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セルジュの舌/あるいは、寝取られた街【5/13】

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 その夜、恵介は3回も自慰をした。

 恐怖に打ち震えながらも、その一日に自分の目が見たこと、聞いたこと……そしてもちろん和男から与えられた刺激のはけ口を、かりそめの快楽で逃がすしかなった。

 1回目に負けないくらい、2回目に吐き出したものも大量だった。

 それでも収まらず、衰えを知らない自らの分身が「まだヤ まだイけるやろ”」とセルジュの声でさらなる解放を求めてくる。

 改めて握り直し、また励み始める。

(……だめだ……こんなことしてちゃだめだ……)

 和男の部屋を満たしていたのと同じ異臭が、自分の部屋にも立ち込めているような気がする。
 恵介は自分の手のひらに唾を吐くと、ベッドの上に仰向けに横になり、ぬめる手で再開した。

(……い、いやだっ……でも……)

 和男の舌の感触を思い出す。
 そして和男の言葉を思い出す。

『ほんとうはこんなもんじゃないんだぜ? ……セルジュの舌は、巻きついてくるんだ』

 ……巻きついてくる?
 ……こんなもんじゃない? 

 その疑問符と、和男の言葉に対する淫らな好奇心が、さらに恵介を昂ぶらせていく。

「あっ……だめ、だめって……か、かずお……じゃなくてセ、セル……」

 迫り来る射精感に、ベッドの上の恵介の身体が弓なりに反り返る。
 と、そのときだ。

「げほん、ごほん」 ……ドンドン

 はっと、手を止める……が一瞬遅い。

「あうっ!」

 弾けた。
 その日3回目の射精だった。

 それでも量はすさまじく、Tシャツを捲り上げてさらけ出い平らな腹の上に、大量の飛沫しぶきがほとばしる。

 壁の向こうは、妹の千帆の部屋だ。
 壁を蹴るか、叩くかしたのは、間違いなく千帆だろう。

 恵介は、しばらく身動きができなかった……息を止めて、叩かれた壁の部分を見つめる。

 それから、千帆からは何の反応もない。

s 和男の部屋と同じ匂いの中で、息を潜め続けていると……いつしか眠りに落ちていた。

 翌朝、恵介はいつもより早めに家を出た。
 朝食の席で千帆と顔を合わせたくなかったからだ。

 

 その日の昼休み、恵介は担任の女性教諭、江藤をまた廊下で呼び止めた。

「ん?」屈託のない笑みをたたえて江藤が恵介を省みる。「どした?」

「先生……きのう、和男の家に行ってきたんだけど……」

 恵介は江藤の笑みがまぶしかった。
 世の中の明るさのみで育まれたような笑顔。
 一晩にしてこの笑顔に顔向けできないような、後ろめさを抱え込んでしまったような気がした。

 しばらく顔を背けていると、江藤のほうが回り込んで背を屈め、恵介の視線の中に入ってくる。

「……なにか……あったの?」

「はい……ありました。だれに相談していいかわからなくて……」

 恵介の言葉に嘘はなかった。

「立ち話じゃ……話せないような内容のことかな?」

「はい……」

 そう言って恵介はうつむいた。
 と、江藤がぽん、と恵介の左肩を叩く。

「じゃあ放課後、相談室の予約を取っておくから……わたしに話して」

 ありがとうございます、と感謝の言葉を述べようとして顔をあげたら、江藤はあの魅力的な尻を揺らしながら、鼻歌交じりに職員室のほうへ歩いていくところだった。

 
 放課後、恵介と江藤は向き合って座っていた。
 恵介がすべてを語り終える頃には日はすっかり傾き、夕陽が狭い相談室内を照らしていた。

 その日の夕陽は不気味なほど赤く、和男に聞かされたセルジュの赤く光る窓を連想せずにおれない。
 今、江藤の顔からはいつもの微笑みは消えていた。

「ほんとうの……話なのね?」

 江藤のそんな真剣な表情を見るのは、恵介も初めてだった。

「嘘じゃ……ありません。信じられないかもしれないけど」

 確かに恵介は、江藤に昨日のコンビニで見たことから、和男の部屋で聞いたこと、そして和男の家庭で起こっていることのすべてを話した。

 もちろん割愛した部分もある。
 和男にズボンとパンツを下ろされて秘所をもてあそばれたことや、昨夜そのことを思い出しながら3回も自慰をしたこと……そしてそのことをどうやら実の妹に悟られたらしいこと、など。

