書いてみる、そして生きてみる
書いてみる。何を書くかは知らなくても、書いてみることはできる。とりあえず書きたいときは、書いてみればよい。
歌ってみるとか、踊ってみるとか、歩いてみるとかも全部そうである。何を歌うのか、それが下手か上手か、どこに向かっているのか。それらはすべてわからない。しかし、それでも歌うことはできる。踊ることもできる。歩いてみることも、他のどんなこともやってみることができる。
それは、とてつもなく尊い権利だと思う。何かをする際には、それがいいとか悪いとかを問わずにそれをすることが許されている。
もちろん、やってみた結果、それが悪かったということは起こり得る。事故だってある。しかし、そうだからといって、「やる」ことが否定されるわけではない。むしろ、悪いことが起こったら、今度はそれを肯定しなければならない。
やる前にいろいろ考えることもある。考えているときは、やるかやらないかで迷っているよりも、やったことの結果を受け止める覚悟ができていない時が多い。やらなくてはいけない状況でも、考えてしまうのは「やるかやらないか」は実はたいした問題ではないからだ。
それよりも、どんなことが起こるかわからない未来を受け止めることの方が難しい。逆に、「今やること」ほど確かなことはない。現に、迷っている時であっても、「今まさに迷っている」のである。迷っている時にも、確かにそこに「私が迷っている」という事実を掴んでいる。
未来がわからなくて怖いのであれば、あまり大股で歩く必要はない。小股で思いきれる歩幅で進んでゆけばいい。
書いてみることは、その中でもよっぽど慎重に歩くやり方だと思う。書いたところで人に見せる義務はない。思いついたことをそのまま書いてみればいい。思っても見なかったことが明らかになってくる。自分が何を考えているのか整理されて、落ち着く。それでも足りなかったら、また書けばいい。
しかし、書いているばかりでは1日は終わらない。だから、いずれ何かをしてみなくてはいけない。していくうちにわかっていくだろう。その場その場で起きたことを受け止めつつ進んでいけばいいだろう。書きながら内容がわかっていくように、生きていくうちに生きることがわかっていくだろう。