ピッチャー増田

久しぶりに批判的な文章を書く。

8月6日 巨人対阪神 八回裏 阪神か11対0と大量リード。

巨人のピッチャーに告げられたのは、野手の増田。

まだ、巨人には、数名のピッチャーが残っているのにもかかわらず。

その後のメディアでの賛成、反対の応酬。

反対派には、OBの堀内さん、伊原さん

「巨人という伝統あるチームがこんなことをしてはだめだ。」

それに対して、

「巨人がどうこうとか」

「メジャーではよくある」

などの意見を述べたダルビッシュ選手や上原さんが賛成派。

「いつの時代ですか?」

みたいなものもあったか。

でも、そうじゃなくてそもそものスポーツの本質やスポーツマンシップの部分の話で議論になるのではないのか。と、私は思う。

スポーツはもともと遊び。

遊びは、強制されるものでない。

そして、勝った負けたで遊んで、

そもそも勝とうが負けようが大事にされてきたのは楽しむことにある。

同じ競技をする仲間と、全力で勝敗を競うことで楽しみ合う。

そんな、相手をお互いにリスペクトする。

そういうものがスポーツだ。

オリンピックも同じだろう。

そもそも仕事ではない。

しかし、その遊びがどんどん教育界に取り入れられていく。

スポーツを通して学ぶ、スポーツマンシップという考え方に、教育的意義があるからだ。

審判、味方、相手を尊重すること
勝つことを目指して全力で闘うこと

プロスポーツは、娯楽を与える仕事でもあるが、教育的な視座ももってほしい。

ピッチャー増田をみて、子どもたちがどう思ったか。

プロとしてふさわしかったか。

スポーツマンとしてふさわしかったか。

あの采配に胸を張って君たちもこのように生きなさいと言えるのか。

別に巨人だからとか、

新しいとか古いとか、

合理的だとか生産的だとか、

そういう問題じゃない。
選手として、プロスポーツとして、どこにプライドをもつのか。
スポーツってそもそも何なのか。
何を大事にしたいのか。
問いたい。

橋上さんが
「野村監督が生きていたら何と言うだろう」
と、言われていた。

何と言うのだろう。

少なくともぼくは、教育のプロとして、子どもたちにあの場面を見せたとしたら、
「これは、良いことだと思う?」
って聞く。

じゃあ、打席に入った選手の視点から考えてみよう。

応援しているファンの視点から考えてみよう。

守っている野手の視点から考えてみよう。

スポーツの歴史から考えてみよう。

正解はない。強要するつもりもない。

ただ、大衆の思考が、プロスポーツの勝敗に関する合理性や生産性の視点からのみ語られることに若干の違和感と寂しさを感じる。

スポーツの良さはどこへいってしまうのかと。