歯医者を吹き抜ける「あいてください」の軽やかさについて
定期検診のために歯医者に行った。歯医者が好き、ということもなかなかないと思うのだけれど、自分は数年前から通っているその歯医者が好きだ。
こぢんまりとしたサイズ感、院内の清潔感や明るさ、日当たりと風通し、若い先生が淡々と確実に事を進めてくれるのも好き。そして何と言っても立地が良い。目の前が田んぼ。遮るものは何もない。
4月のこの日も、網戸からは夏の予感さえ感じさせるふくよかな風が心地よく吹き込み、院内を軽やかに通り抜けていた。気持ちの良い曲線を描く診察スペースの椅子に深く腰掛けながら、心地良さにしばしぼーっとした。
「それでは歯の状態をチェックしていきますねー」
うしろからの声で我に返る。
一通りの検診とクリーニングは歯科衛生士さんがやってくれ、最後に先生が診てくれる、というのがいつもの流れ。
椅子が電動で倒され、ライトの位置が調整される。無防備にさらけ出される前半身。パブリックな場で世界に対してこんなに無防備な姿勢になるのは、温泉を除けば歯医者と美容院の洗髪の時くらいかもしれない。
そこで歯科衛生士さんがこう言った。
「はい、あいてくださーい」
そういえば、歯医者では必ずと言っていいほどこの言葉を聞く。口を開けながら改めてそう思った。「(口を)あけてください」ではなく「あいてください」。
なんだろう、そう言われるとなぜかくすぐったいような、どこか心地良いような気がする。
なぜそういう感じがするのか。
大方、「あけてください」よりも命令している感が弱まるから、というような理由でこの表現は普及したのではないかと推測する。
でも実際に言われた身として至極心地良いような感じがするのには、何かもう少し深めの理由があるような気がしてならない。
そのあと歯茎をちくちく刺されたり、実物を目では見たことのない(目をつぶっているから)、よくわからないキュイーンな器械で歯を磨かれたり、口腔内を行き交う半年に一度のお祭り騒ぎをなすがまま、なされるがままにしながら、訥々と考えた。
「口をあけてください」と言う時、相手の人間(や動物)に対して、「あなたが所有し随意に運動を為すことのできるところの「口」というものを開けるよう、あなたが仕向けてくれ」と言っている。
その相手には一個の意志を持った人格が想定されていて、その者は当然口を開けるという行為が意のままにできるものと思われている。
一方で「あいてください」と言う時、その宛先はそもそも人間(や動物)そのものではないように聞こえる。
この場合宛先はむしろ「口」だろう。
「口さん口さん、あいてくださいな」という感じ。「ひらけ、ゴマ」のテンションである。
歯科衛生士のお姉さんは、自分ではなく自分の口に向かって呼び掛けている。
そのように思えることが、先の居心地の良い感じに繋がっているような気がする。
ところで、「随意筋」と「不随意筋」という言葉がある。
腕や脚など、身体を動かす際に使われる骨格筋は意識的に動かすことができるので随意な筋肉、随意筋。心臓をはじめとする内臓や血管の筋肉は、意識的に動かすことができないので不随意筋。
この分け方に、昔から個人的に興味がある。
身体は紛れもなく自分という人間の一部のはずなのだけれど、自分で動かそうと思って動かせない不随意な部分がたくさんある。
生命活動の根幹を担っている心臓の筋肉からして、まったくもって制御することができない(制御できたら逆に怖い、とは思う)。
このことはなんだか不思議でもあり、当然でもあり、一つの鍵でもあるような気がする。
一般に随意筋とされる部位であっても、「どの程度随意か」というのは人それぞれである。
先日書店でジャケ買いして読んだ伊藤亜紗さんの『どもる体』(医学書院、2018年)という本では、吃音という状態を通じてそのことがよくよくわかる。
吃音を持つ人たちが、ともすれば暴走したりフリーズしたりする自らの身体と上手く付き合っていくための工夫は、まさに「口さん口さん、あいてくださいな」と同じような地平にあるように思われる。
また逆に、自分の一部でさえないのに、自分の一部であり随意である、と錯覚するような場面も、現代にはたくさんある。
たとえば車。車を運転していると、車全体が身体の延長であるように感じる瞬間がある。ハンドルを握る腕の微妙な動きやアクセルを踏む足の細かいニュアンスにも車は敏感に応えてくれる。歩行者として車に相対する際などは特に、車自体がある種の人格であるように感じられる時がある。フロントガラスの向こうの運転者ではなく、車全体を「相手」として見ている感覚。車というハコの中で複雑に働いている機構をすっ飛ばして、運転する人間がその一部である車を随意に動かしている、というような認識がそこにはある。
