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書くために必要な自由

noteの記事は、パソコンに直接打ち込んで書いている。書き始めてから、無意識的にコピーアンドペーストを駆使して文章を編集したり、いらないと思った箇所をバッサリと削ぎ落としたりするようになった。パソコン上では大掛かりな文章の組み替えを簡単にできる。

そのぶん、「書いていない時間」が増えた。というのは、書き終わった後にあれこれ文章の構成を考えたり、言い足りないところを書き足したりすることができるようになったからだ。これは、書いているというよりも、読んだり編集したりしている時間と言える。

時々、手書きの不自由さと潔さが恋しくなる。ペンで書いた字では、パソコン上の文字のようにはいかない。よく万年筆で書いているから、消しゴムで消すのではなく二重線で書き損じを消していた。見た目が良くないからあまり消したくない。文字を書くこと、文章を展開していくことに慎重になった。もちろん、紙のノートに書かれた文章を、切り貼りするようなこともしない。ただ、書いている分にはそれでよかった。純粋な書く時間が多く、書いたらそれっきりでよかった。

パソコンでの文章は、扱いやすいから手書きよりもいい、というが本当だろうか。扱いやすいがゆえに、書くことの純粋な体験を損ねてしまってはいないか。すなわち、書く以外に編集したり、読者を意識したりすることができてしまうことが、書くことの純粋な楽しさを奪ってしまうのではないか。自由なことはいいことだとは思うが、自由すぎることはするべきことを忘れさせてしまうのではないか。

自由を謳歌するとは、その中でできることをすべてやり尽くしてしまうことだろうか。そうではない。すべてのことをしようとしたり、すべての機能を使おうとしたりする必要はない。その中で、自分が必要とする分だけの自由を使うことが自由を謳歌することではないだろうか。いくら、パソコンでできることが多いからと言って、文章中に画像や写真をてんこ盛りにして、その上、太字やフォントの変更で文字を加工するような文章はどうだろう。自由というよりも、息苦しい。

様々な便利なものが溢れる世界で、改めて文章を書き始めるなら、それでも紙とペンを選ぶだろう。書くことだけに集中できるから。他の人に読まれることや、良い文章を書かなくてはいけないという気負いや、プライドからも自由になって書けるだろうから。

文章を書くことが、必要としている自由はささやかで慎ましいものである。ゆっくりと一人で考えることができる時間が一時間ぐらいあれば良い。そして、紙とペンがあれば良い。それだけの自由があればいい。むしろそれ以上はいらない。しかし、それでいて書くことが自由にできるということはこの上ない幸福だと思う。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!