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痴 漢 「 環 境 」 論 【2/6】
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二年生になり、三年生になった。
それにともなって、わたしの身体もどんどんそれなりに発育していく。
これはまあ、男女共に共通の感覚だと思うが、それは誇らしくもあり、同時にとても気恥ずかしいことだった。
たとえば、おっぱいが大きくなるということには、身体的にも肉体的にも多少の痛みを伴う。
大きなおっぱいは男性にとって魅力的なものだ、ということは充分に知っているし、たとえばかなり胸が発達した同級生がいたりすると、『うらやましい!』とか言ってみたりするけれど、それと同じ発達が自分の身体に起きれば、戸惑いを隠せない。
おい、ちょっと待ってよ。
待ってってば……と思ううちに、おっぱいはひとりでに大きくなっていく。
お尻だってそうだ。
はっきり言って、お尻はあまり大きくなってほしくない。
少なくともわたしはそうだった……でも、一年生の頃にはほとんど男の子みたいだったお尻もどんどん丸みを帯び、柔らかくなっていく。
ちなみに、実際クラスメイトたちの中にはすでに彼氏を作り、そのうちの何名かは……セックスや、それに至るまでのさまざまな課程……舌を入れてのキスや、ネッキングや、お互いの性器を触りあったり、とかいろいろ……の経験をすでに済ませており、クラスでそのことが話題になることもあった。
どこまでがほんとうで、どこがらがハッタリなのかはわからなかったけれど、みんなそういうことには興味があったようだ。
少なくとも恋愛感情を抱いている相手に……自分の身体を触られることは、それなりに嬉しいことだろう。
それでこそ、発育し甲斐があるというもの。
しかしわたしには、彼氏がいなかった。
男友達もいなかった。
別に痴漢に遭っていたことが原因というわけではない。
前にも言ったが、わたしは生まれつき引っ込み思案で大人しい性格だ。
だから友達がクスクス笑いとともに語る性体験については、人並みに憧憬を抱いていた。
いっそのことだからはっきり書くが、オナニーを覚えたのは小学校五年生くらいのときから。
いろいろな妄想をしながら四~五年間、人並みにパンツの中を弄ってきたきたけど、やはり年齢が上がり、身近な友人たちが「実体験」としてこういうことを話題にしはじめると、それなりに『性』に対する思いは、リアルなものになってくる。
成長していく身体と、胸の中で高まっていく『性』への関心。
そして、毎朝の通学電車の痴漢たちはまるで……それを確認するかのようにわたしの身体を弄り続けた。
もちろん屈辱的で、理不尽で、情けなかったのは言うまでもない。
それよりももっとわたしの胸をムカつかせたのは……彼らの手つきだった。
“ほうほう、だいぶんおっぱいにも揉みがいがでてきたな”
“お尻のほうも、もうすっかり女になったんじゃない?”
“ふーん、こんなパンツ、履くようになったんだね”
“うなじもかなり、色っぽくなったじゃない”
“彼氏いるの? 彼氏にちゃと触ってもらってる?”
……毎朝わたしの身体に手を伸ばしてくる痴漢たちが、実際にこんなことを言ってきたわけではない。
しかし、スカートの上から、時にはスカートの中に入り込んでパンツの布越しに……あるいは、ブラウスを持ち上げている乳房に触れる手のひらから……痴漢たちが伝えてくるのはそんなメッセージだった。
わたしには聞こえた。
これはわたしが狂っている、というわけではない。
かなりの確率で、痴漢たちはそういうメッセージをわたしに……特に当時のわたしのように発達途上の肉体を持つ女子中高生たちに……手のひらでそんなメッセージを伝えようとする。
いちばん耐えられなかったのは……前に立った痴漢に、前面からスカートに手を入れられたときだった。
そういうことも、しょっちゅうある。
そんなときは……どんなにしっかりと太ももを閉じても……足の間に指を割り込まされて……あの部分を触られる。
上手くそこは防げたとしても……パンツの上から、前面の膨らみを捏ねられる。
“いやあっ!”