「友里江ちゃんに、裕子ちゃん、それに和男くんとそのご家族……あと、そのコンビニ店員の女の子。君がきのう見ただけでも、少なくとも六人がその……セルジュさんから被害を受けてるってことね?」

「それだけじゃありません……たぶん、あいつは……セルジュはもっと……」

 言葉を継ごうとする恵介を、江藤が二本指を挙げて制した。

「本来なら、警察に相談しなきゃいけないことかもね……でも、その被害者にうちの生徒が関わってるとなると……それもわたしのクラスの生徒がかかわって いるとなると、一旦はこの問題、わたしが預からなきゃね……校長先生に相談してもいいけど……今日は出張だからなあ……」

 そこで江藤は豊かなの前で腕を組んだ。
 こんな時なのに、恵介は腕に押しつぶされた胸を凝視してしまう。
 
 やはり昨日から、自分は少しおかしい……

「どうするんですか?」

「わたしが、セルジュさんに会いに行くわ」

 思わず、恵介は椅子から立ち上がっていた。

「ぜ、絶対にやめたほうがいいですっ! あいつは、まともじゃないんですよ? あいつには常識も何もないんです! わけのわからないガイジンなんです! 話が通じるわけありません!」

「恵介くん、そういうサベツ的なこと言っちゃダメ」

 そう言って江藤は厳しい表情で親指を突き出し、“メッ”の仕草をする。
 だめだ……この人は事の重大さをわかっていない。恵介は焦った。

「先生ひとりで会いにいくなんて無茶です! あいつは狂ってるんです! ……ていうか……あいつと関わった人間は、みんなあいつの思い通りになっちゃうん です! あいつは、そういう奴なんです! 先生みたいな若くてキレイな女の人が、あいつにひとりで会いに行ったとしたら……」

「えっ ……やだ、ホメられちゃった」

 江藤が顔を挙げる。
 その顔がぱあ、と明るくなった。いつもの笑顔だ。

 しまった、と恵介は口をつぐむ。余計なことを言ったかもしれない。

「あの……その、だから先生、セルジュにひとりで会いにいくなんで、絶対ダメです……時間が掛かってもいいから、校長でも警察でも誰でもいいから、セルジュがあの家でやっていることを相談してから……」

「それじゃ、時間がかかりすぎちゃうでしょ。だって今、まさに、うちの教え子が被害に遭ってるんでしょ? ……こうしちゃいられないよね……今すぐ学校を出て、セルジュさんの家に行く。決めた。よし。そうしよう

 だめだ。と恵介は思った。
 
 江藤が真面目で、仕事熱心な教師なのはわかる。
 でもこの人は、セルジュがどんなに危険なやつなのか知らない。

 さっき思わず口に出してしまったが……江藤はじゅうぶん、女性として魅力的だった。

 自分でもそれを自覚しているのかしていないのか、14歳の恵介の目から見ても彼女は自分が魅力的であることに自覚的ではなく、あまりにも無防備に見えた。

 こんな女性が、たったひとりでセルジュに会いに?
 とんでもないことだ。

 カッターナイフ一本で武闘派ヤクザの組事務所にカチコミかけるようなものだ。

「じゃ、じゃあおれも一緒に行きます! ……一緒に行かせてくださいっ!」

 いったい、自分は何を口走っているのだろう、と恵介は思った。
 でも江藤は、いつもの屈託のない笑顔で言った。

「わたしを守ってくれるの? ……頼もしい教え子を持って、先生しあわせ♪
 

 恵介はまたも自分から、恐ろしい状況に足を踏み入れてしまったことに気付いた。

 放課後。
 恵介は、担任の江藤が運転する軽自動車の助手席にいた。

 江藤が恵介を同道させたのは、セルジュの家の在り処を知らなかったから、という理由が大きい。

 江藤は昨年、恵介たちの通う中学に赴任してきたばかり。
 この小さな町に必死に馴染もうとしているようだったが、住人たちや子供達がヒソヒソと陰口を叩く異端者・セルジュに関しては何も知らないようだ。

