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無意味さと戦うこと

限りがあるから生まれる意味

書く前にしばしば「書いても意味がないんじゃないか」と思う。考え始めると書けなくなるので、そのまま書いてしまう。意味のあることをしたいと思う。けれど、自分が今していることに意味があると確信が持てない。

「意味があるから、やる価値がある」と考えるのではなくて、手を動かすから意味が作られるのだと考える。だから、書き始めた瞬間は何も考えていないことになる。何も考えずにポンとタイトルを決めてそこから連想される文章をつなげていく。

意味、という永続的なものを求めなくてもいいのではないか。私の人生に意味があるのか、今していることに意味があるのか。そのような問いの中には人生が終わってもなお残る「意味」というものが欲しいという思いが見える。どれだけ考えてもわからないのだ。

だから、問うことをやめてただ書き始める。それにはそれなりの「意味」があるのではないか。それは、自分が世界に残せるものという永続的なものではない。書いている自分がいなくなってしまったらそれまで、という制限付きの意味だ。それは私のすることと結びついていて、私がしなくなったらなくなってしまう。けれどそれは、立派な意味ではないだろうか。

無意味さと一人で戦わなくていい

無意味さこそが、最大の敵なのではないかと思う。やる事の困難さや、苦痛は意味があれば乗り越えられる。しかし、それに意味がなかったらどうだろう。それは全て理不尽に課されたものであるし、自分がしなくてはらならないという気持ちも起きない。

それでもなお、朝起きた時に「何かしなければ」という気持ちになる。それはたぶん私のためではなく、他の誰かのためにそう思っている。自分は意味がないと思っていても、私を支える誰かにとっては「私が生きている事」は意味があるかもしれない。その気配が体にひしひしと伝わってくる。

意味がないなら、自分で作ればいい。そのように強くあることを誰もに求めることは難しいのではないか。そうではなくて、自分の周りの人がくれる意味にすがり付けばいい。そのようにして得た意味の方が私たちは自然に受け入れることができるのではないか。

無意味さと一人で戦わなくていい。

創作においてもそうである。誰かが読んでくれるから、書く。それだけで私は書いていけるだろう。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!