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【2024年2月、双葉、大熊、富岡取材その5 双葉駅西住宅】

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<続き>

 双葉駅前の駅西住宅を目の前にして、工事のために進むことが出来ないことが判明した時、僕は怒りの感情に任せて、帰還した田中さんに向けメッセージを送り、予定より少し遅れる旨を伝えていた。これまで歩いた道を逆戻りし、せんだん通りを通って駅へ向かう。

この住宅街も解体。
新山城址。この上の城址公園にある倒れたままの忠魂碑は、
今はもうきちんと立てられただろうか。

 せんだん通りの新山城址前には、かつてのアパートらしき長屋がある。ここは立入規制緩和や避難指示解除がされた後も、解体されることなく今もまだ残っている。震災から13年、朽ちていくがままに放置されている。双葉駅前はどこもかしこも解体されていくなかで、ここはある意味貴重だ。

かつての町営(?)住宅。いや、今も残されているということは、民営なのかもしれない。

 せんだん通りを駅へ向かって歩いていくと、かつて双葉中学への通学路として使われていた歩道橋が見えてくる。この歩道橋は、3.11の地震や2021年2月13日の震度6には耐えたものの、2022年3月16日の震度6には耐えられなかった。

橋が落ちたままの歩道橋。
落ちた橋は線路沿いに置かれたままだ。どこが「復興」なのだろうか。

 見事に崩れ落ちた橋部分は線路脇に置かれ、今もただ両脇の階段だけが取り残されている。「復興」を喧伝する割には、この落ちた歩道橋は放置されたまま、メディアが報じることもない。痛々しいとしか言えない。

双葉駅。
2020年3月の立入規制緩和以降、2022年8月30日に避難指示が解除されても、ステーションプラザふたばの3階は使用されていなかった。いよいよ商工会が3階を使うようだが、果たして除染はしっかりと為されただろうか。ちょっとやそっとの除染では汚染が消えないことは、「おれたちの伝承館」の除染作業でよく知られたことだ。

 双葉駅の待合室で田中さんと落ち合い、いくらか話した後、田中さんのお宅へ移動し2時間ほど話をした。話の内容はさまざま。深く話すのはこの日が2回目であり、自分がどんな考えでこの地へ通っているのかなどの話をした。月末の産業交流センターでのイベントの話なども。

 復興住宅の中も、2階までよく見せてもらった。昨年9月に別の帰還者に話を聞いた時にも思ったが、改めて「帰還より移住」と話した復興大臣の声を裏付ける作りの家に腹が立った。この復興住宅の建設を担当したのはURだが、彼らはどういった人が帰還するかをろくにリサーチしていない。もしくは、リサーチした上であえて無視をしている。つまり、帰還する高齢者向けには一切作られていない。家中にバリアがある。その最たるものは入ってすぐの土間で、大きな段差は車椅子生活には一切対応していないのが明白。それだけでなく、2階へ上がる階段もこの土間にあり、健常者でも1階から2階への移動にはいちいちサンダルなどへの履き替えが必要であり、極めて不便だ。手すりもなく傾斜も急。見た目はモダンな復興住宅だが、その中身は、一切高齢者のことは考えられていない、「若手移住者向け復興住宅」である(言い切れる)。

2時間ほど話して宿へと向かう。
ご覧の通り、モダンな復興住宅。しかし、一切高齢者向けには作られていない。

 …僕がやってることは、大手のメディアでは伝えられない双葉郡の現実を伝えること。絵描きとして、自分なりの表現方法を用いながら、小さな声を拾ってより多くの人に知ってもらうためにどうすべきか、常に試行錯誤している。作品として残し、後世にも伝えていきたいと思っている。当然原発には反対だし汚染水の海洋投棄にも反対だが、決して政治活動をしているつもりはない。あくまでも表現活動であり伝承である。そのことを再確認した。

 いわき行きの鈍行列車に乗り、宿へ戻って部屋呑みをする。毎度、この時間は身体の痛みと闘いながらも至福の時間だ。

<続く>


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