そんなとき、わたしはいつも目を閉じて……痴漢の指からその男の意思が自分の頭に入ってこないように……必死で心をOFF状態にしようと頑張った。
触られ ている感触よりも……もうその頃には、触られる、ということ自体への不快感に、身体が慣れてしまっていたのかもしれない。
男の意思が指を伝ってわたしの 身体に染みこみ、脳に伝わってくるのを必死にシャットダウンしようとした……。
“ほら、ここ……毎日自分で触ってんでしょ?”
“だから、こんなに身体がエッチに成長してんでしょ?”
“人に触られるのと、自分で触るのとどっちがいい?”
“彼氏はいるの? ……彼氏はこんなふうに触ってくれる?”
“気持ちいいんでしょ?オナニーしてるみたいな気分なんでしょ?”
“ほら……自分でしてるみたいな気分になってきたでしょ……濡れてきてんじゃない?”
濡れてない!!
気持ちよくなんかない!!
バッカじゃねーの!?
そんなわけないじん!!
心の中で、指から伝わってくる痴漢たちの意思と格闘する。
それがわたしの通学時間だった。とても消耗した。
ある日のことだ……もっとひどいことが起こった。
その痴漢は、後ろから触ってくるタイプの痴漢だった。
わたしはまた、心に蓋をして……その男が指から伝えてくる意志をしっかり遮断しようと、奮闘していた。
男はスカートをめくり、パンツの上からわたしのお尻の形や、弾力や、柔らかさを思う存分楽しんでいる。
と、いきなりその男の手が、パンツの脚の付け根の部分から中に侵入しようとしてきた。
“い、いやっ!”
わたしは慌てて、手を後ろに回してそれを退けようとした……それが罠だとは知らずに。
後ろに回した右手首を、いきなりがしっと掴まれる。
“?!”
ぐいっと引っ張られた先には……先端をぬめらせた熱い肉の塊があった。
“ひっ!!”
慌てて手を引っ込めようとしたけど、遅かった。
あっという間にわたしの右手は、その脈打つ肉塊を握らされ……男の両手がその上から覆いかぶさって、わたしの動きを封じた。
そして……男の手がわたしの手を握ったまま、激しく上下に動く……そんなに時間はかからなかった……あたしの手の平一杯に、男の熱い精液が飛び散るまでは。
……わたしは次の駅で走って降りた。
熱く、今や重くさえ感じられる男の精液を握ったまま。
そして、駅トイレに駆け込み、洗面台の蛇口をひねると……手を一心不乱に洗った。
洗っても洗っても……その液体の粘性はまるで糊のように強く、わたしの手から離れようとしない。
気が付くとわたしは、涙を流していた。
なんで……?
……なんでわたし、こんな目に遭わなきゃなんないの……?
手からなんとか精液を洗い流しても、手の中からあの液の熱さと粘り気は消えなかった。
放心状態でホームに立って次の電車を待っていると……ホームに貼られたポスターの文言が目に飛び込んでくる。
『痴漢は犯罪です~チカン、アカン!』
わたしは愕然とした。
そうだ……このポスターがすべてを物語っている。
男たちは……そう、痴漢をする男たちは……ここまで人の気持ちを踏みにじり、ズタズタに引き裂きかねないこの行為を、『犯罪』だとは自覚していない。
そうに決まっている。
だから……わざわざポスターにあんなことが書いてあるんだ。
フザケた語呂合わせのコピーと一緒に。
■
この衝撃的な体験があったのは中学三年生の頃。
その頃にはもう、女性専用車両に乗るようになっていた。
しかし時とタイミングによっては、その車両に乗れないこともある。
そして、わたしが通学に利用していた路線は、女性専用車両の時間帯を一日のうちで朝のラッシュに制限していた。
逃げ場がないこともある。
わたしの『痴漢環境論』を決定づけたもう一つの出来事が起こったのは、高校へ進学した1年目の秋口のことだった。
