茨城県近代美術館 中村彜展
by noriko
今日私はどの絵をこの目に焼きつけて帰ることになるのだろう?
ここは茨城県近代美術館。中村彜展が開催されていた。没後100年。順路にしたがってたくさんの絵を観てきて、いよいよ残りわずかというところに差しかかる頃、ふとそんな言葉が頭をよぎった。と同時に私の目に止まったのは、白い花瓶に生けられた色とりどりの花。何の花だろう?百日草のようにも見える。庭に咲いていたのだろうか?夏から秋にかけて長く咲き続けるこの花に、何か想いがあったのだろうか?
小さな絵だ。私が今日観たかった絵は「これだ」と思った。たぶん私の心に残り続ける絵。
普段、展覧会で「この絵をしっかりと目に焼きつけておこう」とはあまり思わないのだが、今ほとんど同時に飛び込んできた「言葉と絵」。
病に苦しみながら絵を描き続けて、もしかしたら最期の絵かも知れないその絵は、そっと静かに、「永遠に傍に寄りそうよ」と言わんばかりに、やさしく微笑んでいるかのように思えた。彜が自身に向けて描いたと思えてならなかった。
中村彜を知ったのは、確か水戸の郷土かるただった。地元出身の画家として名前だけは覚えていた程度の知識。そして絵を初めて観たのもこの美術館の常設展だったと思う。
今日は、茨城県民の日で、無料で開放されていた。企画展として約120点にも及ぶ絵が無料で観られるなんて、ありがたすぎる。しかも茨城県民だけでなく誰でも、というのが嬉しい。分け隔てなくて。
茨城県民の日に、水戸出身の画家の展覧会ということが深く胸にきざみ込まれたような気がする。「この日」を選んで出かけて行くことの豊かさを味わう一日となった。
美術館を出ると、もうすっかり秋。今年は紅葉も遅かったが、色づいた葉が華やかさとこれから冬に近づいていく寂しさとの間でゆらゆら揺れていた。数日前に、散歩の途中で百日草を見かけていたばかりなのに。
by reiko
中村彝展に行ってきた。もともと見に行く予定で考えていたところ、県民の日に入館料が無料になると知って、その日に合わせることに。美術館には足を運ぶ方だと思うけど、通常であれば入館料を払う展示を、無料で拝観させていただくのは初めてな気がする。なんだかとても贅沢な感じがして、県民として受けられるサービスを素直に受けると、ありがたさを覚えるものなんだなと思った。こういう恩恵の機会を華麗に無視しておいて、口先ばかりのいやしい文句を言ったりしないようにしよう…と自分を戒める。(笑)
彜さんの作品は、どれも「質量」があるように感じられた。重厚感とでも言おうか。
自画像や肖像画がいくつもある。そこに描かれた人物は、生命力があり、存在感を纏いながら、額縁の中に佇んでいる。その様子が魅力的で、当時『自分も肖像画を描いてもらいたい』と思う人が、それなりにいたのではなかろうかと思った。
それとはまったくズレた感性になるが、彝さんの自画像のひとつが、ナオト・インティライミ氏に似ていた。あ!似てる!と、なぜか妙にテンションが上がり、母に告げたら、母も似ていると頷いていた。
彝さんはレンブラントやルノアールやセザンヌなど、西洋の画家たちからよく影響を受けていたらしい。感銘を受けると、素直にその手法を真似て、描き方を研究したらしく、展示されていた絵画も、ころころと印象が異なる作品が出てくる。
私は人生のある一時、独自の個性やオリジナリティーが大事だと思って、誰の真似でもない、誰とも違った私らしさとはなんだろう…?なんてことを考えていたことがあったが、彝さんの作品の変遷を眺めていると、あれはくだらない哲学だったなと思う。
素晴らしいと心が思うままに、その西洋画家を絶賛し、模写してみて、手法を捉えては作品を作る。彜さんが影響され、融合して、生まれた作品たち。そこに彝さんの魂の輝きが見えるような気がした。