2021/01/09

音楽を聴きながら、踊りながら文章を書く。キーボードのように、立って文章を打ち込むキーに向かい、言葉を入力していく。文章の「演奏」の景色を想像する。

あまり盛り上がらなそうである。観客は、どうやって見ているのやら。座って、文章が横から滑って行くのを注意して読むのだろうか。文章が本のように並ばずに、電車のディスプレイのように流れて行くのなら、なおさら注意して読まなければならない。

音楽だったら、聞き流す、ということができるが、文章においては意味が飛躍してしまうので、一部分を読み飛ばすと内容があやふやになる。それが逆に、「いい」人もいるかもしれないが。座って、ゆっくり、という読み方ではない読み方をすると文章はどう解釈されるのだろう。学者が論文を書いたり、評論したりゆっくりとした議論ではなく、瞬間的な感触による文章の解釈。それは一体どんなものだろう。

もしかしたら、ただ「読む」のは退屈なので、観客も何か書くかもしれない。詩に対して詩で答えるように。あるいは、動画に気軽なコメントをつけるように。あるいは、お互いに平行にただ一緒にいるだけで、全く関係のない文章を書き綴る観客もいるかもしれない。

大きなディスプレイに、観客と演者の境界もない。ただここで表された言葉が、次から次へと表示されていく。もはや、「読む」という行為も成立しない。言葉が、活字が乱れ飛んでいるので、文章を頭から後ろまでまっすぐ読むことができない。

目の前にある言葉、単語に、次から次へと飛びついて行くだけだ。飛躍による飛躍。「文」脈、というものはもはやない。あるときには、小説のワンシーンになり、ある時には、詩に、ある時には、随筆に、ある時にはチャットに、ある時にはただの備忘録。ある時には、新聞記事。落書き。言葉ではないかもしれない。

そんな、意味がありそうで、意味が溢れかえって、意味が壊れる空間に身を浸すのもいいかもしれない。クラブで音楽が溢れかえって、みんなが訳もわからず踊っているように、言葉のDJがいてもいいかもしれない。その空間では、音もなく、ただキーボードを無機質な音と、呼吸の音だけが淡々と鳴り響いている。誰の言葉かわからず、だれの文体かわからず、誰の伝えたいこともなく、言葉が混ざりあう。

「自己」表現、というが言葉において「自己」とは頼りないものだ。自分の言葉、というがどこまでが本当に自分のものかはわからない。自分だけの言葉を使ってしまえば、それは誰にも通じない言葉になる。

信じられるものはなんだろう。誰かに伝えたいということ。何かを言いたいということ。ただ書いていたいということ。誰かの言葉を受け取りたいということ。自分ではない何かに、身を委ねて見たいということ。そんな原始的な衝動だけでも、言葉は「書く」ことができる。伝わるかどうかは別に。しかし、確実に言葉を生み出す具体的な行動はあり続ける。どんな時でも、書き始めることはできる。その瞬間だけを信じれば、私はこわくない。私は、きっと明日も文章を書いているだろうと、確信できる。私は、この十五分間、言葉を書き続けられるだろうと確信できる。

その確信が、わたしの生活をとても安定させることに気がついた。私は優柔不断で、何をすればいいのか即座に決められない。その割には、どうでもいいことに流されて、散歩にふらりと出て行ったり、訳もなく昼寝をしてしまったりする。そんな時に、ただ「書く」と決められた時間だけでもそれを守ることができるのは、私にとって大きな自信になっている。「書く」ことが、わたしが明日もわたしであり続ける大きな根拠になっている。

そんな信念で、言葉が渦巻く、そして生まれる、混ざりあうあの空間の中に入れば、誰もが「わたし」のまま、「わたしではない」ものと交感しあえるだろう。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!