文化祭のクラス展示(内容は忘れてしまったし、読んでる皆さんも興味ないだろう)の準備で、帰りが遅くなり、いつもよりかなり遅い時間帯の下校だった。
案外、会社帰りの人々で車内は混んでいる。
中には酔っ払いもいた……わたしは当時、酔っぱらいのおっさんがが大嫌いだった。
今だって好きなわけじゃない。
酔っぱらったおっさんでいっぱいの夜の電車は最悪だ……。
酒の匂い、タバコの匂い、服に染みついた炉端焼きの匂い、そしておっさん連中の肉体自体から湧き出してくる死にかけた細胞の匂い……今となってはこれら に『適応』することができるようになったわたしだが、当時十六歳だったわたしは、そうしたさまざまな不快な匂いに包まれていること自体が、全身を撫でまわされているようで苦痛で仕方なかった。
途中のターミナル駅を過ぎたときだった。
いきなり、背後からスカートをめくりあげられた。
えっ、と思ったが、手はしゃかしゃか、とパンツの布地の感触を味わうと、いきなりパンツのゴムを持ち上げて、中に侵入してきた。
男の湿っぽい指が生のお尻の皮膚に触れる。
四の五の言わせない、素早い動きだった。
あっ、っと思って脚を閉じたけれど、もう遅かった、脚の間にねじ込まれた男の手を、わたしの太腿は逆にしっかりと挟み込んでいた。
最悪だ。
ヘトヘトに疲れ切っているときに、こんな目に遭うなんて。
男の指が……ゆっくりと動き始めて……入口をなぞった。
「や、やめ……」
腰を振って背後を振り向こうとしても、身体が思うように動かない、
もともと帯びていた湿りを男は指で掬い上げ……そしてさらに指を奥に進めてクリトリスを探そうとした。
ほんと、バカじゃないの?
クリトリス触られたら、どんな状況でも女は気持ちよくなると思ってんの?
疲れていたせいもあったし、本当に頭にきたこともあったと思う。
わたしは生まれてはじめて、怒りに我を忘れた。
『やめてください!!』と男の手を掴んで声を上げるところだった……
声を出そうと思ったその瞬間、突然、わたしの真横から、かん高い声が上がった。
「てめー何すんだよっ!!」
その瞬間、わたしは彼女の存在に気付いた。
年齢はわたしと同じくらい。わたしとは違う学校の制服を着ていた。
わたしより背が高く、すらっとしていてスタイルのいい、ちょっとキツめの顔をした美人だった。
その子が、背後に立っていた四十がらみの頭の禿げたデブ親父の左手を掴みあげていた。
と、視線を下に下すと……なんとそのおっさんの右手が、わたしのスカートの中に侵入していた。
なんてことだろう。
このおっさんは両手で、その子とわたし、二人を一気に痴漢していたのだ。
おっさんはささっと……先ほどとは同じ、目にも止まらぬ速さでわたしのスカートの中から手を後退させると、脂ぎった顔を歪ませて、もともとのギョロ目をさらに飛び出させて、一気にまくしたてはじめた。
「な、なんなんだよ! ……おれが何したってんだよ? ……ええ? ヘンな言いがかりつけないでくれよ! ちょっと尻に手が当たったくらいで、何大騒ぎしてんだよ! ……自意識過剰なんじゃねーの? ……誰がテメエみたいなクソガキの、ションベン臭いケツなんか触るかってんだ! ……短いスカート履きやがって、脚見 せつけといてよお! ちょっとケツに手が当たったら、男はみんな痴漢かよ? ……え、まじでてめえ、おれがてめえのケツ触った、って証明できんのかよ? ……できんのか? ……たまたまおれが後ろに立ってた、ってだけだろ? ……触ってたのが誰かなんて、どうやって証明すんだよ?」
「誰がどー考えてもてめーだろーが!」その女子高生は怒りで顔を真っ青にしていた。「おっさん、おい、わかってんな?……次の駅で降りろよてめえ! 駅員に突き出してやっから!」