 和男にしてもはっきりとその場所を知っているわけではなかった。
 ただ小学校の頃から噂で、たびたび耳にしていただけだ。

 まあこんな小さな町の「西のはずれ」にある一軒家、といえば、だいたいどの辺りかは分かる。
 訪れたことはなくても、ナビくらいの役割は果たせる。

「これまで……職員会議とかで、セルジュのことが話題になったことはないんですか? あんなに明らかな不審者なのに……」

「うん? そうなの? ……確かに職員会議じゃ不審者の情報共有はよくやってるけど、あくまで学校とか通学路周辺の話ばっかだし……その謎のフランス人の名前を聞いたことはないけどなあ……」

 左一面にタマネギ畑、右一面にキャベツ畑という田舎の一本道に車を走らせながら、江藤は鼻歌を歌っている。
 カーラジオから流れてくる「SEKAI NO OWARI」のメロディに合わせてハミングしているようだ。

 ほんとうに大丈夫だろうか?
 一体どうなるのだろう?

 どんなことが待ち受けているか、この人は理解しているのだろうか?
 行く手にはまさに世界の終わりが待っているかもしれない。

「“謎のフランス人”って……先生、セルジュのこと、どんな奴だと思ってるんですか?」

「ううん? そーだねー……こんなイナカの外れのお屋敷にフランス人がひとりで暮らしてんでしょ? 結構ミステリアスな感じかなあ……変人貴族、って感じ?」

 ダメだ。
 やはり江藤は事の重大さをわかっていない。

 さっき相談室では深刻な表情をしていた江藤だが……いまは少女のように冒険を楽しんでいるようだ。
 たぶん、友里江や裕子も……はじめはそうだったのだろう。

「“貴族”じゃないです。しかも“変人”じゃなくて“変態”です。しかも、犯罪者です。コンビニで堂々と、鼻歌を歌いながら店の商品を片っ端から万引きしていくような奴なんですよ?」

 クスっ、と江藤が笑った。

「大きな声じゃ言えないけど、年に何人、うちの学校の生徒があのコンビニで万引きして補導されてるか知ってる? ……まあ当然、万引きは犯罪で、いけないことだけど……ちょっと恵介くん、大げさじゃない?」

「大げさじゃありません! だってあいつは……コンビニのバイトの女の人と……」

「え、結構……きみって、保守的なんだね? 恋愛は自由でしょ?」

 恋愛? ……店の中のものを手当たり次第に万引きして、カウンターを預かっているバイトにいきなりディープキスをするのが恋愛?

 そんな。
 そんなはずがない。

 やっぱりダメだ。恵介は自分が江藤に語った言葉が少なく、弱かったことを痛感し、激しく後悔した。

 相談室で時間をかけて丁寧に話し、セルジュがいかに危険な人物かを力説したつもりだった。
 なのい江藤は、自分が何に立ち向かっていこうとしているのかさっぱり理解していない!

 やはりすべてをありのままに話すべきだったろうか?

 つまり……和男に押し倒されてズボンとパンツを脱がされ、口で……あんなことをされたことを割愛せずに。

 友人が、そこまでの狂気に追い込まれているのに。

 その部分を割愛したことで、江藤の警戒心を十分に喚起することができなかったのかもしれない。

 そうだとすれば……これから行く先で自分の担任である女性教師と、そしてこの自分になにが起こっても……すべては自分のせい、ということになる。

「先生、やっぱり……やめましょう」

「え?」

「引き返しましょう……やっぱり、ダメです。危険すぎます」

「なに? 今さら……ひょっとして、ビビっちゃってたりして?」

 冗談めかして言う江藤の態度に、思わず恵介は我を忘れた。

「怖いですよ! ええ、はっきり言います! ビビリだと思われても構いません……あいつは危険なんです。あいつは悪魔なんです。ケダモノなんですっ!」

「ちょっと……どうしたの? そんなにコーフンしちゃって……」

「先生は知らないんだっ!」

 運転席の江藤のほうへ急に身体を向けようとしたので、シートベルトがロックされて肩に食い込んだ。

「し、知らないって……きみだって、そのセルジュって人のことをよく知ってるわけじゃないんでしょ? ……恵介くんが見たっていうのは、そのセルジュって人が、コンビニで万引きをして、バイトの女の子とキスしてたってだけでしょ?」

