書きながら読む
文章を書いていると、読むことが楽しくなった記憶がある。高校生の頃に書き始めてから、本に書かれていることが「自分と同じようにこの本を書いた人もいろいろ考えているんだ」と感動できるようになった。
少し、寂しいのは書くのが好きすぎて読む時間が足りていないということだ。「読まなければ書けない」とよく言われる。ひたすら書いている私ではあるが、書くときには今まで読んできた文章の記憶を頼りにしていることは否めない。むしろ、思いつきだからこそ体に染み込ませた文体が物を言う。無意識に文章が出てくるということは、考える以前に何かに依存して書いているということである。
気休めではあるが、書いているときに自分の文章を読んでいると思っている。書きながら、自分で書いた文章を読んでいる。
これは、読み返すことではなくて、たった今書いているときに読んでいるということである。「読む」というよりも、書いた文章を体験していると言った方が近いかもしれない。客観的に分析するのではなく、書いた感触とか感情とかをそのまま受け取っている感じだ。
冷静に考えれば、書くのが好きな理由は自分の文章が読めるからだと思う。淡々と無表情で書いているが、心の中は言葉を打ち込むたびにうごめいている。その感触が、「自分は書いている」と思わせる。書きながら読まなければ、それが楽しいと思わないはずである。
他の人が書いた文章よりも、自分で書いた文章の方がはるかに心の中に残っている。
問題は、心の中に残っている物をそのまま書くと同じ内容の繰り返しになってしまうことだ。私も今まで書いてきた記事に重複が全くないとは言えない。自分で書いた文章は印象が強く、書いた自分自身の行動にも影響を与えている感じがする。「言葉の力を信じる」と書くと、本当に言葉を信じてみようという気がする。
重複を避けるために、自分が自分の文章から受ける影響は文章の表に出さないようにしているのかもしれない。内容のレベルではなく、文章を構成するときの考え方や、言葉の選び方に影響する。それが、文体というものの正体かもしれない。文体とは、書き手が書き手自身から受け取った体験が再帰的に捉えられた時に作られる。書き続けていれば自然と文体が作られてしまうのだ。
また、書きながら読むというのは自分のスタイルを変革する方向にも働く。今までこう書いてきたから、次はこうしてみようと思うのも、一つの「読み」である。今まで書いてきたものがあるから、試行錯誤ができる。
案外、自分にとって一番ためになるのは自分が書いた文章かもしれない。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!