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「誰にでも」を諦めて、「誰か」へ伝わる文章を。
わかりやすい文章を書きたい。
では、一体どうすればわかりやすくすることができるだろうか。実は、よくいわれている「わかりやすさ」には裏に見えない前提があるように思われる。
それは、「誰にでも」わかりやすいということである。ただ漠然と「わかりやすく」と思っていてはよく見えてこないのは、この「誰にでも」が頭に隠れているからではないだろうか。しかし、「誰にでも」という言葉にも問題がある。
いきなり「誰にでも」の例を考えるのではなく、あなたのよく知っている人に何かを説明をする場合を考えてみよう。そのときにあなたは、友人がどのような知識を持っていて、どのような仕方で物事を理解するのかを考えて説明するだろう。これは、小さい子に説明をすることとは原理的に同じである。子供に説明をするときも、基本的には子供が知っているような言葉や事実をもとに説明をする。
どちらの場合も注意するべきポイントは、説明をしたい相手と自分とで前提としている知識が違うということである。とりわけ、説明する側はすでにわかっているので相手がわからないことを素通りして説明してしまいやすい。だから、説明するときには自分の言葉を客観的に吟味する必要がある。文章であれば、初めて読むような気持ちで、意味が通っているのかを確認する必要がある。
前提知識の違いを意識する、それが説明の基本と言える。
わかりやすい文章という場合、その基本の他に「誰にでも」わかりやすく書く必要がある。問題は、この「誰にでも」という言葉の曖昧さである。
まず、状況から分析してみる。「誰にでも」わかりやすく書かなくてはいけない時はどんな時か。それば、不特定多数の人に書いたものが読まれる時である。文章は、口頭で説明することとは違って多くの人の目に触れることができる。また、明確に誰の目に触れるかどうかを事前に知ることができない。
不特定で、しかも多数。この状況では先ほどの説明の基本が成り立ちそうにない。なぜなら、読んでいる人がどんな知識を前提としているのかわからないからだ。
とすれば、「誰にでもわかりやすく説明する」ことは初めから無理なことである。「誰にでも」ということは「説明する」ことと相容れない。
特に知識を前提とせずに、説明をすればいいじゃないか、という反論もある。確かに、難しい言葉を使わずに専門用語などを避けて説明すれば「誰にでも」が示す範囲に近づくだろう。
しかし、本当に「誰にでも」通じるようにしなくてはならないのなら、日本語で文章を書くということすら禁じる必要があるのではないか。何かを語る文体についても、子供に言い聞かせるように簡単な言葉だけで構成しないといけないかもしれない。しかしそうすると今度は、別の誰かにとってはわかりにくくなる。わかりやすさは、常に誰かのわかりにくさと引き換えに成り立っている。
どのようなわかりやすさを求めているのかを、さらに考え直さなくてはならない。
より多くの人に伝わる書き方だったり、もっとシンプルに書くことだったり普遍的なわかりやすさを志向する方法論はある。しかし、初めから「誰にでもわかりやすく説明する」ことは無理だ。諦めるついでに、「こういう人に伝わればいいや」「誰かにわかってもらえればいいや」とさらに諦めてみるのはどうだろう?
そう思えた瞬間、今まで漠然とした「誰にでも」という範囲がはっきりと定まっていくのではないだろうか。そうしてから、その見えてきた「誰か」に向かって説明を始めればいい。
そもそも「誰にでもわかりやすく」書いていては語れないようなものもある。ものすごくマニアックだが、わかる人には突き刺さるような「わかりやすさ」もある。
「誰にでも」から離れて、「誰か」のために書く時、自分が書きたいことや、書く理由が見えてくる。求めている「わかりやすさ」が漠然としている限りは、自分が本当に書きたいことや、伝えたいことも漠然としたままである。わかりやすさの話を突き詰めると、表現することの根元にも届く議論になる。
とりあえず、「わかりやすく」書きながら、探していけばいいのだと私は考える。伝わることを追求することには意味があるのだろう。
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