 それだけで十分じゃないか、と思ったが、やはり江藤には伝わっていない。

「……でも、だって、あいつは……」

「あ、あれじゃない? ほら、右手に見えてきたやつ」

 佳祐はフロントガラスを通してそれを見た。
 
 
 六角形の塔の上に、風見鶏が廻っている。
 風見鶏の上には避雷針がアンテナのように伸び、曇り空を突き刺そうとしていた。

 そういえば、相談室にいたときは照りつけた夕陽は沈み、暗くなった空を厚い雲が覆っている。
 車が近づくにつれてその全貌が視界に飛び込んできた。

 ペンキが剥がれた壁が目立つ、木造二階建ての西洋家屋。
 家は六角塔を中心に左右対称に作られている。

 塔の真下、二階部分にはバルコニーのようなものが見られる。
 二階の窓はすべて長年風雨にさらされた様子の雨戸で塞がれていた。

 敷地は結構な広さだ。

 和男の話どおり、いたるところに使い古したタイヤや廃材やゴミ、それに異様な数の自転車が散乱している。

 多分、セルジュが町のい たるところから無断で拝借しては、家まで乗って帰り、そのまま捨てたのだろう。

 錆色の車も見えた。
 奇妙な形をした車だった。
 流線型でスタイリッシュだが、 後輪がボディの中に隠れている。

 その姿は恵介にゴキブリを連想させた。

「ろ、66年式のシトロエンDS19パラスよ、あれ……」

 意外なことに、江藤はカーマニアだったようだ。 
 ……しかしこのおぞましい敷地を前に、見るところはそこだろうか?

「あっ……」

 恵介は一階の窓に目を止めた。塔をはさんで家の右端にある窓だ。

 段ボールで塞がれている。

 そこから赤い光が漏れ、光の中で友里江の上半身がくねっているのが目に浮かぶようだった。
 和男が遭遇したという異形の犬は……どうやら見当たらない。

 敷地の数メートル手前の歩道の脇で、車は停車した。

「……さて、と……恵介くん。きみ、ちょっと車の番しといてくれる?」

 サイドブレーキを引き、エンジンを切った江藤がシートベルトを外し、バックミラーで唇をチェックしている。
 そこで恵介は、はじめて江藤が珍しくピンクのリップをつけていることに気付いた。

「……せ、先生……ほ、ほんとに、一人でいくつもりですか?」

「だって恵介くん、きみ、怖いんでしょ? ……震えてるよ」

 そう言われて恵介は、確かに自分の膝が震えていることに気付いた。
 それはあまりにも……はじめて見るはずのセルジュの家が、想像したとおりだったからだ。

「だ、だめです、先生……ぜったいにやめたほうがいい……ほんとに、ほんとにあいつはヤバいんです」

「でもさ、さっきいろいろ話を聞かせてもらったけど、ほとんどがきみ自身が見たことじゃないでしょ? ……ほとんどは、和男くんや友里江ちゃんに聞かされた話や、みんなが噂していることばっかりじゃない?」

「で、でもおれ、この目で見たんですよ? あいつが和男の家で……その……和男のお母さんと……その、なんというか……」

アノときの声を聞いた、ってやつ?」

 あっさりと言われ、恵介は言葉につまる。

「そうです! 聞いたんです!」

「じゃ、見てないじゃん」

「で、でも……あいつの父さんが……まるでゾンビみたいになってて……それは自分の目で見ました! と、とにかく、とにかくあいつはヤバいんです! ぜったいに危険です!」

「あのね、わたしは……自分の目で確かめて、相手と話してから判断したいの」

 江藤がそっと恵介の肩に手を置く。

「先生……」

「だから、きみはここで待ってて。心配しないで……だいたい、そのセルジュって人、いま留守かもしれないじゃん? ……ここは、先生に任せて。いい? ここにいるんだよ?」

 そう言って笑うと、江藤は車から降りてしまった。
 そしてスカートの皺を気にしながら、肉感的なを揺らして……セルジュの家に近づいていく。

 ぬかるんだ土にパンプスの踵が沈み込み、黒いストッキングに包まれた江藤の脚が何度も引きつる。
 よたよたとセルジュに近づいていく後ろ姿が頼りなかった。

 いかにも頼りなかった。


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