、あたしの中でなにかのたがが外れた。
そのせいでずっと動くことなく、埃をかぶっていたあたしのなかの沢山の歯車が、ゆっくり、確実に動き始めた。
ずっとオイルや冷却水をせきとめていた配管の中が久しぶりに液体で満たされ、順調な流れをはじめ、あたしの全身に行き渡っていく。
あたしの中の機械はしだいに勢いを取り戻して……ずっと停滞していたすべてが軌道に乗り、通常運転しはじめた。
「まあ、おれが見たののうちで、どっちが君で、どっちがお姉さんなのかは判らないけどさ、ふたりとも、とても寂しそうなんだよ。それはこの街に越してきたばかりで、友達がいないからばかりじゃなくて……その、なんていうか、ふたりが何かを秘密にしてるからなんじゃないかな、と思うんだ」
「…………」
あたしは言葉を返せないでいた。
作家をめざしている江田島さんが文章の才能に恵まれていたのかどうかは、馬鹿なあたしにはわからない。
でも……そのときの江田島さんの言葉は、やさしい愛撫のようだった。
それはあたしの何かを溶かして……あたしに心を開かせるには充分だった。
気が付くと、あたしの目から涙が流れていた。
雪解けの水みたいに。
「…………じゅ、10分だけですよ……」
あたしは江田島さんを……家に入れてしまった。