「はん? 冗談じゃねえ!」おっさんが口の端に泡をためてやり返す。「おれがてめえのけつを触った、って証拠、いったいどこにあるんだよ? ……なあ、誰か、 第三者でそれを証明できる人間がいる、ってのかよ? ……ええ? ……なあ、この車両の中で、それを証明できる奴がいんのかよ? ……ええ? ……言っとくけど、 テメエがおれを駅員に突きだしたとして、もしそれがおれの仕業だって証明できない場合、てめえ、その責任をどうやってとるつもりなんだよ? ……おれには家 族もいるし、仕事もあるんだぜ? ……『間違いでした。ごめんなさい』で済ませられることじゃねーんだぜ? ……なあ、誰かいるか? ……おれがこのガキのケツ触ってた、っていうこと、証明できる奴、周りにいるか?」
おっさんはまるでシェイクスピア役者のように、一人でまくしたて続けた。
今から思うと……おっさんはきっと、こういう事態に備えて、頭の中で何回も何回も何回も何回も、こういうセリフを推敲し、記憶し、いざというときのためにまくしたてられるよう、準備していたのだろう。
「触ってたよね? ……誰か見てない? ……このおっさん、あたしのお尻触ってたよね??」
女子高生がほとんどヒステリックな調子で周りの乗客に問いかける。
彼女はこのおっさんがもう一本の手でわたしを痴漢していたことに、気づいていなかったようだ。
今でも……思わない日はない。
あのとき、彼女の味方をしてあげられるのは、車内でわたし一人だけだったんだ。
周囲の乗客は……ほとんどがサラリーマンかOLで、ほとんどが酔っ払っており、しかも、面倒なことには巻き込まれたくない、という顔をしていた。
全員が、彼女と……おっさんから目を背ける。
「ねえ、あんた!」その女子高生があたしに言う「触ってたの、わかるよね?証明してくれるよね?」
「えっ………」
わたしは口ごもってしまった。
そして……何も言わず、俯いた。
同意からも否定からも、わたしは逃げた。
「……ほれ、見ろよ! 誰も、誰も証明できる奴なんていねーじゃないか! ……ははん……さてはお前、アレだな? ……おれに痴漢だの何だのと言いがかりをつけて、ゼニでも強請ろうって魂胆なんだろ? ……いかにも最近のメスガキの考えそうなことだぜ!……何だよ、その短いスカートに茶髪はよ! おまけにピアスなんか空けやがってよ! ……それで、男を誘って、触ってきたら騒いで、小遣いでも稼いでんだろ? ……おれは、テメエに触ってもいねーぜ! ……悪かったな! アテが外れたな! ……おれは自分で言うのも何だが、交通違反ひとつしたことねえマジメな社会人なんだよ! テメエは何だ? ……チャラチャラしたメスガキじゃねーか! 何の証拠もなしに出るとこ出たとして、どっちの言い分が信用されるかなあ? ……おれは裁判で戦うつもりあるぜ! みんな、おれがどんなにまともでマジメで誠実な人間かは、おれの友達がよーー く知ってる。てめえに勝算はねえぜ!」
“ほんとうに誠実な人間は自分のことを『誠実だ』なんて言わないよ……”
当時のわたしはそう思いながら、心の中では涙をぽろぽろ零して泣いていた。
なぜ、あのとき、彼女に味方してあげなかったんだろう……?
わたしだけが、彼女の屈辱と怒りを共有できたのに。
なぜあのとき、俯いて黙り込んでしまったんだろうか……?
次の駅で、女子高生はひとりで降りて行った。
降りざまに、彼女が車内を睨んだ。
憎しみと怒りと屈辱のせいで、涙が一杯に溜まった目で、おっさんと……わたしたち乗客を。
一瞬、彼女の視線がわたしの視線を、まともにとらえたような気がした。
たぶん、気のせいだが。
ドアが閉まった後も、わたしはそのまま消えてしまいたくて仕方がなかった。
背後には、あのおっさんがまだいて、亢奮のせいか、ふしゅー、ふしゅーと鼻で息をしている。
おっさんお手が、再びわたしに伸びてくることはなかった。
わたしはこのときに完全に悟った。
“この世界は……”唇を噛んで、頭の中で言葉を続ける。“少なくともこの満員電車という世界は……痴漢たちのものだ”