ウェアラブル端末やApple Vision Proのようなデバイスの登場で、こういう感覚はますます強まっていくのかもしれない。随意に見えて随意ではない、そういう領域が広がっているように感じる。
元の話からだいぶ離れてしまったけれど、随意筋と不随意筋、という概念は、一人の人間が意のままにできる物事の範囲というのは思っているほど広くはなく、自分の内部でさえ、決して随意ではないのだ、ということを折りに触れて思い出させてくれるから好きだ。
歯の検診の工程は順調に進む。
時々椅子が元の角度に戻されて、傍らの洗面台でうがいをする。空のコップを置くと自動で水が補給されるシステム。コップを置くだけで一定量の水が出る。これは嬉しい。ついでにちょっと楽しいし可愛い。歯医者でしか見たことがないような気がするけれど、このシステムは色々と応用できると思う。料理関係とか、調乳ポットとか。
うがいが終わるとまた椅子が倒され、「あいてくださーい」がくる。
はーい、とまた口を開けながら、ちょっと他人事っぽいんだな、と思う。
「あいてくださーい」と言われて、自分も自分の口に対して「あいてくださーい」と心の中で言う。あいてくれるかなー、さっきはあいたけど、今度はちょっと嫌がるかもなー。どうかなー。
ああその他人事感、無責任感、ちょっと心地良いかもしれない。と思う。
思うに、現代日本に生きていると、身体ごと「責任ある一人の人格」として扱われることがあまりにも多い。
小学校の「きをつけ」「まえならえ」に始まり、授業中立ち上がってはいけない、文字は書き順通りきれいに書けないといけない、試験中は90分間静かに試験用紙と向き合い、レストランではお行儀よく、劇場ではどんなに心動かされても身じろぎさえ許されず、駅の雑踏の中で立ち止まると邪魔だと言われる。お客様対応で上擦った声を出したらマイナス、プレゼンで声が震えたら印象が悪い、「滑舌良く」「ハキハキと」喋ること。
身体を完璧に制御し、TPOに合った動かし方をすることが常に求められ期待されている。上手くできないと「その人の責任」となる。
先程見たように、完全に随意になる身体なんて実は幻想で、人によっても大きく差があるにも関わらず。
「体調管理」も同じである。
体調などというのはほぼ「不随意」の領域だと自分は思う。風邪をひきやすい人、朝お腹を壊しやすい人、雨が降る日は起き上がれない、頭痛に生理、気圧、花粉。
人それぞれに身体の持ち物はあって、一人一人の身体は当然に違っていて、これはもう「意志」の力ではどうにもできない。
それでも「体調管理」をしっかりしてこそ一人前という前提の元、他人以上に体調を崩せば「管理が甘い」「予防が足りない」「意志が弱い」「脆弱すぎる」などと言われる。まるで体調が随意に「管理」できるものであるかのように。
はっきり言ってそれは幻想だと思う。
毎朝8時半になれば学校や職場に皆が雁首揃えてご機嫌よう、などということ自体が奇跡的なこと、というか、それを前提として成り立つシステムは、それこそ「甘い」し「予防が足りない」し「脆弱」である。人の身体というものをあまり甘く見ないでいただきたい。身体は、ままならないのである。
ついでに言えば身体だけでなく個人の意志や選択までもが完全に制御されうるものとして扱われ(「自由意志」)、その結果に対して責任を負わなければならない(「自己責任」)、という空気がますます強まっていることに対しても、大きな疑問、有り体に言って反発を感じているのだけれど、これは深入りすると長くなるのでここではやめておく。
「あなたの身体なのですから当然あなたの責任でコントロールして、他人の迷惑にならないよう、適切に振る舞えますよね?」という圧。
歯医者でかけられる「あいてください」という言葉には、全然意図されていないのかもしれないけれども、この圧をすり抜けて舞い上がるような軽やかさがある。
自分の一部である口という器官を、ままならないこの身体を、人格とは切り離して肯定されているような感覚。これがあの心地良さ、力が抜けるような感覚の手がかりなのかもしれない。と思った。
歯科衛生士さんに替わって、淡々と事を進めることに(自分の中で)定評のある若い先生にチェックしてもらうと、「大丈夫そうですね、よくケアできています」と言われた。これは嬉しい。今日は何もなく帰れる、そう思って口を閉じようとした矢先、
「いや、待ってください。もう一度あいてください」
自分の口はそれを拒むことなく開き、下の歯の奥の方、歯と歯の間に虫歯のなりかけが一箇所だけ見つかった。
その場で治療してしまいましょうというので、実物を見たことがない(目をつぶっているから)、よくわからないゴリゴリな器械によって削られる痛みに耐えることとなった。
身体はままならないんだとかあれこれ言っても、予防するに越したことはない。もっとフロスを頑張ろう、と自分に言い聞かせるのだった。
夏を感じさせる軽やかな風は、相変わらず田んぼに面した網戸から吹き込んでいた。