物忘れ日記 ときどき猫とか本とか映画とか:Vol. 28 言葉のひきだし
久しぶりに本を読む喜びを感じている。頁をめくるごとに発見があり、ココロが豊かになるような気がする。そんな本に巡りあえるのは、人生の幸せのひとつではなかろうか。
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そんな幸せを私に与えてくれた本がこちら。幸田 文 著 『雀の手帖』。
実は、幸田 文さんの著作を読むのは2作目である。1作目は評判となった映画Perfect Daysで、役所広司さん演じる主人公が幸田 文さんの『木』を大切そうに読むのを見て、そして映画の中で古本屋の店主の女性が「幸田 文はもっと評価されていいと思うんだよね」という言葉に興味をひかれて手にとってみた。しかし、このときは完読できず、途中で挫折してしまった。なんとなく読み続けることができなかった。本とも相性といったものがあるのかもしれない。
そして、先日、書店でこの本を見かけ数頁を立ち読み。たちまち引き込まれ、購入して、読み続けている。
『雀の手帖』は、昭和34年(1959年)から西日本新聞に連載されたものが元となっている。歯切れのよい、きりりとした文章のリズムが心地よいが、著者独特の言葉遣いなのか、今では目にしないような表現もいくつかある。「ちゃらっぽこな気持ち」「万事にとぱすぱしている」「ごろっちゃら乱雑に住んできた」等々。ひょっとしたら東京の言い回しなのかもしれない。
別のところで、五木寛之さんのエッセイを読んでいたら、「符が悪い」という言葉が出てきた。世の中、運が悪い、ツイてないという出来事もあるけれども、そんなときは「符が悪かったばい」とつぶやけば、誰を責めるでもなく、ひがむこともなくやりすごすことができるといった内容だった。「符が悪い」というのは、福岡、佐賀など北部九州の方言のようだ。
このエッセイを読んで、「ほんにふのわるかったばい」とその昔父が言っていたことを思い出した。「ふのわるかった」とは「符の悪かった」って書くんだなと思った。そして、たしかに「符の悪かったばい」というと、あまりよくないことが起こったとしても、「ほんなこてね(本当にね)」と相手は相槌をうち、誰を責めることも、恨み言をいうでもなく話を終わらせることができる便利な言葉だった。
NHKの『ファミリーヒストリー』に福山雅治さんが出演されたときのこと。長崎の高校を卒業後、就職した会社を辞めて、東京へ行ってミュージシャンになりたいと福山さんが言い出したら、親族会議になり、そのときの様子を親戚のおじさんが「東京へ行ってミュージシャンになりたかとか言い出して、あのときは馬鹿のすっぺたのと言うてしもうて、ほんにわるかことばしました」と紹介していた。
「馬鹿のすっぺたの」という表現を耳にして思わず吹き出してしまった。久しぶりに聞く長崎の方言。佐賀出身の父が「馬鹿のすっぱったのって言うてから」と言っていたことを思い出した。だいたい、「すっぺた」も「すっぱた」もそれだけでは意味不明。ネットで検索してみたら「すっぺたの、こっぺたの」「すっぱったの、こっぱったの」とペアで使われるものらしいが、そういえば、父もよく「すっぱったの、こっぱったの言うとらんで、さっさとせんね(なんだかんだ言ってないで、さっさとしなさいよ)」なんて言ってたなと懐かしくなった。
という「すっぺた」エピソードを同僚とランチを食べながら話していた。東京生まれ、東京育ちの同僚は方言らしい方言がないから、「そういうの羨ましいです」と言っていた。そういうものかと思いながらレジで会計を済ませ、店の外に出たところでお店の人が追いかけてきた。
あれ?何か忘れ物でもしたかなと思っていると、「さっき話していらしたのが聞こえてきて。ボク、佐賀県の出身なんですけど、九州の方ですか?」と、20代くらいの店員さんが話しかけてきた。「すっぺたの、こっぺたの」に引き寄せられてしまったらしい。
「何か長崎弁でしゃべってみて」と突然言われてもむずかしいときがあるが、九州訛りの言葉を耳にすると思わず懐かしくなる。自然と九州の言葉、佐世保弁が出てくるから不思議だ。
私の頭の中の言葉がしまわれているところには、「九州のことば・佐世保弁」のひきだしがあるらしい。たまには開けて、風を通すとココロが軽くなる気がする。
今も昔も「ふるさとの訛りなつかし」なのである。