つり合わない思い
書き手が、読み手のことを考えるときの気持ちは、もしかしたら叶わない片思いのようなものなのかもしれない。と考えた。思いが強すぎて伝えられない。釣り合わないのは分かっている。けれど、書きたい。
書くものは一方的に、誰かに読んでもらいたいと漠然と恋をしている。ほとんど暴力的でさえある。
しかし、書きたいと思ってしまったのだから仕方がない。
そこで人は、つり合っていない思いを隠しながら、なんとか言いたいことを言おうとする術をあれこれ考え始める。なんとか、言わずに思いを伝えようとする。自分の言いたいことを言うために自分を無にする。最初から矛盾しているのに。
何も考えずに、好きといえたらどんなにいいだろう。しかし、そうしたら嫌でも自分と相手の違いが明確になってしまって辛い。
伝えたい自分の思いも、大切だから。なかなか言い出せない。はっきりいえない。
何かを隠したまま書いている感じが常に消えない。本当はもっとまっすぐに書きたいのに、といつも思う。ありのままの自分が自分なのに。なんで、表現なんかを考えなくちゃいけないの? これが私だと、説明不要に自分を証明してくれる何かが欲しい。そしたらもう、これ以上は書かなくていい。
「行動しか信じない」とか、「書かれていることが全て」だとかいう考えに、本当は全力で抵抗したい。
つり合わない思いは隠されている。この世界に、どれだけそうした思いが行き場もなく漂っているのだろう。星のように、人々の間で淡く光りながら空中を漂っているだろう。その光は誰にも見えない。相手には気づかれない。誰もが、そうした思いを抱きながら、また誰かの思いに気づかずに過ごしている。本人の深刻な思いなど知らずに、別の日常を生きてしまっている。
ただ、何も言わなければ伝わらないことも確かである。「つり合わない思い」だけで社会は動かない。
でもそれでいいのだと思う。私は確かに、その思いで動いているから。
いくらか叶わない期待をして、大きすぎる分は人知れずどこかに流してあげる。それが、自分の行き場のない思いに対する弔いなのだ。誰かに、世界に、期待する自分の気持ちも、自分は好きであるから。
書く行為は、思いに対する鎮魂の意味もある。果たされずに消えてしまった思いへの。許されない思いへの。「ないこと」にされてしまった思いへの。最後に行き着く場所が書くことである。
だから書くことができない世界で人は生きていけないだろう。
今日も言葉が、誰にも向けられない自分のためだけの言葉がどこかで生まれて、書き手を慰めている。つり合わない思いで、やっぱり世界は動いている。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!